牛込の方へは、隨分しばらく不沙汰をして居た。しばらくと言ふが幾年かに成る。このあひだ、水上さんに誘はれて、神樂坂の川鐵(鳥屋)へ、晩御飯を食べに出向いた。もう一人お連は、南榎町へ淺草から引越した万ちやんで、二人番町から歩行いて、その榎町へ寄つて連立つた。が、あの、田圃の大金と仲店のかねだを橋がかりで歩行いた人が、しかも當日の發起人だと言ふからをかしい。 |
[現代語訳] 牛込のほうは、随分しばらくの間、ご無沙汰であった。しばらくというが、何年にもなる。この間、水上滝太郎さんに誘われて、神楽坂の川鉄(鳥屋)へ、ご飯を食べに出向いた。もう一人の連れは南榎町に浅草から引っ越しした万ちやんこと、久保田万太郎さんで、水上さんと番町から歩いて、南榎町で久保田さんと一緒になり、川鉄に行ったのである。だが、浅草田甫の大金(鳥屋)と仲見世の金田(鳥屋)に橋を回って歩いた久保田万太郎さんが当日の発起人だというのだから、おかしい。 途中、納戸町のあたりの狭い道で30メートルの真新しい白煉瓦は、まるで崖を落ちる滝のような亀裂が、三条ぐらいの小枝に別れて、頂点から走っていている。これは肝を冷やした。その真下に、魚屋の店があり、威勢のいい親方が鉢巻を前にかぶり、魚のキハダに刺身包丁を閃かしている。本当に偉い。外で見ると、3000メートルの峰から崩れかかる雪崩がある下で薪を作るよりも危ないのに、この度胸がないと復興は出来ない。ぐらぐらと地震が来ると、おっと叫び、銅貨の財布と食パンと魔法瓶を入れたバスケットをあわてて掴み、玄関まで飛び出すような意気地なしはどうする。私は大いに勇気を得た。 |
南榎町。南榎町は以下の地図で左上の多角形です。このなかのどこかに久保田万太郎さんが住んでいたはずですが、これ以上はわかりません。
番町。千代田区観光協会によれば、泉鏡花は麹町区下六番町11(現在は千代田区六番町7番地)の建物、水上滝太郎は下六番町29(現在は六番町2番地)の建物に住んでいました。以下の地図で矢印の場所です。
連立。三人の場所と鳥屋「川鉄」を書いています。
田圃。浅草田甫。浅草公園の裏は昔は田圃がいっぱいだったと言います。久保田万太郎氏の「『引札』のはなし」で、「たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり(中略)するのをみるとたまらなく可笑しくなる」と出ています。
大金。だいきん。浅草田甫にあった「大金」は 鳥肉の料理を出す飲食店でした。
仲店。仲見世。東京都台東区の地名。浅草寺の門前町として発達。
かねだ。金田。同じく鳥肉の料理を出す飲食店。久保田万太郎氏の「浅草の喰べもの」では「鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。」と書いてあります。
橋がかり。建物の各部をつなぐ通路として渡した橋。渡殿。渡り廊下。二つの建物をつなぐ廊下。回廊。
納戸町。上図で納戸町と書いた場所。
七八十尺。1尺は約30cmなので、約21~24メートル。
切立。仕立ておろして間もないこと。新しい。
枝を打つ。わき枝を切る。しかし、ここでは「小枝に別れて」という意味でしょう。
向鉢巻き。前頭部で結んだ鉢巻き。
黄肌鮪。きはだ。きはだまぐろ。黄肌鮪。紅色が鮮やかなさっぱり上品な味。
さしみ庖丁。刺身を作るのに用いる包丁。刃の幅が狭くて刀身が長い。
千丈。1丈の1000倍(約3000メートル)。または非常に長いこと。
樵る。こる。山林の木を切る。
追取刀。おっとりがたな。押っ取り刀。腰に差すひまもなく、刀を手にしたままである。緊急の場合に取るものも取りあえず駆けつける様子をいう。
框。かまち。床板などの切断面を隠すために取り付ける化粧用の横木。玄関などの上がり口に付ける上がり框など。
卑怯。気が弱く意気地がないこと。弱々しい。
