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なぜ、小説家は昭和2年に洋行できたのか

文学と神楽坂

 はい、数年前から売れている小説家は豊かに、金持ちになっていったのです。巌谷大四氏が書いた「懐しき文士たち 昭和篇」(文藝春秋、1985年)では…

 大正15年10月19日、昭和改元の二ヵ月余前に、改造社が「現代日本文学全集」(全38巻)を大々的に発表した。三ヵ月遅れて新潮社が「世界文学全集」(全38巻)を、これまた大々的に発表した。どちらも定価一円ということで、円本合戦、円本時代という言葉が生れた。(中略)
 この二つの全集が口火となって、続々と全集が出はじめた。創業50年記念と銘うった春陽堂の「明治大正文学全集」(全50巻)、新潮社が「世界文学全集」に次いで打ち出した「現代長篇小説全集」(全24巻)、当時新興出版社であった平凡社の「現代大衆文学全集」(全40巻)(中略)といった具合に、次から次へと、全集が刊行され、漱石蘆花独歩啄木等の個人全集も続々刊行されて、まさに“円本全集黄金時代”を現出した。
 “円本時代”のもたらした印税の札束は、文壇に“洋行熱”を捲起した。昭和二年の末頃から、文士連が次々と憧れのソヴェート、ヨーロッパ、アメリカ、中国へ旅立って行った。

巌谷大四 いわやだいし。編集者、文芸評論家。巌谷小波の四男。早大卒。「戦後・日本文壇史」「波の跫音―巌谷小波伝」などを発表、平成3年「明治文壇外史」で大衆文学研究賞。生年は大正4年12月30日、没年は平成18年9月6日。享年は満90歳。
改造社 出版社。1919年(大正8年)、改造社を創立。総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
新潮社 出版社。明治29年(1896)新声社を創立するも、失敗。明治37年(1904)、文芸出版社の新潮社を創業、『新潮』を創刊。大正3年(1914)、出版界初の廉価本(20銭)「新潮文庫」創刊。昭和2年(1927年)発刊の『世界文学全集』が大成功、現在に到る。
春陽堂 出版社。明治11年(1878年)創業。明治文壇の主要作家の作品を独占的に出版。しかし関東大震災に遭遇、日本橋の社屋全てを破壊される。昭和2年(1927)『明治大正文学全集』で成功し、社業を回復。戦後、春陽堂書店の社名で「春陽文庫」として大衆文学書を発行。
平凡社 出版社。大正3年(1914)小百科事典『や、此は便利だ』の刊行で創業。昭和2年(1927)「現代大衆文学全集」の成功で業界に進出、1931年『大百科事典』全28巻を刊行。1955年に『世界大百科事典』全32巻、同じく全34巻(2007)を刊行。
蘆花 徳冨蘆花。とくとみろか。小説家。小説「不如帰」、随筆「自然と人生」を発表。トルストイに心酔。生年は明治元年10月25日、没年は昭和2年9月18日死去。享年は満60歳。

 金力のため作家も欧米を訪ねることは簡単になりました。

 昭和2年10月13日の朝11時、秋田雨雀は一週間以上もかかったシベリア鉄道の旅を終って、夢にまで憧れたモスクワの駅に降り立った。うっすらと雪が積っていた。その日、モスクワは初雪であった。(中略)
 雨雀より二ヵ月遅れて、最初の夫と離別して心に傷を抱いていた中条百合子は、昭和2年11月30日東京を発ち、京都で湯浅芳子と落ち合って、12月2日、朝鮮―ハルビン経由でモスクワへ旅立った。
 百合子と湯浅芳子を乗せたシベリア鉄道は、ハルビンからバイカル湖畔をすぎ、はてしなく雪の降りしきるシベリアの礦野を七日間走りつづけて、12月15日の夕方、モスクワの北停車場に着いた。(中略)
 正宗白鳥久米正雄より一日遅れて、11月23日、これも夫人同伴で、横浜からアメリカへ旅立った。
 つむじまがりの正宗白鳥は、誰にも知らせず、こっそり旅立とうとしたが、事前にことがもれ、しぶしぶ白状したので、その日は横浜埠頭に、徳田秋声上司小剣近松秋江菊池寛山本有三中村吉蔵細田源吉小島政二郎岡田三郎ら30名余が見送った。
 白鳥はいつもの袴に白足袋といういでたちで、新聞社のマグネシウムをいやな顔をして、ぶつぶつ言っていたが、いざ出帆となると、下から投げられる赤、白、青、黄、さまざまのテープを迷惑そうにつかんでは、にこりともしなかった。
 船が出はじめると夫人の方は、流石に心ぼそくなったのか、べそをかきはじめ、顔をくちゃくちゃにして涙を流しっぱなしで、夢中で手を振ったが、白鳥は、一層しかめつらをして、ぶっとしたまま、それでも気がとがめたのか、大分はなれてから、やっと二度ほど手を振っただけだった。(中略)
 なおこの年は、その他、林不忘夫妻、三上於菟吉長谷川時雨夫妻、与謝野寛晶子夫妻、佐藤春夫中村星湖本間久雄木村毅らが、それぞれ、西欧、中国へ、世界漫遊へとにぎやかに旅立って行った。

