飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。

飯田河岸と画家2人” に1件のフィードバックがあります

  1. wada mami

    こちらで画家、堀潔と彼の絵についての記述に出会い驚きました。昨年、40年ほど前の新宿区ガイドブック(新宿教育委員会編)で堀潔の画いた、焼餅坂から若松町という絵がありました。その絵を見て、私の亡き母が話していた空襲のあとの光景ではないかと思いました。母は牛込区河田町に在住し、空襲時は夏目坂を下り、早実か早中の柔道場へ逃げ込み、朝、河田町に戻ると女子医大本館が焼けずに残っていて、涙したと。堀潔の焼餅坂から若松町の絵では、焼け野原の中に女子医大本館が坂の上にぽつんと焼け残っています。これは母が当時見た光景の絵だと思い、凝視しました。女子医大の関係者の方にもこの絵のことを伝え、実際のこの絵を見てみたいと思っていましたので、新宿区歴史博物館にあるということが分かり、感激です。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください