一散に寺町通へ出て、馴染の西洋食料店に寄つた。 店口に突立つて、 「葡萄酒は有るか。」 と極めて大束 に、極めて慳貧に、我ながら山の手のお客であつた。愛嬌者の亭主は直に笑を含むで、 「今日は葡萄酒? お珍しいぢやございませんか。」 毎々這麼事が有られて耐るものかと思つた。 「まだお廉いのもございますが、旦那が召上りますのなら。」 と自ら精撰と称する一瓶を差出して、 「旦那は多度召上らないから困ります。奥様と御一所に召上つて、一週間に一本ぐらゐは御空け下さいまし。」 と渠は抵掌して笑つた。 自分は此に来ては能く仇口を説く、渠も調子を合せて、屡這麼事を言ふ。それを決して無礼とは思はぬのであるが、今夜ばかりは些ばかり愚弄されたと思つた。 洒落を言ふのも、言はれるのも、自分は大の所好である。けれども今は其余裕が無かつたから、脇も附けずにその瓶を引摑むで、 「ぢや之を持つて行く。」 (三) これから帰る途上も考へたのである。渠のは虎列拉などゝ可忌しい名の附く症ではない、類似でも、疑似でもない。畢竟腸胃加答児の稍劇いのである。一命に関るやうなことは万々無い、然し、あのまゝ飲食が絶えて、明日にもなり、時候でも悪かつたらば、或は変症せぬとも限らぬ。設や変症せぬまでも、衰弱し果てゝ………噫それも計られぬ。一髪の機は今夜の内! 此葡萄酒を如何か納めて、少しでも持直させたい。此葡萄酒で、と瓶を取直して両手に持つと、新に支へた手頭に感じた硝子の冷たさ! それが殆ど秋葉の脈を診た時のやうに覚えた。何故とも知らず、自分は慌忙しく瓶の他の所に触れて見た。脈は無くて、いとゞ冷かつた!! それに驚いて駈出した。 |
[現代語訳]わき目もふらず寺町通りへ出て、馴染の西洋食料店に立ち寄った。 店口につっ立って、 「葡萄酒はあるか」と極めて大ざっばに、極めて無遠慮にいった。我ながら山の手のお客だった。愛嬌者の亭主は直接、笑いを含んで、 「今日は葡萄酒ですか? お珍しいじゃございませんか。」 いつもいつもこんなことがあると、たまらないと思った。 「まだお安いのもございますが、旦那が召上がりますのなら。」 と自ら精撰と称する一瓶をさし出して、 「旦那はたんと召し上がらないから困ります。奥様とごいつしよに召し上がって、一週間に一本ぐらいはおあけくださいまし。」 と彼は手をたたいて笑った。 自分はここに来てはよく無駄話をして、彼も調子をあわせて、しばしばこんなことをいう。それを決して無礼とは思わないのだが、今夜ばかりはちょっと愚弄されたと思った。 洒落をいうのも、言われるのも、自分は大の好きである。けれども今はその余裕がなかったから、なにもいわす、その瓶をひっつかんで、 「じゃこれを持って行く。」 (三) これから帰る途中で考えたのである。彼のはコレラなどという、いまいましい名前がつくものではない。類似でも、疑似でもない。つまり胃腸炎のやや激しいのである。一命にかかるようなことは万に一もない、しかし、あのまま飲食が絶えて、明日にもなり、時候でも悪かったらば、あるいは変症しないとも限らない。よしや変症しないまでも、衰弱し、はては………ああこれもわからない。一髪の機会は今夜だけだ! この葡萄酒をどうか飲んで、すこしでも持ち直したい。この葡萄酒で、と瓶を取り直して両手に持つと、新らに支えた手先に感じたガラスの冷たさ! それがほとんど秋葉の脈を診た時のように感じた。なぜかはわからない。自分はあわただしく瓶の他の場所に触れてみた。脈はなく、とても冷たかった!! それに驚いて駆け出した。 |
一散 いっさん。逸散。わき目もふらず一生懸命に走ること。
寺町通 横寺町と通町町の両方。
店口 みせぐち。店の間口。
大束 おおたば。細かいことにこだわらないさま。おおまか。おおざっぱ。
慳貧 物欲が深くて、物惜しみをする。
愛嬌者 あいきょうもの。滑稽さ・かわいらしさがあって、皆に好かれている人や動物。
精撰 特によいものだけをえらび出すこと。えりぬき。よりぬき。
抵掌 手をたたく。
仇口 あだぐち。あだくち。徒口。むだばなし。余計な言葉。
愚弄 ぐろう。人をばかにしてからかう。
脇も附けず 脇付は「手紙で、あて名の左下に書き添え、敬意を表す語」。「(敬語などは)なにもなく」でしょうか。
コレラ コレラ菌の経口感染による急性消化器感染症。日本には文政五年(1822年)初めて侵入。死亡率が高いためコロリともいった。
カタル ドイツ語はKatarrh。英語はCatarrh。粘膜細胞に炎症が起きて、多量の粘液を分泌する状態。現在の病名は「炎」に。「腸胃カタル」は「胃腸炎」
万々 ばんばん。どうしても。まんいち。けっして。万に一つも。
変症 へんしょう。病気の状態が変わること。
よしや 縦や。たとえ。かりに。
計る 時間や程度を調べる。心の中で推定する。
一髪 ごくわずかのすき間。
いとど いよいよ。一層。ますます。 ただでさえ~なのにさらに。そうでなくてさえ。