湯浅芳子 ゆあさよしこ。大正・昭和期の翻訳家、随筆家。早稲田大学露文科の聴講生だったが、中退後、雑誌・新聞記者となり、大正13年、中条(宮本)百合子と知り合い、一時、共同生活。昭和2年から3年間、2人でモスクワに留学。帰国後、プロレタリア文学に参加。22年「婦人民主新聞」編集長。生年は明治29年12月7日、没年は平成2年10月24日。享年は満93歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早大在学中、小説が新聞の懸賞に入選、卒業後、米国に留学,イプセンやショーの影響を受け、1909年、帰国後劇作家に転じた。1913年、芸術座に参加。社会劇「剃刀」や歴史劇「井伊大老の死」を執筆。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満65歳
細田源吉 ほそだげんきち。プロレタリア作家。早大卒業後、春陽堂に入社。昭和7年検挙され転向する。以降は執筆はなく、府中刑務所の篤志面接委員を務めた。生年は明治24年6月1日、没年は昭和49年8月9日。享年は満83歳
小島政二郎 こじままさじろう。作家。慶応大学卒。通俗小説、大衆雑誌、婦人雑誌が主な活躍の舞台。講釈師の神田伯龍をモデルにした『一枚看板』で認められた。生年は明治27年1月31日、没年は平成6年3月24日。享年は満100歳
マグネシウム マグネシウムリボン発光器の意味。閃光粉ともいう。マグネシウムは空気中で強く熱すると閃光を放って燃える。1880年頃から使用。ところが、1929年ドイツで、昭和6年(1931年)日本で、危険性がより少ない閃光電球に変わった。
林不忘 はやしふぼう。小説家・翻訳家。初め谷譲次の名で渡米の経験をつづった『テキサス無宿』。その後、牧逸馬では海外探偵小説や、『地上の星座』など通俗小説を発表。林不忘では、時代物の『丹下左膳』を発表。小説を量産し「文壇のモンスター」との異名をもった。
三上於菟吉 みかみおときち。小説家。早大英文中退。長谷川時雨の夫。時代物の大衆小説を多く書いた。生年は明治24年2月4日、没年は昭和19年2月7日。享年は満54歳。
中村星湖 なかむらせいこ。小説家、翻訳家。早大英文卒。「少年行」が「早稲田文学」に一等当選。同誌の記者となり,島村抱月門下として自然主義を鼓吹した。戦後、山梨学院短大教授。生年は明治17年2月11日、没年は昭和49年4月13日。享年は満90歳。
本間久雄 ほんまひさお。評論家・英文学者。早大英文卒。「早稲田文学」同人、のち主宰者として活躍。英国留学後、早大文学部教授となる。関東大震災後から日本近代文学研究に専念。生年は明治19年10月11日、没年は昭和56年6月11日。享年は満94歳
木村毅 きむらき。小説家、評論家,文学史家。早大英文卒。明治文化研究会同人として、創作・翻訳・評論に幅広く活躍。日本労農党に参加、社会運動に関わる。著作に「ラグーザお玉」「小説研究十六講」など。生年は明治27年2月12日、没年は昭和54年9月18日。享年は満85歳。

