はゝあ、此の怪談を遣りたさに、前刻狸を持出したな。――いや、敢て然うではない。 何う言ふものか、此のごろ私のおともだちは、おばけと言ふと眉を顰める。 口惜いから、紅葉先生の怪談を一つ聞かせよう。先生も怪談は嫌ひであつた。「泉が、又はじめたぜ。」その唯一つの怪談は、先生が十四五の時、うらゝかな春の日中に、一人で留守をして、茶の室にゐらるゝと、臺所のお竈が見える。……竈の角に、らくがきの蟹のやうな、小さなかけめがあつた。それが左の角にあつた。が、陽炎に乘るやうに、すつと右の角へ動いてかはつた。「唯それだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」との事である。――猫が窓を覗いたり、手拭掛が踊つたり、竈の蟹が這つたり、ひよいと賽を振つて出たやうである。春だからお子供衆――に一寸……化もの雙六。…… |
[現代語訳] ははあ、この怪談をやりたくて、さっき狸を持出したな。――いや、全然違う。 どういうものかわからないが、このごろ私のおともだちは、おばけというと眉をひそめる。 くやしいから、紅葉先生の怪談をひとつ聞かせてみよう。先生も怪談はきらいであった。「泉が、またはじめたぜ。」そのただひとつの怪談は、先生が十四、五の時、うららかな春の日中に、ひとりで留守をしていたが、茶室にいると、台所のかまどが見える。……かまどの角に、らくがきで書いた蟹のやうな、小さな割れ目があつた。それが左の角にあった。が、陽炎にのるように、すっと右の角へ動いた。「ただそれだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」とのことである。――猫が窓を覗いたり、手拭掛けが踊ったり、かまどの蟹がはったり、ひょいとさいころを振って出でたようである。春から子供衆に――ちょっと……化け物すごろくだ。…… |
敢えて。特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。打消しを強める。少しも。全く。
眉を顰める。他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる。眉根を寄せる。
竈。かまど。へっつい。 土・石・煉瓦などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。
かけめ。欠け目。欠目。不足した目方。減量。欠けて不完全な部分。
陽炎。かげろう。春、晴れた日に砂浜や野原に見える色のないゆらめき。大気や地面が熱せられて空気の密度が不均一になり、通過する光が不規則に屈折するため見られる現象。
賽。さい。さいころとも。立方体に1〜6の目を刻み、すごろくや賭博等に用いる遊具。
化け物双六。双六は紙面を多数に区切って絵を描いたものを用いる。化け物双六は絵に化け物が書いてある。数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び
なき柳川春葉は、よく罪のない嘘を言つて、うれしがつて、けろりとして居た。――「按摩あ……鍼ツ」と忽ち噛みつきさうに、霜夜の横寺の通りで喚く。「あ、あれはね(吼え按摩)と云つてね、矢來ぢや(鰯こ)とおんなじに不思議の中へ入るんだよ」「ふう」などと玄關で燒芋だつたものである。花袋、玉茗兩君の名が、そちこち雜誌類に見えた頃、よそから歸つて來るとだしぬけに「きみ、聞いて來たよ。――花袋と言ふのは上州の或大寺の和尚なんだ、花袋和尚。僧正ともあるべきが、女のために詩人に成つたんだとね。玉茗と言ふのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」 |
