軽い心|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 昭和42年までには神楽坂二丁目に「メトロ映画館」がありましたが、この年、この「メトロ映画館」と「バーみなみ」「麻雀」はなくなり、「CLUB 軽い心」が開店します。
 この地図は国立国会図書館の住宅地図(発行は住宅協会地図部)から取っています。軽い心(S42とS45)
 さらに昭和44年には「喫茶 軽い心」と「パブ・ハッピージャック」に変わります。インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、昭和43年(1968年)、レストラン「ハッピージャック」開店、昭和44年(1969年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。そして、昭和57年(1982年)には「カグラヒルズ」に変わり、「軽い心」はなくなりました。
 新修新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(新宿区役所、昭和42年)を見ると、昭和42年、この写真が出ています。新修新宿区史(昭和42年)。飯田橋駅の方から見た神楽坂
「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は

 club軽い心。遠景九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
 最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。
「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は
 「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。
「神楽坂まちの手帖」第7号の「神楽坂、坂と路地の変化40年」で三沢浩氏は
 1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。
 また神吉拓郎氏の『東京気侭地図』に随筆「神楽坂の灯」があります。
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。
 昭和47年、加藤倉吉氏がつくった銅版画「神楽坂」もここに掲載します。このころは「喫茶 軽い心」になっています。

銅版画の『神楽坂』。写真ではありません。版画です。

銅版画の『神楽坂』

「カグラヒルズ」に変わった時、壁面看板「各階 名店ぞろいの! カグラヒルズへどうぞ」と売り込み、また、1階はハンバーガーの「ウェンディーズ」になり、しかし、「ウェンディーズ」は日本で撤退し、かわって平成26年(2014年)には「マクドナルド」に、さらに平成28年(2016年)からはドラッグストア「マツモトキヨシ」に変わっています。

軽い心|神楽坂二丁目」への9件のフィードバック

  1. 藤木義広

    軽い心の記録を残していただき、ありがとうございます。神楽坂の情報を末永く残していただくことを期待しています。

    1975年から1979年まで法政大学に通っていましたので、神楽坂は当然にして活動範囲内であり、純喫茶「軽い心」には少なからず通った覚えがありますが、数年前に私の学友にそのことを話してもそのような店があったことを覚えていないのです。一人に確認しただけでは片手落ちだろうと思い、5名以上に確認したのに結果は変わらりません。
    老化現象による記憶の欠如が私に現れたのか、5名に集中したのか、わからなくなっておりました。
    そのようなことがあり、私の記憶の間違いかと思って検索したところこちらを案内され、確かにあったのだなあと安心したのでした。
    でも、デジタルでできているホームページ上のことなので、本当のことはわかりません。
    いや、デジタルだからこそのワビサビであると落合さんも言っておられるので、信じることにするのです。

    また、佳作座という懐かしい名前も出てまいりまして、つながりで「熊谷興業」なる会社もわかりました。そこで明らかになったのは軽い心の正式名称が、【純喫茶信州「軽い心」】だということです。信州という名称がついていたとは当時知りませんでしたが、長野県出身者としては何か縁を感じます。熊谷さんは長野県出身だったのでしょうか。

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    1. yamamogura 投稿作成者

      お返事が遅くなって、すみません。熊谷氏が長野県出身なのか、わかりません。すみません。何かニュースがあればお教えいたします。

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      1. K

        熊谷興業のサイトを素直に読めば、違います。
        神楽坂で成功した喫茶「軽い心」とパチンコ「マリー」をセットにして、信州(上田だったかな?)に進出したのです。昔、信州を車で旅行中にロードサイドに「軽い心」と「マリー」をみつけて、腰が抜けるほど驚きました。
        熊谷一族は福井出身のようです。

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        1. coconut

          今はありませんが、軽い心は上田の隣の東御市にありました。国道18号線沿いにあり、それを見たときに思わずたちより神楽坂のあの広いお店でランチを食べたことをお店の人と語ったのは約40年になります。
          40年前私は家の光会館とリーガルビルの間にある花咲という婦人服メーカーに勤めていました。なので、よく神楽坂界隈にはいきました。またうろ覚えですが、今の理科大の裏通りあたりに焼き鳥でネパールという屋台がありました。とても懐かしい思い出です。

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          1. K

            熊谷一族の熊谷正寿氏(GMOインターネット会長兼社長)の各種伝記によれば、母堂の実家の近くで親戚が「信州マリー」を経営していたとあります。
            https://president.jp/articles/-/20214?page=2
            http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20130701.html
            https://kilosophy.com/business-leader/kumagaimasatoshi
            正寿氏自身も東御市の生まれのようです。「信州軽い心」には触れていません。

            その後、神楽坂の事業を異母兄に譲った正寿氏は事業を興し、今のGMOグループに育て上げたということが分かります。

  2. 松田

    軽い心か。懐かしいなあ。ランチ後に必ず立寄ってお茶していました。暗い店内のボックスシートで横になってくつろいでいると、寝ないでくださいと店員さんに注意されましたねえ。

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  3. 洋子

    一度だけ行ったことがあります。夫と付き合っている時に。
    店内は薄暗くて、ボックスタイプのシートの背が高くて隣が見えにくく、ここは本当に喫茶店なのかと思いました。少しビックリしましたが落ち着ける雰囲気でとても記憶に残っています。懐かしい…

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  4. 吉井博子

    昭和34年、神楽坂で生まれ育った者です。
    足袋の赤井さん、佳作座、山田文具店、田原屋、強烈に懐かしい思いです。幼稚園は市ヶ谷のほうに歩いて行った「さゆり倶楽部」と言うカトリックの幼稚園でした。雨が降ると理科大の建物の中を通って通った思い出です。5のつく日には毘沙門天で縁日を楽しみました。。
    父が軽い心/バーここーのところで、開業医(神楽坂医院))をしていた時期があるのですが、残念ながら地図には載っていませんでした。本当にタイムスリップさせていただいてありがとうございます。

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  5. 伊澤京子

    昭和38年生まれの神楽坂育ちです
    軽い心は中学生の頃 大人気分で良く行っていました
    おもちゃ屋のかやのき 今のよしやの場所にあった
    映画館の武蔵野館 特別な時に行く田原屋 
    何故かどこの店も遊び場させてもらえた時代
    神楽坂の一番良い時代だったのではと懐かしい気持ちです

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