内から使のある毎に、此から上下で応対するのは例であるのに、今夜に限つて、渠は一寸と言ふ。頗る不審に堪へなかつた。 不審に堪へなかつたのは、他聞を憚るやうな内密の用事のあるべきを信ぜぬからである。爾云ふ事は無い、とは思ひながら、如何なる事が降つて湧くかも料られぬ人の世である、もしや凶事などではあるまいか、と不図考へると、何彼無しに慌忙しく階子を下りて、上框に出て、再び、何だ、と訊ねた。 渠は益意有りげの気色で、 「少々申上げたい事が………。」 と自分の背後に居並ぶ此家の衆に聞かせたくない風が見える。此時自分の胸は異しく轟いたのである。さて渠を入口の一室に導いて、三たび、何だ、と訊ねた。 駈けて来たのか、渠は頻に過む息の下から、 「西木君の容躰が宜くございませんから、早速お帰りくださいまし。」 と言ふ声は顫へてゐる。 |
[現代語訳]家から使いがあるたびに、ここから上下で応対するのは普通だが、今夜に限り、彼は「ちょっと」といった。これはすこぶる不審にたえない。 不審にたえなかったのは、他聞をはばかるような内密の用事はあるとは信じてはいないし、そんなものはない、とは思うが、いかなることが降って湧わくかもわからない。これが人の世だ、もしや凶事などではないが、とふと考える。なんとなく、あわただしくなってきて、階段をおりて、上がりがまちにでて、また「なんだ」と訊ねた。 彼はますます意味があるような気色で、 「少々申しあげたい事が………。」 と自分の背後にいるこの家の沢山の人には聞かせたくないようだ。このとき自分の胸はあやしくとどろいたのである。そこで彼を入口の一室に導き、三回目の「なんだ」と尋ねた。 駆けてきたのか、彼はしきりにはずむ息の下から、 「西木君の容体がよろしくごさいませんから、早速お帰りくださいまし」 と言う声は震えていた。 |
不審 疑わしく思うこと。
他聞を憚る たぶんをはばかる。他人に聞かれては困る。世間に知られるとさしさわりがある。
内密 表ざたにしないこと。ないしょ。内々。
何かなしに なんとなく。理由はわからないが。
上框 玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材。右図を。
心ありげ こころありげ。意味有りげ。いみありげ。何か特別な意味がありそうな様子。言葉に表さない含みがありそうな様子
衆 人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。多くの人。
異しく あやしく。怪しく。妖しく。不気味な感じがする。神秘的な感じがする。
過む はずむ。弾む。勢む。呼吸が激しくなる。荒くなる。
西木 西木秋葉。実際は「小栗風葉」氏のこと。
「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」 と自分が渠等の草稿を見て意に満たぬ所に到ると、一抹の朱棒を吃はしながら毎に絶叫する、其絶叫を以て渠の言を難じた。 西木と云ふは、我門下の秋葉である。渠は二週間も前から胃弱を病むで、服薬をしてゐるのであるが、此二三日は食が痞へるとて、粥を食つて、坐臥してゐたのではないか。今日の午後まで異常の無かつたものが、脚気衝心や、脳充血のやうに、人を呼立てるほどの劇変のあらう道理が無い。 「容躰が好くない」、などゝは、文字上の意義に於てこそ軽いが、実際は、「死に瀕す」と云ふやうな場合に用ゐられる、容易ならざる語である。誰大病直来い、といふ電報の文は、多く臨終の後に用ゐられる気安文句に過ぎぬ。容躰が好くないとは、九死と云ふのを人に知らせる隠語である。 自分は然う解釈したから、夢かと驚いた。 |
[現代語訳]「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」 自分が誰かの草稿を見て意に満たない場所を発見すると、朱筆で打撃を与えつつ、常に絶叫する。同じ絶叫をもって彼の言葉を非難した。 西木という奴は、つまり、わが門下の秋葉だが、二週間も前から、胃弱でやすみ、服薬をしていた。この二、三日は食がつかえるといい、おかゆを食べて、ごろごろしていたのではないか。今日の昼すぎまで異常のなかったものが、脚気衝心や、脳充血のように、人を呼立るほどの劇変のある道理はない。 「容体がよくない」などとは、文字上の意義こそ軽いが、実際は「死に瀕する」というような場合に用いる、容易ではない言葉だ。「これこれが大病すぐ来い」という電報の文は、多く臨終が終わってから用いられる気安めの文句に過すぎない。容体がよくないとは、難しいというのを人に知せる隠語である。 自分はそう解釈したから、夢かと驚いた。 |
一抹 いちまつ。絵筆のひとなすり、ひとはけの意味から。ほんのわずか。かすか。ここでは一回の意味でしょう。
