怪しい来客簿③|色川武大

文学と神楽坂

 べ合せ、というタンカを使う薬売りが坂の途中の小暗いところに居たが、前記にはのっていない。
うなぎ梅干うめぼしを一緒に喰べたら大変だぞ、胃袋いぶくろ梅酢うめずいろに染まってタラタラとくさっちまう――」
「天ぷらを喰ったあと、西瓜すいかを喰った人がいる。このあいだ、その人は、喰って便所へけこんだのが最後だった。大きな音がして、胃と腸が破裂はれつしちまったね――」
 大仰おおぎようなのであるが風采ふうさいのあがらないあか深そうな三十男がやるのでかえって不思議な迫力が出て、何度きいても子供心にひきつけられた。そういう喰べ合せを羅列られつしていって、食当り予防の本を売ったか、薬を売ったか、今記憶かない。
 坂上の音譜売りのおじさんは、舌の裏に小さなふえを入れて、器用にいろいろなメロディを吹いた。汚れたソフトに眼鏡、まるい鼻からまっ黒い鼻毛がき出ており、メロディにつれてその鼻毛がふるえたりした。
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗しょうきさまのようなひげを生やしたおっさんが、あんこまきを焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。
 もう一人、人気者はバナナのたたであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。香具師やしが品物を売るときの口上
梅酢色 「梅酢」とは「梅の実を塩漬にしてしぼり取った汁。酸味が強く、風味がある」。「梅酢色」は定型ではないが、たとえば右図。
大仰 おおぎょう。大げさ。誇大。
風采が上がらない 見た目や服装がぱっとしない。外見が野暮ったい。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
ソフト 「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
鍾馗 しょうき。濃いひげをはやした疫病をふせぐ中国の鬼神。(右図)

食べ合わせ 同時に食べると害があると信じられている食品の組み合わせ。
あんこ巻 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子
半年ほど前に亡くなった この本は昭和49年から昭和52年にかけて『話の特集』で連載しています。

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