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神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

怪しい来客簿①|色川武大

文学と神楽坂

 今、私の机の上に、昭和六年刊露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。研究、とあるが、たとえばその道に有名な『香具師やし奥儀書おうぎしよ』(和田信義氏著)のように、俗にいうテキヤの実態を解剖かいぼう探究するというような内容ではない。
 ひとくちに露店といっても、縁日をめあてにするいわゆるテキヤ的なホーへーと、一定の場所に毎日出る商人あきんど的なヒラビとあり、この本は地味なヒラビの方に焦点しようてんを当てて記述してある。横井氏自身が五反田ごたんだで古本の露店をやっていたらしい。
 横井さんは本来は画家で、中年で露店商人に転業した。そう簡単な転業ではなかったと察しられる。で、職を失い、資本もなく、生きる方向を求めてウロウロしている大勢おおぜいの人たちに、思いきって露店商の世界に飛びこむための案内人を買って出ている。いかにも世界的な経済恐慌きようこうに明け暮れた昭和初年の刊行物らしい。冒頭ぼうとうに近い一節をチラリと引用するが、情が濃くて、ヴィヴィッドで、なかなか読ませる記述ぶりである。

 案ずるより産むかやすいよ、さあ、いらっしゃい、決心がつきましたら、なに、こわいことも、面倒なこともありゃしませんよ。
 さあ、しかしですねえ。露店で一家がべていかれたのは震災前後でした。我々は欲ばってはいけませんよ。今日不況ふきようの場合、一店の夜店から、一家三人の生活、五人の生活ができるものなどと、そんな考えをおこしてはいけません。露店は一人一個の生活ができるくらいと思うているべきです。一家三人、四人と喰べていくなれば、夜店を、二か所三か所に出して、一家の者じゅうで働くとか、昼、どこぞへ勤めるとか、妻君が内職するとか、してでなければ、とても生活してゆけるものではありません(私とてべつに煙草屋たばこやをしています)。

『露店研究』 横井弘三著。出版タイムス社。昭和6年。
香具師 縁日・祭礼など人出の多い所で商売する露天商人。
『香具師奥儀書』 正しくは『香具師奥義書』。大正昭和初の香具師事情紹介書。和田信義著。文芸市場社。1934年。
テキヤ 縁日や盛り場などで品物を売る業者。
ホーへー 縁日を目当てにする露店
ヒラビ 「縁日」に対する「平日」。転じて、一定の場所に毎日出る露店
ヴィヴィッド vivid。生き生きとしたさま。ありありと。

紅白毒饅頭|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治24年、尾崎紅葉氏は読売新聞に『紅白毒饅頭』の連載を始めます。ここでは架空の玉蓮教会の縁日の様子ですが、毘沙門の縁日がもとになっていると言われています。昔の光景ですが、昔の名前で今の品物を売っていることも多いのでした。たとえば「竹甘露」は水羊羹と同じものでした。
 架空の玉蓮教会は実際は神道大成教に属する新宗教の蓮門(れんもん)教だといわれています。コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は教祖の資格を剥奪し活動を制限。30年以降、教団は分裂し消滅しました。