 しかし、文士の洋行は長続きしません。まず、昭和4年、米国ニューヨーク市から世界恐慌が始まり、日本にも波及、空前の不況に襲われました。また、日本では言論弾圧が強まり、昭和8年、プロレタリア文学の小説家、小林多喜二氏は拷問死します。さらに昭和11年2月26日、クーデター未遂である2・26事件が起こり、昭和12年、日中戦争が始まり、ついに昭和14年、欧州で第2次世界大戦になり、昭和16年、日本では、米国ハワイで真珠湾攻撃が起こりました。

『燈火頰杖』加賀町の家|浅見淵

文学と神楽坂

 浅見ふかし随筆集『燈火頰杖』から「加賀町の家」です。浅見淵氏は作家論、作品論、私小説風の作品などを執筆し、評論では「昭和文壇側面史」「昭和の作家たち」、小説では「目醒時計」「手風琴」などを発表しています。
 ここでは昭和39年3月、柳田国男の家について書いています。

 柳田国男氏の年譜を見ると、明治二十四年(一九〇一年)、数え年二十七歳の時、柳田家の養子になっておられるから、それから、昭和二年(一九二七年)、五十三歳の時、当時の砧村(現在の世田谷区成城町)に移居されるまで、足かけ二十七年の長きに亘って、牛込区(現在の新宿区)市ヶ谷加賀町二丁目に住んでおられた訳だ。

砧村 きぬたむら。東京都世田谷区の西部で、狛江市に近い場所
市ヶ谷加賀町二丁目 下図を。

 柳田さんの養父司法官あがりで、柳田さんは前年東京帝大を卒業して農商務省官吏となってから柳田家に入っていられるが、柳田家は当時すでにその加賀町二丁目附近の地所持ちであり家作持ちだったので、そこに邸宅を構えていたからだ。
 ところで、ぽくは偶々この柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作に住んでいたことがあるのだ。明治四十四年から四十五年(七月に大正と改元)に掛けての小学生時代である。当時、ぼくの父は或る水力電気会社の技師をしていて、日光の近くの今市の奥にダムづくりに行っていたが、その留守宅を東京に置いていた。はじめはいま法政大学の敷地になっている当時の麹町区富士見町に住んでいたのだが、急に柳田家の借家へ引越すことになったのだ。
 ぼくの母の妹に当る叔母が、その頃、柳田さんの播州の郷里の村の村長の長男である工学士と結婚したので、その方面から話が出て、柳田家の借家のほうが富士見町の借家より広かったので、引越して行ったようである。
 柳田家の在った通りは、当時の府立四中の黒板塀が長くつづいたはずれの閑静な屋敷町であった。やはり黒塗りの太い四角の門柱が立っていて、これも黒塗りの大きな頑丈な開閉扉が附いていたが、日中はそれが大きく開かれていた。また門柱の脇には耳門くぐりもあった。そして、右の門柱には柳田国男と書いただけの標札が出ていた。門を入ったところはちょっとした植込みがあって、直ぐ玄関の式台になっていた。
 ぼくの家はこの柳田邸と植木垣つづきになっていて、植木垣の裾には竜の髯が植え込まれており、秋になると青玉のような実が一杯になった。式台、内玄関などもあり、なんだか御家人でも住んでいたような家だった。柳田邸と反対側の家との境は竹藪になっていた。七室ばかりあり、南に日当りのよい長い縁側があって、広い庭に臨んでいた。庭には一本大きなの樹が植わっていて、冬など座敷の障子に影を映していたが、他は全部であった。柳田邸の庭とは二重に編まれた竹垣で隔てられていたが、柳田邸の庭もほとんどが楓のように見受けられた。楓の新緑の美しさといったものを、子供ごころに初めて知った。

養父 直平。大審院判事。
司法官 司法権を行使する公務員。普通は裁判官。
農商務省 農林・商工業の行政を司る中央官庁。明治14年、設立。大正14年、農林省と商工省に分離。
家作 かさく。人に貸して収入を得る家。貸し家。
偶々 たまたま。時おり。時たま。たまに。
柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作 上の柳田邸の図で、おそらく右下側の家でしょう”。