[現代語訳] 亡き柳川春葉は、よく罪のない嘘をいって、うれしがって、けろりとしていた。――「按摩あ……鍼っ」と急にかみつくように、霜の降る夜、横寺町の通りでわめく。「あ、あれはね(ほえ按摩)といってね、矢来町じゃ(鰯こ)とおなじで、不思議の中へはいるんだよ」「ふう」などと玄関でやきいもを食べた時にいったものだ。田山花袋、太田玉茗の二人の名前が、あちこちの雑誌類にみえた時も、よそから帰ってくるとだしぬけに「きみ、聞いてきたよ。――花袋というのは群馬県のある大寺の和尚なんだ。花袋和尚。僧正ともあるべき人が、女のために詩人になったんだとね。玉茗というのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」 |
上州。じょうしゅう。上野国の別名。群馬県のほぼ全域。
葉茶屋。はちゃや。茶の葉を売る店。
この人のいふのだからあてには成らないが、いま座敷うけの新講談で評判の鳥逕子のお父さんは、千石取の旗下で、攝津守、有鎭とかいて有鎭とよむ。村山攝津守有鎭――邸は矢來の郵便局の近所にあつて、鳥逕とは私たち懇意だつた。渾名を鳶の鳥逕と言つたが、厚眉隆鼻ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町の教會を背負つて立つた色男で……お父さんの立派な藏書があつて、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知つて居るが、攝津守だか、有鎭だか、こゝが柳川の説だから當には成らない。その攝津守が、私の知つてる頃は、五十七八の年配、人品なものであつた。つい、その頃、門へ出て――秋の夕暮である……何心もなく町通りを視めて立つと、箒目の立つた町に、ふと前後に人足が途絶えた。その時、矢來の方から武士が二人來て、二人で話しながら、通寺町の方へ、すつと通つた……四十ぐらゐのと二十ぐらゐの若侍とで。――唯見るうちに、郵便局の坂を下りに見えなくなつた。あゝ不思議な事がと思ひ出すと、三十幾年の、維新前後に、おなじ時、おなじ節、おなじ門で、おなじ景色に、おなじ二人の侍を見た事がある、と思ふと、悚然としたと言ふのである。 此は少しくもの凄い。…… 初春の事だ。おばけでもあるまい。 |
[現代語訳] この人がいうのだからあてにはならないが、いま宴会でうけのいい新講談で、評判も高い鳥径子のお父さんは、千石取りの旗下で、摂津守、有鎮(ゆうちん)とかいて有鎮(ありしづ)とよむ。村山摂津守の有鎮で――その邸宅は矢来の郵便局の近所にあって、鳥径は私たちにとっては懇意だった。渾名を鳶の鳥鎮といったが、眉は厚く鼻は高く、ハイカラのクリスチャンで、そのころ払方町の教会をしょってたった色男で……お父さんの立派な蔵書があって、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知っているが、摂津守なのか、有鎮なのか、ここが柳川の説だからあてにはならない。私の知っている頃は、その摂津守は、五十七八の年配で、人柄もよく、その話では、その頃、門へでて――秋の夕暮である……なんの心構えもなく町通をながめて立っていると、箒で地面を掃いた町に、ふと前後の人足がとだえた。その時、矢来町の方から武士が二人やってきて、二人で話しながら、通寺町の方へ、すっと通った……四十ぐらいの人と二十ぐらいの若侍だった。――すると、みるうちに、郵便局の坂を下がってみえなくなった。ああ不思議なことがあると思いだすと、三十余年の前にも、維新前後に、同じ時間、同じ時期、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の侍を見たことがある、と思うと、ぞっとしたというのである。 これはいささか、もの凄い。…… 初春のことだ。おばけでもあるまい。 |
座敷。宴会の席。酒席。また、酒席での応対。
新講談。講談の様式と題材を採り入れて、最初から書き言葉で表現した物語。大正2年、講談社の『講談倶楽部』が掲載した。のちに大衆文学に推移した。
摂津守。せっつのかみ。大阪府北中部の大半と兵庫県南東部。
忽ち。たちまち。非常に短い時間のうちに動作が行われる様子。すぐ。即刻。突然、ある事態が発生する様子。にわかに。急に。にわかに。急に。
払方町の教会。右図を参照。
箒目。ほうきめ。箒で地面を掃いたあとの模様。
悚然。しょうぜん。竦然。恐れて立ちすくむ様子。こわがる様子。慄然。 少しく。わずかに。すこし。いささか。