朱棒 朱筆。朱墨用の筆。朱墨の書き入れ。
吃わす くらわす。食らわす。他人に打撃を与える。「吃」は「どもる」「食べる」の意味。
絶叫 ぜっきょう。出せるかぎりの声を出して叫ぶこと。
痞える つかえる。胸がふさがったような感じになる。
坐臥 ざが。座臥。坐臥。すわることとねること。
脚気衝心 かっけしょうしん。脚気に伴う心筋障害。心臓肥大と脈拍数増加が著しく、急性心不全を起こすこともある。
脳充血 脳の血流量が増加した状態。精神的興奮、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と心臓病、肺気腫、激しい咳嗽などが原因の静脈性鬱血がある。
瀕す ひんす。瀕する。よくない事態がすぐ間近にせまっている。さしせまる。
九死 きゅうし。ほとんど死を避けがたい危険な場合。「九死に一生を得る」とは危ういところで奇跡的に助かる。
隠語 いんご。特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。例えば「たたき」は強盗、「さつ」は警察など。
「如何したのだ?」 と我ながら震声で鋭く問詰めた。 渠は四辺を眗して、極めて小声に、 「吐瀉を始めました!」 吐瀉! 秋葉は既に死せり、と聞くも同じやうに、犇と胸に徹へたが、忽ち猛然として、設へば、傷を負ひたる武者の勇を鼓したるやうに、 「善、行け! 医者は?」 四辺に忍ぶ声ながら、渠の耳には破鐘の如く響いたであらう。渠は走りかけた身を棯向けて、 「K氏が参りました。」 と自分の頷くのを見るより疾く飛むで行つた。人を驚かすまい、と自分は故に従容として席に復ると、 「客来かね。」 と客の一人は訊ねた。 「親類のものが来たので、行かずはなるまい。」 と何気無く答へて、取散してある煙管や、手巾、懐中物などを手早く収めた。 来たのは親類のものか。天下に「死」を親類に有つ人があらうか、口実も有らうに、親類とは忌はしいことを言つたものである。無心ながらも親類と言つたは、這箇「死」を歓迎せねばならぬ非運の兆ではあるまいか、と想はれた。 自分は綽々として身支度をした意であつたが、有繋に常ならぬ所が見えたか、一座は物も言はずに目を側めて、自分の心を読まむとする気色であつた。 就中常から鋭いE氏の眼は烱〻と晃いた。言へば必ず答へると云ふH氏の舌さへ動かなかつた。渠等は何と無く疑つたに相違ないのである。 |
[現代語訳]「どうしたのだ?」 と我ながら声は震えてるが、するどく問い詰めた。 彼はあたりを見回して、極めて小声で、 「吐瀉を始めました!」 吐瀉とは嘔吐と下痢だ! 秋葉は既に死亡した、と聞くのも同等で、ひしひしと胸にこたえた。だが、たちまち猛然として、まるで傷を負った武者が勇気をだしたように、 「よし、行け! 医者は?」 あたりを忍ぶ声だったが、彼の耳には割れ鐘のごとく響いたであろう。彼は走りかけた身をねじむけて、 「K氏がまいりました。」 と自分でうなづくのを見るより速く飛んで行った。人を驚かすまい、と自分はことさらに落ち着いて席に帰ったが、 「客が来たのかね。」 と客の一人は訊ねた。 「親類のものがきたので、行かずはなるまい。」 と何気なく答えて、あちこちにあったパイプや、ハンカチーフ、懐中物などを手早く収めた。 来たのは親類のものなどあるがない。「死」は親類の人ではない。口実である。しかし、親類とは忌まわしいことを言ったものである。気が利かないけれど、親類と言ったのは、この「死」を歓迎せねばならない非運のきざしではあるまいか、と思ったのだ。 自分はゆとりはあって身支度をしたつもりだったが、さすがに常ならぬところが見えたのか、一座は物もいわずに目をそばめて、自分の心を読もうとする気色があった。 なかでも常から鋭いE氏の眼はぎろぎろときらめいた。言えば必ず答えるというH氏の舌さえ動かなかつた。彼らは何となく疑ったに相違ないのである。 |
眗す 見回す・見廻す。まわりをぐるっと見る。
吐瀉 はいて、くだすこと。嘔吐と下痢。
犇と 外部からの働きかけが身や心に強く迫ったり感じたりする様子。 寒さがひしと身にこたえる。寂しさがひしと胸にせまる。
徹える 胸にこたえる。心に強く感じる。身にしみる。
破鐘 われがね。ひびの入った釣鐘。その音から、濁った太い大声。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
従容 しょうよう。ゆったりと落ち着いているさま
綽々 しゃくしゃく。落ち着いてゆとりがあるさま。
側める そばめる。横へ向ける。横目で見る。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
烱烱 けいけい。炯炯。(目が)鋭く光る。
晃く きらめく。煌めく。光り輝く。きらきらする。