今市 今市いまいちで、現在は日光市の一部
法政大学の敷地 図で法政大学があったところ

麹町区富士見町 図では黄色で囲んだ範囲。
播州 ばんしゅう。播磨はりま国の別名。現在は兵庫県西南部にあたる。
柳田家の在った通り 新たに「銀杏坂通り」と命名しました。
府立四中 現在の牛込第三中学校(上図)。
耳門 じもん。耳の穴の口。くぐり戸。「くぐり戸」とはくぐってはいる戸や門。
式台 しきだい。玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分。客を送り迎えする所。
竜の髯 リュウノヒゲ。キジカクシ科ジャノヒゲ属の常緑多年草。よく植え込みに使う

内玄関 家人など内輪の人が日常出入りする玄関。
御家人 ごけにん。江戸時代、将軍直属の家臣団を旗本と御家人に区別した。御家人は一万石以下の家臣。
 かしわ。ブナ目ブナ科の落葉中高木。
 かえで。ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属(Acer)の落葉高木。

 柳田さんは年譜を見ると、その頃、農商務省の役人と宮内省書記官を兼ねていられたようである。この宮内省書記官という関係からだったろうか、よく西洋人が柳田邸を訪問していたのを記憶している。というのは、楓の庭を逍遙しているその談笑の声が屢々聞こえて来たからである。西洋人の女の賑やかな笑い声もし、それに混って、柳田さんらしい流暢な英会話も洩れて来たからだ。
 しかしながら、へいぜいは柳田邸はいつも森閑としていた。物音は全くしなかった。ぼくはこの家で腸チフスに罹り三月ばかり病臥した。そのせいで、ぼくの家では柳田さんの家の電話をしょっちゅう借りていたようだったが、一度だって厭な顔を家の人は見せなかったと、ずっと後になって、母が感心して述懐していたことがある。また、柳田家の女中がよく電話を取次いでくれたが、この女中が躾けが行届いていで、じつに物静かな女中だった。
 加賀町のこの柳田邸へは、田山花袋国木田独歩をはじめ、そもそも竜土会は最初この家で始まっており、当時の新しい文学者たちがかず多く訪問しているばかりでなく、柳田さんの前期から中期にかけての劃期的な民俗学の研究は、ほとんどがこの家で成し遂げられている。その意味において、歴史的な家である。だが、今にして考えてみると、ずいぶん不便なところだったと思う。ぼくの家が住んでいた時分には、飯田橋から新宿に通じている今の都電が通じておらず、電車に乗ろうと思えば、秀英舎(現在の日本印刷)の前を通って左内坂を降り、市ケ谷見附まで出なけれぱならなかった。また、界隈の盛り場だった神楽坂へ行くにも、歩かねばならなかった。
 その代り、静かなことも静かだった。隔世の感がある。物音といえば、納豆売りの声か豆腐屋のチリンチリン、季節によって、竿竹売りや金魚売りの触れ声が聞こえてくるばかりだった。そのほかには、夕方になると、遙か市ケ谷見附のほうの士官学校から、号令の掛け声練習と、物哀しい喇叭の音が聞こえてくるだけである。従って、この屋敷町には店屋が少なく、洗濯屋が一軒と、洋食屋が一軒あるきりだった。病気になると、この洋食屋からオムレツと肉汁を取って貰うのが楽しみになっていた。
 いっぽう、至るところに大きな樹が陰森と茂っていて、夏になると蝉やトンボが多かった。ぼくの家の庭でも、蝉が抜け変るのを屢々瞥見した。柳田邸でも同様であったろう。ところが、戦後、といっても数年前だが、偶々加賀町へ足を踏みいれて吃驚してしまった。五十年前の閑静な屋敷町は、すっかりゴミゴミした印刷関係の会社町になりさがってしまっていたのである。昔の面影など、もうどこにも残っていなかった。どっしり落着いていた柳田邸も影も形もなくなって、その跡は或る女子短大の洋風の寮に変り果てていた。しかも、車の往来がはげしく、うっかり佇んでさえもおられなくなっていた。
(「定本柳田国男集月報」昭和三十九年三月)

宮内省 1885年、皇室関係の事務を取扱う機構。1947年,新憲法発布とともに宮内府、49年に宮内庁と改称。
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。散歩。
屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている様子
竜土会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩らが寄って文学談を交わしたのが始まり。柳田国男氏の年譜では1905年7月から、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となったという。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
都電 チンチン電車です。都営地下鉄は押上と人形町間の1路線しかなく、営団地下鉄はまだ全くありません。定期的なバスもなく、「都電」(つまり、チンチン電車)だけがありました。系統13の都電は「山伏町」や「牛込柳町」と「新宿駅」を結んでいました。

