ジョウトーヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 2005年、雑誌「かぐらむら」の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では……

feature200506_01_02ジョウトーヤ(果物店)
戦前は、毎日毘沙門天辺りにバナナの叩き売りを出していた人が、神楽坂が気に入って果物屋を開業した。

 この右上のイラストでは「ジヤウトーヤ」。また昭和51年の読売新聞の記事「上り下りも世につれて…」の挿絵でも「ジャウトウヤ」。これらと「ジョウトーヤ」、どちらが正しいの。
 現在の建物では? それは「ニュージョウトーヤ」でした。正しいのはどうもジョウトーヤでした。 1970年代までは旧かなで書いていたようです。以上はこれで終わりで、本題に入ります。

ニュージョウトーヤ

ニュージョウトーヤ

 ジョウトーヤはどれぐらい有名だったか。1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』では

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

と、バナナの叩き売りがでています。

いそっぷ社。なつかしの昭和30年代図鑑。2005年。

『ここは牛込、神楽坂』第3号の「語らい広場」でますだすみこ氏は

「さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!」
 威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり。金魚すくい、カルメラ焼き、スモモ飴、飴細工などの夜店が道一杯に並ぶ。

 色川武大氏は『怪しい来客簿』の「名なしのごんべえ」で

 もう一人、人気者はバナナのたたりであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。せきと一緒に激しく出る痰。喧嘩、口論の時、相手に向かって言う威勢のいい、鋭い言葉。香具師などが品物を売る時の口上。

 また、中村武志氏も「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)で書き、

 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの囗は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」など毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一応十二貫入りが十篭も売れたものだ。

 戦後直後の昭和27年ではジョウトーヤはありませんが、昭和35年はもうできています。その場所はここです。
ジョウトーヤ

 さらに昭和53年には隣のフルーツパーラーと別々の家になっていますが、昭和55年には、ひとつのビルになっています。昭和60年の『神楽坂まっぷ』によれば、ニュージョウトウヤはすくなくとも5階建てでしたが、一階に元禄寿司はまだ入ってはいません。1995年(平成7年)の『神楽坂輿地全図』で元禄寿司がでてきます。一介のバナナのたたき売りだった人が数階のビルをもつまで成功する。うーん、なんというのか、やはり露店はもうかるのでしょうか。儲かる露店のエピソードではここでもでてきます。
ジョウトーヤ2

 

 なお、戦前は盛文堂などがありました。

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