文学と神楽坂
「西木、我が葡萄酒を買つて来た。わざ/\買つて来たのだから、飲まなくちや可かんよ。」
後では能く記臆せぬが、「我の深切が無になるから。」と言つたやうに覚える。思へば、寔に因無いことを言つた。渠の為にと思ひに思つた葡萄酒も、是では渠に取つて正しく感情上の大毒薬であつた。自分は浅ましくも我囗から恩を売つたのである。
然無きだに、渠は我家の厄介になる上に、恁く病を得て、迷惑をば懸けるのを、無上に気毒に思つてか、四五日前から、寐ろ/\と人々は勧めたのに、然ほど不快ことは無いと言張つて、病を推してゐたのである。人目を忍むでは玄関に臥してゐたのを、例の午睡とばかり想つてゐたが、其実太義であつたのであらう。けれども病は気色に見はれなかつた。今日の午後ばかりは、竟に堪へかねて此間に仆れたのであるが、渠は心の中では、之を非常に気毒に思つてゐるのである。それさへあるに、自分は一瓶の葡萄酒に恩を売つて、我と我口から深切を衒つた。
自分は平生門生に向つては、毫も仮借無く、其言ふことは極めて無愛相で、自ら居ることは最も高飛車である。弟子は子も同じものを、厳に過ぐるは教ふるの途でない、それは自分も心得てゐる。心得てゐながら恁為るには理が無くては称はぬ。理が有る、大いに有るのである。
(四)
凡そ天下に小癪に障るものは、近来後進とか称へる修行中の小説家である。渠等の礼を心得ぬことは、山猿よりも甚しい。一面識も無いのに卒然と剌を通じて、懐中から何か書いたものを出して、御覧を願ひたい、と言つて其日は帰る。後から直に手紙を寄来して、早く添削を願ひたい、添削が出来たら、何処へでも御世話を願ひたい! 驚かざるを得ぬ、呆れざるを得ぬ。
又は一面識も無いに、原稿に状を添へて、「方今の文壇其人多しと雖も、不肖の仰ぎて師と恃むべきもの、先生を措いて、其誰か有らむ。」と先嬉しがらせて、これほどに思ふものを、添削して下すつたとて、万更罰も中りますまい、と云つたやうな口説を書いた末が、可成く早く手を入れて返送を願ふとしてある。それで中に二銭の郵便切手が一枚入れてない。いやもう、実に大詩人ほど凄いものはない。
此等は未だ可い。二度でも三度でも斧正を辱なうして、何か恁か世間に紹介までしてもらつて、覚束無くも独歩が出来るやうになると、さあその御無沙汰! 近火があらうが、それから十日経たうが顔を出すでもない。厳いのは、年始状をさへ寄来さぬのがある。渠も自言ふ如き詩人であるなら、一時一日に三度も潜つた十千万堂の格子、此雨には如何に朽ちつらむ。此月には門の梅香如何に匂はむぐらゐは、思に浮べさうなものであるに。
然し是も未だ可い。現在立派に門下生と称して、草稿も持て来れば、巨い御世話にもなつてゐながら、陰へ廻ると、先生を同輩に遇つて、其名を呼捨にしたり、「あれ」がなどヽ云ふ代名詞を用ゐたりして、其人物を貶し、其文章を罵るのがある。
これは自分の門に往来する後進の士のみではない、何方も然のやうである。考へて見れば、後進が野面で、薄情で、不埒と限つたのでもなくて、究る所は先生の徳が薄いからかも知れぬ。
|
[現代語訳] 「西木、おれが葡萄酒を買って来た。わざわざ買って来たのだから、飲まなくちゃいかんよ。」
後ではよく記憶しないが、「おれの親切がゼロになるから。」と言ったように思える。思えば、まことにくだらないことを言った。彼のためにと考えに考えた葡萄酒も、これでは彼にとってはまさしく感情的には大毒薬であった。自分はあさましくも自分の口から恩を売ったのである。
それでなくてさえ、彼は我が家の厄介者で、こんな病気にかかり、迷惑をかけるのは、この上なくきまりが悪いと思ったのか、四五日前から、寝ろ寝ろと人々は勧めたのに、さほど悪いことはないと言い張り、病を押してやっていたのである。人目を忍んで玄関で横になり、いつもの昼寝さと、思っていたが、その実、億劫だったのであろう。けれども病気は体調にあらわれなかった。今日の午後には、ついに堪えかねてこの部屋にたおれたが、彼は心のうちでは、これを非常にきまりが悪いと思っているのである。それなのに、自分は一瓶の葡萄酒で恩を売って、我と我が口で親切の押し売りをしたのである。
自分はいつも門生に向かっては、いささかも仮借なく、その言うことには極めて無愛相で、立ち振る舞いについては最も高飛車である。弟子は子供と同じであり、一定よりも厳密すぎる場合、もはや教える道でないのである。それは自分も心得ている。心得ていながらそうするのには理由がなくてはいけない。理由がある、大いにあるのである。