電車 これもチンチン電車を指しています
秀英舎 明治9年(1876年)9月、今日の大日本印刷の前身、秀英舎を設立。世界でも1位の印刷会社。
左内坂 さないざか。JR市ヶ谷駅の市谷見附交差点の北から北西に入り、防衛庁の裏側を市谷加賀町方向に向かう坂。
市ケ谷見附 これもチンチン電車の停留場です。
竿竹 竿にして使う竹。たけざお。洗濯した衣服を乾す目的で使う。
士官学佼 現在は防衛省
喇叭 ラッパ。特に無弁のナチュラルトランペットのこと
陰森 樹木が茂り日をさえぎって暗い。うすぐらく、静かでさびしい様子。
瞥見 ちらっと見ること。短い時間でざっと見ること。
或る女子短大 大妻女子大学加賀寮です。
佇む たたずむ。彳む。しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。

自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。

土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。

ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町47番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

早稲田 早稲田通りは青色。
大久保通り 大久保通りは赤色。
若松町 若松町は中央やや下の赤の場所。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。
三孝商店青物商紅葉旧宅跡 この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。

標識 旧と新のプレートを示します。
紅葉旧居跡
紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1

わが青春の記|紀の善|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末が書かれています。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。
 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

 (しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
 その翌晩よくばんぼくうちまたみんなあつまつて、仕出しだものかなにかとつて、おほいに氣焔きえんをあげたものである。そのくわはつたのが、蒲原かんばら有明ありあけ先生せんせい、それから瀧田たきた哲太郎てつたらうもゐた。瀧田たきたぼく親父おやじ患家くわんかだつた。で、それでんだのだつたとおもふ。むろんもうそのころには中央公論ちゆうわうこうろん編輯へんしふをやつてゐて、小栗風葉をぐりふうえう獨歩どつぽのものでおほいにつてゐた時代じだいであつた。


新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。

 えんたけなはに、みんな唐紙たうしがきをやつたが、それは非常ひじよう面白おもしろ記念品きねんひんである。一さがしてみてもしあつたら、是非ぜひ寫眞版しやしんばんにして掲載けいさいしてもらはふとおもつてゐる。
 蒲原かんばら先生せんせいりんり、、、たる醉筆すゐひつふるつて白秋はくしう似顔にがほをかき、「白秋はくしうたいをしき」とさんをされたのであつた。
 さて脱退だつたいけつした翌日よくじつわれわれはかほをそろへて、新詩社しんししやしかけた。新詩社しんししや丁度ちやうどいま神宮外苑じんぐうぐわいえん裏参道うらさんだうのところにあつて、家賃やちんにして二十圓位ゑんぐらゐの、板羽目いたはめどぎどぎしたちひさな貸家かしやであつた。しもどけのころにたると、みちがどろどろにぬかつて、垣根かきねには山茶花さざんくわさびしくいてゐるやうなまちであつた。
 與謝野氏よさのしもたゞならぬ氣勢けわひかんじたとみえて、眉宇びうあひだ不安ふあんいろみなぎらせながら、我々われ/\むかへた。脱退だつたいのことはたれさきくちをきつたか、わすれたが、とにかく口頭こうとうで、勇敢ゆうかん聲明せいめいをやつてのけた。だまつていてゐゐたが、そこへ長男ちやうなん息子むすこさんがはひつてきてなにかいふと、與謝野よさのはかツと激怒げきどして、眞鍮しんちゆう火箸ひばしぼつちやんへげつけた。往年わうねん朝鮮時代てうせんじだい鐵幹てつかんおもはしめるやうなそのかほじつおそろしかつた。ほくはそのときにもむろん味噌みそかすなので、すみほうへすツこんでちいさくなつてゐた。陣笠ぢんがさ悲哀ひあい何處どこまでもついてまはつた。與謝野氏よさのし居間ゐまには座敷ざしき半分はんぶんもあるやうなおほきな木製もくせい寢臺ねだいゑてあつたが、ぼくはそのかげすわつて、事件じけん推移すゐい固唾かたづをのんでてゐた。そのときぼくはいよいよ見限みきりをつける決心けつしんがついたのであつた。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)


りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」はのき。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士がかぶとの代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。