夏すがた|永井荷風(2)

 二十ねん此方このかたないあつさだというおそろしいあつがこのうへもなく慶三けいぞうよろこばばした理由りいうは、お千代ちよ裸躰らたいあはせてお千代ちよ妾宅せふたく周圍しうゐ情景じやうけいであつた。
 神樂坂上かぐらざかうへ横町よこちやうは、地盤ちばん全軆ぜんたいさがになつてゐるので、妾宅せふたくの二かいからそとると、大抵たいてい待合まちあひ藝者げいしやになつている貸家かしやがだん/\にひくく、はこでもかさねたように建込たてこんでゐて、裏側うらがは此方こなたけてゐる。なつにならないうちは一かうかずにゐたので、此頃このごろあつさにいづこのいへまどはず、勝手かつて戸口とぐちはず、いさゝかでもかぜ這入はいりさうなところみなけられるだけはなつてあるので、よるになつて燈火あかりがつくと、島田しまだかげ障子しやうじにうつるくらゐことではない。藝者げいしや兩肌もろはだ化粧けしやうしてゐるところや、おきやくさわいでゐる有樣ありさままでが、垣根かきね板塀いたべいあるい植込うゑこみあひだすがして圓見得まるみえ見通みとほされる。或晩あるばん慶三けいぞう或晩あるばんそよとのかぜさへないあつさに二かい電燈でんとうしておもて緣側えんがは勿論もちろんうら下地窓したぢまどをも明放あけはなちお千代ちよ蚊帳かやなかてゐたときとなりいへ――それは幾代いくよといふ待合まちあひになつてゐる二かい座敷さしき話聲はなしごゑるやうにきこえてるのに、ふとみみかたむけた。兩方りやうはううへ狭間ひあはいかよかぜなんともへないほどすゞしいのでとなりの二かいでも裏窓うらまど障子しやうじはなつてゐるにちがひない。喃々なん/\してつゞ話声はなしごゑうち突然とつぜん
「あなた、それぢや屹度きつとよくつて。屹度きつとつて頂戴ちやうだいよ。約束やくそくしたのよ。」
といふをんなこゑ一際ひときはつよくはつきりきこえて、それを快諾くわいだくしたらしいをとここゑとつゞいて如何いかにもうれしさうな二人ふたり笑聲わらひごゑがした。お千代ちよ先刻せんこくからくともなしにみゝをすましてゐたとえ、突然いきなり慶三けいぞう横腹よこはらかるいて、
「どうもおやすくないのね。」
馬鹿ばかにしてやがるなア。」
待合 男女の密会や、芸妓と客との遊興のため、席を貸す家
勝手 かって。台所。「勝手道具」
両肌を抜ぐ 衣の上半身全部を脱いで、両肌を現す
円見得 丸見え。見られたくないものなども全部見える
そよ (多く「と」を伴って)しずかに風の吹く音。物が触れあってたてるかすかな音。
縁側 和風住宅で、座敷の外部に面した側につける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁という。
下地窓 したじまど。壁の一部を塗り残し、下地の木舞こまい(壁の下地で、縦横に組んだ竹や細木)を見せた窓。茶室に多く用いられる。

狭間 ざま。はざま。すきま。せまいあいだ。ひま。
ひあはひ ひあわい。廂間。ひさしが両方から突き出ている場所。家と家との間の小路。
喃々と 「喃」はしゃべる音。小声でいつまでもしゃべっている