今日(けふ)月毎(つきなみ)祭日(さいじつ)とかや。玉蓮(ぎよくれん)教会(けうくわい)(もん)左右(さいう)には、主待客待(しゆまちきやくまち)腕車(くるま)整々(せいせい)(ながえ)(なら)べ、信心(しんじん)老若男女(らうにやくなんによ)(たもと)(つら)ねて絡繹(しきりに)参詣(さんけい)す。
往来(おうらい)両側(りやうかは)(いち)()床廛(とこみせ)色々品々(いろいろしなじな)、われらよりは子供衆(こどもしゆ)御存(ごぞん)じ、太白飴(たいはくあめ)煎豆(いりまめ)かるめら文字焼(もんじやき)椎実(しゐのみ)炙栗(いりぐり)(かき)蜜柑(みかん)丹波(たんば)鬼灯(ほゝづき)海鬼灯(うみほゝづき)智恵(ちゑ)()智恵(ちゑ)(いた)化物(ばけもの)蝋燭(らふそく)酒中花(しゆちうくわ)福袋(ふくぶくろ)硝子筆(がらすふで)紙製(かみの)女郎人形(あねさま)おツペけ人形(にんぎやう)薄荷油(はくかゆ)薄荷糖(はくかたう)皮肉桂(かはにくけい)竹甘露(たけかんろ)干杏子(ほしあんず)今川焼(いまがはやき)まるまる(やき)煮染(にこみ)田楽(でんがく)浪華鮨(なにはずし)大見切(おほみきり)半直段(はんねだん)蟇囗(がまぐち)洋紙製小函(やうしのこばこ)、おためし五(りん)蜜柑湯(みかんたう)(くし)(かんざし)飾髪具(あたまかけ)楊枝(やうじ)歯磨(はみがき)(はし)箸函(はしばこ)老女(ばば)常磐津(ときはづ)盲人(めくら)(こと)玩具(おもちや)絵双紙(ゑざうし)銀流(ぎんなが)早継粉(はやつぎのこ)手品(てじな)種本(たねほん)見世物小屋(みせものごや)女軽業力持(をんなかるわざちからもち)切支丹(きりしたん)首切(くびきり)猿芝居(さるしばゐ)覗機関(のぞきからくり)手無(てな)(をんな)日光山(につくわうざん)雷獣(らいじう)大坂(おほさか)仁和賀(にわか)天狗(てんぐ)(ほね)(かしま)しく()()(はや)(たて)て、大道(だいだう)雑閙(にぎわい)此神(このかみ)繁昌(はんじやく)()るべし。
[現代語訳] 今日は毎月の祭日だという。玉蓮教会の門の左右には、主人や客を待つ人力車がでており、整然と把手をならべている。信心の老若男女は袂をつらねて頻繁に参詣する。
道路の両側にある屋台はにぎわい、いろいろな品々をならべている。私たちよりも子供のほうがよく知っているが、太白飴、煎豆、カルメラ、もんじゃ焼き、椎の実、甘栗、柿、みかん、ほおづき、海ほおづき、知恵の輪、智恵の板、化物蝋燭、水中花、福袋、ガラス製ペン、紙製の女郎人形、オッペケ人形、ハッカ油、ハッカ入り砂糖菓子、シナモン、水羊羹、ほしあんず、今川焼、お好み焼き、にこんだ田楽、大阪寿司、値段半分のがまぐち、洋紙製の小函、おためし五厘の蜜柑風呂。櫛、かんざし、髪飾り、楊枝、はみがき、箸、箸函、婆さんの常磐津、盲人の琴、玩具、絵入りの小説、水銀塗り、接着剤、手品の種本。見世物小屋で見るのは、女軽業、力持ち、切支丹の晒し首、猿芝居、のぞきからくり、手無し女、日光山の妖怪、大坂の寸劇、天狗の骨。かしましく呼び立てて、はやしたて、大通りのにぎわいを見ると、この神の活況を知ってもいいと思える。

腕車 わんしゃ。人力車。客を乗せて車夫が引く二輪車。
 ながえ。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。
絡繹 本来は「らくえき」で人馬などが次々に続いて絶えない様子。
市をなす 人が多く集まる。にぎわう。
床廛 とこみせ。床店。廛は店と同じ。商品を並べるだけの寝泊まりしない簡単な店。移動できる小さな店。屋台
太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/ 太白飴
煎豆 豆・米・あられなどを炒って砂糖をまぶした菓子
かるめら 赤砂糖と水を煮立て重曹を加えてかきまぜ、膨らませた軽石状の菓子
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
炙栗 熱した小石の中に入れ加熱した栗。甘栗に近い。
丹波鬼灯 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。

植物のほおづき

植物ほおづき

海鬼灯 うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
海ほおづき
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。e9394230 http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの

化物蝋燭 — 藝海餘波。

酒中花 ヤマブキの茎の髄などで、花・鳥などの小さな形を作り、杯や杯洗などに浮かべると、開くようにしたもの
硝子筆 ガラス製のペン
女郎人形 女郎は本来は「じょうろ」と読み、遊女、おいらん。あるいは単なる女性のこと。女性の形をした人形でしょうか。<a
おツペけ人形 明治20年代、川上音二郎氏はオッペケペー節を書生芝居の幕間に歌いました。自由民権運動の歌で、格好は鉢巻、陣羽織、軍扇でした。同じ格好をした人形でしょうか。
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薄荷油 ハッカ油。主成分はメントール。薬用,香料などに広く使う
薄荷糖 ハッカの香味を加えた砂糖菓子
皮肉桂 ニッキ(ニッケイ、シナモンなど)の樹皮を乾燥したもの。独特の香りと辛味がある。
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。竹甘露
干杏子 ほしあんず。程よい酸味と甘さがある干した果実
今川焼 小麦粉を主体とした生地に餡を入れて焼き型で焼成した和菓子。
まるまる焼 ミニお好み焼き。鉄板にリング状の型を置き、生地を流し込み、魚肉ソーセージが入ってる