が、吃驚するやうな大景氣の川鐵へ入つて、たゝきの側の小座敷へ陣取ると、細露地の隅から覗いて、臆病神が顯はれて、逃路を探せや探せやと、電燈の瞬くばかり、暗い指さしをするには弱つた。まだ積んだまゝの雜具を繪屏風で劃つてある、さあお一杯は女中さんで、羅綾の袂なんぞは素よりない。たゞしその六尺の屏風も、飛ばばなどか飛ばざらんだが、屏風を飛んでも、駈出せさうな空地と言つては何處を向いても無かつたのであるから。……其の癖、醉つた。醉ふといゝ心持に陶然とした。第一この家は、むかし蕎麥屋で、夏は三階のもの干でビールを飮ませた時分から引續いた馴染なのである。――座敷も、趣は變つたが、そのまゝ以前の俤が偲ばれる。……名ぶつの額がある筈だ。横額に二字、たしか(勤儉)とかあつて(彦左衞門)として、圓の中に、朱で(大久保)と云ふ印がある。「いかものも、あのくらゐに成ると珍物だよ。」と、言つて、紅葉先生はその額が御贔屓だつた。――屏風にかくれて居たかも知れない。
まだ思ひ出す事がある。先生がこゝで獨酌……はつけたりで、五勺でうたゝねをする方だから御飯をあがつて居ると、隣座敷で盛んに艷談のメートルを揚げる聲がする。紛ふべくもない後藤宙外さんであつた。そこで女中をして近所で燒芋を買はせ、堆く盆に載せて、傍へあの名筆を以て、曰く「御浮氣どめ」プンと香つて、三筋ばかり蒸氣の立つ處を、あちら樣から、おつかひもの、と持つて出た。本草には出て居まいが、案ずるに燒芋と餡パンは浮氣をとめるものと見える……が浮氣がとまつたか何うかは沙汰なし。たゞ坦懷なる宙外君は、此盆を讓りうけて、其のままに彫刻させて掛額にしたのであつた。 |
[現代語訳] が、びっくりするぐらい景気がいい川鉄に入って、土間の側の小さな座敷に陣取ると、臆病神が、細い路地の隅から現れ、逃げる道を探せよ探せよといってくる。電灯が閃くまもなく、暗い場所を指さしするのは弱った。積んだままの雑多な道具は絵屏風で仕切っている。さあ、一杯いかがと女中さんが声をかけてくるが、美しい衣服が似合う女中さんはどこにもいない。2メートル弱の屏風は飛んだが飛ばないかはわからないが、飛んださきの空き地はどこにもない。……そのくせ、酔った。酔うという心持ちに酔いしれた。第一この家は、昔はそば屋で、夏は三階の物干しでビールを飲んだ時からの馴染みだ。――座敷も、味わいこそ違うが、そのままの姿がある。……名物の額があるはずだ。横に二字。たしか(勤倹)とか書いてあり、(彦左衛門)として丸の中で朱色で(大久保)というハンコがあった。「いかさまでも、あれぐらいになると、珍品だよ」といって、尾崎紅葉先生はその額が大好きだった。――額は屏風に隠れていたかもしれない。
まだ思い出すことがある。尾崎先生がここで、ひとりで酒をついで飲む……のはつけたしだが、90mLでうたたねをするほうだから、ご飯をあがっていると、隣の座敷で盛んに艷談をしながら、酒を沢山飲んでいる声がする。疑いはなく後藤宙外さんだった。宙外さんは近所で女中に焼き芋を買ってもらい、うずたかく盆に載せ、傍らにはあの名筆で書いたのは「浮気どめ」。焼き芋はぷんと匂って、三筋ほどの湯気がたって、あちら様から、贈り物ですと言って、持ってきた。「本草学」にはでていないだろうが、案ずるに焼き芋とあんパンには浮気をとめる力があるようだ。……本当に浮気がなくなったのかは、不明だが、ただおおらかな宙外君はこの盆を譲り受けて、そのまま彫刻をして掛け額にしたのである。 |
吃驚。びっくり。意外や突然なことに驚くこと。
たたき。三和土。土やコンクリートで仕上げた土間床。ここでは厨房を指す。
瞬くばかり。一瞬。
雑具。ざつぐ。ぞうぐ。種々雑多な道具
羅綾。らりょう。うすぎぬとあやぎぬ。美しい衣服
六尺。一尺の六倍。曲尺で約1.8メートル。
飛ばば。飛ぶことができれば
陶然。酒に酔ってよい気持ちになる。
なじみ。馴染み。本来は「馴染み客」で、いつも来てなれ親しんでいる客
趣。風情のある様子。あじわい
俤。おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿
勤倹。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。勤勉で倹約すること。
いかもの。本物に似せたまがいもの。
珍物。ちんぶつ。珍しい物。珍品
独酌。どくしゃく。ひとりで酒をついで飲むこと。
勺。しゃく。尺貫法の容積の単位。1勺は約18ミリリットル。5勺は約90mL。
艷談。男女の情事に関する話。
メートルをあげる。酒を沢山飲んで勢いづく。
本草。ほんぞう。「本草学」の略。中国の薬物の学問で、薬物についての知識をまとめたもの。
坦懐。あっさりした、おおらかな気持ち。