 慶三けいぞうはどんな藝者げいしやとおきやくだかえるものならてやらうと、何心なにごころなく立上たちあがつてまどそとかほすと、はなさきとなり裏窓うらまど目隠めかくし突出つきでてゐたが、此方こちら真暗まつくらむかうにはあかりがついてゐるので、目隠めかくしいた拇指おやゆびほどのおおきさの節穴ふしあな丁度ちやうど二ツあいてゐるのがよくつた。慶三けいぞうはこれ屈強くつきやうと、覗機關のぞきからくりでもるように片目かため押當おしあてたが、するとたちまこゑてるほどにびつくりして慌忙あわてゝくちおほひ、
「お千代ちよ/\大變たいへんだぜ。鳥渡ちよつとろ。」
四邊あたりはゞか小声こごゑに、お千代ちよ何事なにごとかとをしえられた目隠めがくし節穴ふしあなからおなじやうに片目かためをつぶつてとなりの二かいのぞいた。
 となりはなしごゑ先刻さつきからぱつたりと途絶とだえたまゝいまひとなきごとしんとしてゐるのである。お千代ちよしばらのぞいてゐたが次第しだい息使いきづかせはしくむねをはずませてて、
「あなた。つみだからもうしましようよ。」
まゝだまつて隙見すきみをするのはもうどくたまらないといふやうに、そつと慶三けいぞういたが、慶三けいぞうはもうそんなことにはみゝをもさず節穴ふしあなへぴつたりかほ押當おしあてたまゝいきこらして身動みうごき一ツしない。お千代ちよ仕方しかたなしに一ツの節穴ふしあなふたゝかほ押付おしつけたが、兎角とかくするうち慶三けいぞうもお千代ちよ何方どつちからがすともれず、二人ふたり真暗まつくらなかたがひをさぐりふかとおもふと、相方そうはうともに狂氣きやうきのように猛烈まうれつちから抱合だきあつた。
 かくのごと慶三けいぞうはわが妾宅せふたくうちのみならず、周圍しうゐたいなつのありさまから、えずいままでおぼえたことのない刺戟しげきけるのであつた。

何心なく 何の深い意図・配慮もない。なにげない。
目隠 布などで目をおおって見えないようにする事。おおうもの。
屈強 頑強で人に屈しない。
覗機関 のぞきからくり。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
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隙見 透見。すきみ。物のすきまからのぞき見る。のぞきみ。

 下記の相磯凌霜氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)では「夏すがた」の発売禁止について昭和31年にこう書いています。

 「夏すがた」は大正三年八月に書下ろされたもので、翌四年一月籾山もみやま書店から発行されたが、直ちに発売禁止の憂目にあってしまった。猥雑淫卑な今の出版物に比べて、いったい何処がいけないのか、どうして発売禁止になったのか、今の読者は恐らく疑問を抱かれるであろう。当時、内務省警保局と言うお役所はややともすれば発売禁止と言う所謂伝家の宝刀を振りかぎして作家や出版社を震え上らせておった。従って出版社側でもお役所対策には万善を期し如何にしたら無難に検閲が済されるか、可なり苦心の存する所であったらしい。この「夏すがた」の時は、特に金曜日を選び警保局へ検閲の納本をするや電光石火、土曜日中に販売店に新刊「夏すがた」を配布して日曜一日で一千部近い冊数を売り尽してしまった。月曜日になると、果してお役所から風俗をみだものとの極印が付いて発売配布を禁止する通達があったが、時既に遅く版元にはいくらの残本も無かった。いや怒ったのは警視庁で、即刻主人に出頭せよと厳しいお達しだ。警察官が押収に来た時「一冊もございません」では到底無事には済されまいと一同額を集めての大評定、とにかく警視庁へは当時その方面に顔のきく小山内薫氏を頼んで代りに行ってもらい、百方哀訴嘆願する一方眼にも止らぬ早業はやわざで四、五十冊を作り上げてしまった。幸い小山内氏の顔と幾度となく足を運んだお蔭で、どうやら大事に到らず作者も出版元もホットー息つくことが出来た。
猥雑 わいざつ。みだりがわしく下品な様子
淫卑 性的に乱れたさま。みだらな様子
紊す 乱す。秩序をなくする。
極印 金銀貨や器物などの品質を保証するために打つ印形
評定 ひょうじょう。評議して取捨、よしあしなどを決定する。相談する
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面。種々の方法。多く副詞的に用いる。
哀訴 あいそ。同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。
嘆願 たんがん。事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。

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