(四)
およそ天下で生意気なものは、近頃、後輩と称する修行中の小説家である。彼らの礼儀については心がけていないことは、山猿よりもはなはだしい。一面識もないのに、ぬうと名刺を出して、懐中から何か書いたものを出して、どうかこれを読んでほしい、と言ってその日は帰り、後から直接、手紙をよこして、早く添削をお願いしたい、添削ができたら、どこそこの出版社に御世話を願いたい! 驚かざるを得ない、呆れざるを得ない。
または一面識もないが、原稿に礼状を添えて、「現在の文壇では人が多いといえども、不肖の私が仰ぎて師と思うべき者は、先生をおいて、誰がいますでしょうか。」とまず嬉しがらせて、これほど思うものを、添削してくれるのもを、万更罰もあたりますまい、というような口説き文句を書いた末に、なるべく早く手を入れて返送をお願いしたいとしてある。それで中に二銭の郵便切手が一枚でもはいっていない。いやもう、実に大詩人ほどすごいものはない。
これらはまだいい。二度でも三度でも筆を加えて、どうにか世間に紹介までしてもらって、おぼつかなくとも、ひとり歩きができるようになると、さあそれから長い間、訪問しない。火事が近くにあっても、それから十日たとうが顔を出すでもない。厳しいのは、年始状さえもよこさない者がいる。彼も自らいう詩人であるなら、一時は一日に三度も潜った十千万堂の格子、この雨にはどうして朽ち果てるのか、今月、門の梅香はいかに匂うのか、それぐらいは、頭に浮かぶそうなものだが。
しかし これもまだいい。現在立派に門下生と称して、草稿も持参し、御世話にもなっていながら、陰へまわると、先生を同輩に扱い、その名前を呼捨てにしたり、「あれ」がなどという代名詞を用いたりして、その人物をおとしめし、その文章をののしる人がいる。
これは自分の門に往来する後輩の士のみではない、どこでもそのようだ。考えて見れば、後輩が野面で、薄情で、不埒と限ったのでもなく、つまる所は先生の徳が薄いからかもしれない。 |
大詩人 |
野山嘉正氏の「近代小説の成立」(岩波書店、1997年)では「“大詩人”はもちろん軽侮の裏返し、ただし、ここには詩人ということばそのものへの何がしかの抵抗が含意されている。詩人ということばが漢詩人を指すばかりでなく、文明開化以後の新体詩人をも範囲に入れており、とりわけ大詩人よ出でよ、というかけ声が当代の批評家が共通して持ち合せていたものだったから、むしろ文学者気どりという意味合いにとる方がよい。」と書いています。 |
因無い よしない。由無い。そうするいわれがない。理由がない。
恩を売る 相手からの感謝や見返りなどを期待して恩を施す。
然無きだに さなきだに。それでなくてさえ。
恁く そんな。
無上に この上もなく。最もすぐれている。
気の毒 きのどく。相手の苦痛や困難なさまに同情して心を痛める。相手に迷惑をかけてすまなく思う。心を痛める。迷惑する。恥ずかしい。きまりの悪いこと。ここでは「相手に迷惑をかけてすまなく思うこと」でしょう。
推す 判断する。推し量る。
太義 おそらく「大儀」。疲れて気が進まないこと。
気色 顔などに現れた、心の内面の様子。快、不快の気持ち
衒う てらう。ことさらに才能や知識をひけらかす。
仮借 かしゃく。許す。見逃す。
高飛車 たかびしゃ。相手に対して高圧的な態度をとること。
過ぐる 「過ぐる」は通り過ぎる。「選る」は、すぐれたものを選び出す。
後進 学問・技芸などで先人のたどった道をあとから進む人。後輩
卒然 そつぜん。だしぬけに。にわかに。突然。
剌を通じる 名刺を出して取次ぎを頼む。
方今 ほうこん。まさに今。ただ今。このごろ。現今。
不肖 自分をへりくだっていう語。
恃む あてにする。
斧正 ふせい。他人の書いたものに遠慮なく筆を加えて正すこと。
辱める はずかしめる。恥ずかしい思いをさせる。恥をかかせる。
覚束無い おぼつかない。心もとない。頼りない。
無沙汰 ぶさた。久しくたよりや訪問をしないこと。しかるべき挨拶あいさつのないこと。ことわりなしに物事を行うこと。
格子 細長い部材を碁盤目に組み合わせたもの。戸・窓等に使用する。
朽ちる 腐ってぼろぼろになる。 名声などがうしなわれる。
つらむ …てしまっているだろう。
巨い いかい。意味は「大きな」。しかし「いかい」はどう書くのでしょうか。
野面 のづら。恥を知らない、あつかましい顔。鉄面皮。
不埒 ふらち。道理にはずれていて、けしからぬこと。ふとどき。