水谷八重子|舟橋聖一

文学と神楽坂

舟橋聖一氏の『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)の一節『水谷八重子』です。

 水谷八重子のことは四十年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古(げいこ)の日だが、八重ちゃんの書いた「舞台ぐらし五十年」(「潮」四月号)によると、初舞台は大正二年とあるから、私の会う前が、まだ十年ほどあるのである。
 当時私は旧制高校時代だったが、私より一つ若い八重ちゃんのほうが、はるかに年上で、舞台ずれ、世間ずれしていたように思った。それもそのはず、初舞台以来、「闇の力」のアニューシヤ、「アンナ・カレーニナ」のセルジー、「人形の家」のノラ、「青い鳥」のチルチル、チェーホフ「かもめ」のニーナ、「野鴨」のヘドイッヒなどの舞台経験をして、すでに水谷八重子の名は天下に鳴りひびいていたのである。
 が、それにしても、なんという我がままで横暴で、人を食った女優だろうと、内心おどろいたものだ。「殴られるあいつ」の脚色は、吉田甲子太郎氏で、演出は小山内薫氏、あいつの役は、汐見洋だった。
 舞台稽古だから、客席は関係者ばかりで、どこへでも自由に(すわ)れる。この会館は寄席風で、花道はついているが、客席は(ます)になっていた。私は舞台ばなの、ごく近い桝に陣取って一日がかりで見物した。
 あのころの八重子は、大ぜいの男・男・男の中にまじって、汗まみれになったものの、どんな男をも傍へ近寄せない誇りがあって、それがひどく驕慢(きょうまん)に見えたのだろう。しかし。驕り高き女というものは、若い男にはすばらしく魅力的である。八重子の人気が、沸騰するのも無理ではなかった。
 やがて初日があき、私は一度ならず見物に行った。三度目には、紀伊国屋書店田辺茂一をさそって行った。彼はまだ慶応ボーイだったが、一目で八重ちゃんに()れて、さっそく結婚を申込んで、ことわられたという話がある。このとき、求婚の使者に立ったのが、田辺の姉さんであったことは、最近まで知らなかった。昭和三十九年三月末、新宿に紀伊国屋ビルが竣工(しゆんこう)し、その五階にある紀伊国屋ホールの初開場に、水谷が「島の千歳」を踊った時、はからずも楽屋でその話が出て、姉さんが昔話を披露したことから、表面化した。八重ちゃんも思わず微苦笑して、
 「こういう証人に出て来られては、アウトですね」
 と、四十年の昔を思い出す風であった。しかし、大正末期における水谷の存在と一慶応ボーイ田辺とでは、いわゆる吊鐘(つりがね)に提灯の感なきにしもあらずで、私は彼の求愛を、およそ大それた注文で、振られるのが当り前と思っていた記憶がある。が、その(かん)四十年相たち候のち、自分の店の自家用のホールに、その人を招いて、一卜幕踊らせた彼は、やっと長い心の欝屈(うつくつ)を晴らすことが出来たろう。

一つ若い 舟橋氏は19歳、水谷は18歳
 ます。劇場・相撲場などで、方形に仕切った観客席
驕慢 きょうまん。おごりたかぶって相手をあなどり,勝手気ままにふるまうこと
紀伊国屋書店 1927年(昭和2年)1月22日創業。創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者で文化人。
竣工 工事が完了して建物できあがること。竣成。
島の千歳 しまのせんざい。おめでたい時に舞う長唄
吊鐘に提灯 形は似ていても重さに格段の開きがあり、外見はどうあれ、中身が似ても似つかないものの喩え
相たち候 あいたちそうろう。「時が立ちました」の古風な表現
一卜幕 ひとまく。幕を上げてから下ろすまでに舞台で演じる一区切り
欝屈 うっくつ。気分が晴れ晴れしない。心がふさぐこと

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