http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10922158071.html まるまる焼

田楽 豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに串をさし、調理味噌、木の芽などをつけて焼いた料理。
浪華鮨 なにわずし。おおさかずし。大阪を中心に関西で作られるすしの総称。押しずし・太巻きずし・蒸しずしなどがある。
蜜柑湯 温州みかんの皮を入浴剤として使用する風呂。
老女の常磐津、盲人の琴 常磐津は三味線音楽の流派。三味線を奏でる老女もいたし、琴を奏でる盲人もいたのでしょう。
絵双紙 江戸時代に作った女性や子供向きの絵入りの小説。
銀流し 水銀に砥粉(とのこ)を混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継粉 都筑道夫氏の「神楽坂をはさんで」によれば、割れた陶器をつける接着剤のこと。
切支丹の首切 晒し首があるといって見せたのでしょうか。もちろん嘘の晒し首ですが
覗機関 のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
%e3%81%ae%e3%81%9e%e3%81%8d%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%8f%e3%82%8a雷獣 日本の妖怪。雷とともに天から降りてくきて、落雷のあとに爪跡を残す、想像の動物。
仁和賀 素人が宴席や街頭で即興に演じたこっけいな寸劇
天狗の骨 たぶん動物の骨。谷崎潤一郎氏の随筆「天狗の骨」はイルカだったらしい

ジョウトーヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 2005年、雑誌「かぐらむら」の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では……

feature200506_01_02ジョウトーヤ(果物店)
戦前は、毎日毘沙門天辺りにバナナの叩き売りを出していた人が、神楽坂が気に入って果物屋を開業した。

 この右上のイラストでは「ジヤウトーヤ」。また昭和51年の読売新聞の記事「上り下りも世につれて…」の挿絵でも「ジャウトウヤ」。これらと「ジョウトーヤ」、どちらが正しいの。
 現在の建物では? それは「ニュージョウトーヤ」でした。正しいのはどうもジョウトーヤでした。 1970年代までは旧かなで書いていたようです。以上はこれで終わりで、本題に入ります。

ニュージョウトーヤ

ニュージョウトーヤ

 ジョウトーヤはどれぐらい有名だったか。1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』では

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

と、バナナの叩き売りがでています。

いそっぷ社。なつかしの昭和30年代図鑑。2005年。

『ここは牛込、神楽坂』第3号の「語らい広場」でますだすみこ氏は

「さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!」
 威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり。金魚すくい、カルメラ焼き、スモモ飴、飴細工などの夜店が道一杯に並ぶ。

 色川武大氏は『怪しい来客簿』の「名なしのごんべえ」で

 もう一人、人気者はバナナのたたりであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。せきと一緒に激しく出る痰。喧嘩、口論の時、相手に向かって言う威勢のいい、鋭い言葉。香具師などが品物を売る時の口上。

 また、中村武志氏も「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)で書き、

 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの囗は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」など毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一応十二貫入りが十篭も売れたものだ。

 戦後直後の昭和27年ではジョウトーヤはありませんが、昭和35年はもうできています。その場所はここです。
ジョウトーヤ

 さらに昭和53年には隣のフルーツパーラーと別々の家になっていますが、昭和55年には、ひとつのビルになっています。昭和60年の『神楽坂まっぷ』によれば、ニュージョウトウヤはすくなくとも5階建てでしたが、一階に元禄寿司はまだ入ってはいません。1995年(平成7年)の『神楽坂輿地全図』で元禄寿司がでてきます。一介のバナナのたたき売りだった人が数階のビルをもつまで成功する。うーん、なんというのか、やはり露店はもうかるのでしょうか。儲かる露店のエピソードではここでもでてきます。
ジョウトーヤ2

 

 なお、戦前は盛文堂などがありました。

『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。三遊亭円生氏の「円生 江戸散歩」(集英社、1978年)では…

 坂をあがったところの左に、私の子供の時代には今川焼をうってる店があったんです。勿論、これは屋台店ですがたいへんにはやったもんで。子供時代にこの今川焼を買ってもらった事をおぼえているのですが、のちにその今川焼がなくなってしまったら、今度は“くまこうやき”てえのがはやったんです。うどん粉でこう平ったくしておきまして中へ餡をこうすーっと巻いたもんですが、まあいえば餡巻きですか、これにくまこうやき、という名前をつけた。これが大変繁昌をした。わざわざ遠いところからこれを買いに来たという人があるんですから、ふしぎなもんですね。
 今川焼とは草薙堂でした。さて、問題は熊公焼です。この夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼って?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります。

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。