(二) 自分は門を出ると駈出した。寺町の往来は納涼の士女が織るやうで、撞着りさうでならぬから、衝と岩戸町へ切れて、一直線に道を急いだ、気圧は低く、蒸すやうな暑熱、銀砂子ほど星はあるが、渠泥を引攪旋したやうな天の黒さに、西北の雲間から薄紫の電光が頻に閃いては、道端の「ゆであづき」の赤行燈の辺に消える。 一町ばかりの砂礫道を蹂躪つて、黒白も辨かぬ芥坂を駈上つた。大信寺横町の闇を探つて、倉皇と長屋門を入ると、はや跫音を聞着けて、春葉は燭を秉つて玄関に待つてゐた。 渠の顔を見ると斉しく、 「西木は如何した。」 と訊ねると、 「奥の四畳半に。」 と案内した。 玄関側の八畳の間にははや蚊帳が釣つてある。これは祖父母の寝所である。然し両箇とも次の間に額を鳩めて、憂愁は満面に溢れてゐた。 開放した椽頭から涼しい風が蚊帳に戦いで、枕に通ふ虫の音も聞える。平生は庭の正面の百日紅の枝に燈籠を釣るのが、今夜は闇で、葉越に星の数が見えるばかり。台所には三分心の玻璃燈が黯澹として、婢どもの囁く声がする。妻と乳児とは午後から生家へ行つて、留守であるから、家内は森閑として火の消えたやう。祖父母は自分を見ると、這出るやうに左右から詰寄せて、西木が大変だよ。如何だらうねえ。と酷く慌てゝゐた。自分は立ちながら、 「心配することは無いよ。」 と言捨てゝ、椽を折曲つて、正面の一間の扉を啓けた。 取片附いた四畳半の片隅に、茶に染返した木綿更紗の二布蒲団を敷いて、裾の方に手織柳条の木綿の掻巻を襞して、其に細削けた脛を載せて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面に枕を外しかけて、気怠さうに秋葉は横はつてゐた。 |
[現代語訳]自分は門をでると駆け出した。寺町の往来には納涼の男女がいるようで、突き当たるのが怖く、そこで岩戸町のほうに曲がって、あとは一直線に道を急いだ。気圧は低く、蒸むような暑さで、銀砂子ほど星はあり、どぶの泥をひっかきまわしたような天の黒さがあった。西北の雲間から薄紫色の稲妻がしきりにひらめき、道端にある「ゆであづき」の赤行燈のあたりで消えていった。 一町ばかりの砂利道を踏みにじって、真っ暗な芥坂を駈け上がった。大信寺横町の闇を探り、そそくさと長屋門をはいると、はや足音を聞きつけて、春葉はロウソクをとって玄関に待っていた。 彼の顔を見ると同じことだが、 「西木はどうした。」 と尋ねると、 「奥の四畳半に。」 と案内した。 玄関わきの八畳の間には蚊帳が速くも釣ってある。これは祖父母の寝所である。しかし二人とも次の間で額をあつめて、憂愁は満面にあふれていた。 開放した縁側から涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通う虫の音も聞こえる。いつもは庭の正面で百日紅の枝に灯籠を釣るのだがが、今夜は闇で、葉を越えて星の数が見えるだけ。台所には三分心のランプが暗く、女性たちのささやく声がする。妻と乳児とは午後すぎから生家へ行き、留守である。家の内部は森閑として火は消えたよう。祖父母は自分を見ると、はいだしてきて、左右から詰め寄り、西木が大変だよ。どうだろうねえ。とひどく慌てていた。自分は立ちながら、 「心配することはないよ。」 と言い捨てて、縁側を曲がって突き当たりの一間の扉を開けた。 取り片付いた四畳半の片隅に、茶色に染め返した木綿更紗の大きな蒲団を敷き、すその方に手織で柳条の木綿の夜着を着て、細くこけたすねをのせて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面には枕をはずしかけて、けだるく秋葉は横になっていた。 |
寺町 通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼み客が多くなっていたのでしょう。
織る いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着 どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町 右図を。
銀砂子 ぎんすなご。銀箔を粉にしたもの。絵画や蒔絵などで使う。
ゆであづき ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町 約109メートル。
黒白 あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂 ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺 新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町 おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇 そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門 長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家(右図)も非常に簡単な長屋門でした。
秉る とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に 以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁 うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
椽 和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。縁側。
百日紅 サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠 とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心 幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹 暗澹。薄暗くはっきりしない。
婢 ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗 ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布 ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織 ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条 しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻 綿入れの夜着。
襞 ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける 「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞 名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。