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私娼町のあった愛敬稲荷跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 17.私娼町のあった愛敬稲荷跡」についてです。

私娼町のあった愛敬稲荷跡
      (市谷田町2ー24)
 堀兼の井跡角向いのガソリンスタンド前横町を田町三丁目に進む。約300メートルほどで道路に出るが、その右10メートルほどにまた外堀通りに平行の横町が見えるからそこを行く。約100メートル右側に、愛敬稲荷と刻んだ石標が立ち、その奥の方に小さなが見える。そこが江戸時代繁昌した愛敬稲荷跡である。
 愛敬稲荷とは、教蔵院の境内に祭られたお宮であるが、ここが繁昌したのはその門前が岡場所(私地)だったからである。ここの繁昌のようすは、明和、安永(1764ー80)に出版された酒落本に出ている。しかし、寛政五年(1793)の岡場所取り締り以後は淋しくなった。
 岡場所は、江戸市内で40カ所以上もあったが、その三分の二は寺社の門前地にあった。寺社地は寺社奉行の支配地であるが、奉行は神職や僧侶を取り締る役で、警察力をもっていないし私娼には関係なかった。また町奉行は、市民の住む所だけの支配地だったから、管轄外の寺社地には手が届かないという盲点をついて、岡場所が繁昌したのである。
 また、江戸時代に私娼地が多かったということは、江戸人の享楽的傾向のためばかりではなくして、根本的には国元からの独身男性の単身赴任者が多かったからである。
 江戸時代には、愛敬稲荷にお参りに行くといっては岡場所に遊んだのであった。享保五年以前のことで、寛政の改革で取り払いを受けたようである。お辰という醜婦がこの稲荷に祈って良縁を得たという伝説があり、一名お辰稲荷ともいわれている。
 〔参考〕 足の向く侭 江戸岡場所図会
私娼 公娼制度の認められていた時代に、公認されずに営業した売春婦。
愛敬稲荷 市ケ谷教蔵院門前の私娼地。私娼は寛政の改革(1787‐93)で廃止し、その後、稲荷もなくなっていたが、現在はまた復活。

愛嬌稲荷

 ほこら。神を祭った小さなやしろ
教蔵院 現在は廃止。
岡場所 江戸の私娼地。官許の吉原に対し、非公認の私娼地が寺社の門前や盛り場の裏町に百数十カ所もあった。「岡」は「脇」「外」を表す言葉。
酒落本 しゃれぼん。江戸中期から後期にかけて、主として江戸で流行した遊里文学。遊里の内部や遊女・遊客の言動を描いたものが多い。例えば「花街風俗叢書」(昭和6年)には多くの吉原の酒落本が集めている。。
単身赴任者 全国の人口はほぼ2,500万人から2,700万。天保14年、江戸は町人のみで55万3,257人(男29万2,352人、女26万905人)。武家方と寺社関係の人口は町人とほぼ等しいと考えられ、江戸はほぼ100万人が住んでいた。武家方と寺社の人口はほぼ100%が男と考えると、女は多くても30万人、男は70万人。
享保 1716年から1736年まで。
寛政の改革 天明7年(1787)から寛政5年(1793)にかけて、老中松平定信が行った幕政改革。倹約、備荒貯蓄の奨励、棄捐令、人返し、異学の禁などの政策を遂行。しかし、景気は沈滞し、町人たちの不満を買った
お辰 礒部鎮雄氏の「江戸岡場所図誌」(江戸町名俚俗研究会、1962)では

市ヶ谷八幡前をお堀端に添って田町下二丁目の裏通りに愛嬌稲荷がある。別当は同所教蔵院でお寺よりも稲荷社の方が有名である。後に教蔵寺といい真言宗であり一時は、狂歌江戸砂子に「市が谷に市をなしつゝ賽銭もこぼるゝ程の愛嬌稲荷」と繁昌した。猶愛嬌の由来については、慶長年中に近江屋助七と云ふ者の娘お辰というのが、三平二満おかめで縁組なきを憂ひ、この稲荷に祈願した。その後間もなく本田氏に嫁し子孫繁栄したと伝えられ、その後良縁を得んと希ふ醜婦はこの神を祈るので繁昌したというが、この寺は元谷町饅頭谷に在って宝永中此処に移つと来たので、慶長中というと、それ以前の話になり、傳説であろうか。
 遊所も僅かなこの門前に在った。
「紫鹿子」に、中品下生四六、此浄土大抵音羽に類す。人がらは少し能き方、とあり、また、他書に、昼夜四ッ切昼六、夜四、「江戸巡礼」に歌あり
 あいきやうのきみがゑくぼにこほりかな

 狂歌江戸砂子 狂歌江戸砂子集 正編(上下2冊、1811年、編者は六樹園)と狂歌江戸砂子集 続編(上下2冊、1826年、編者は鈍々亭)。発行は共に東都書林。
慶長 1596年から1615年まで。
三平二満 額・鼻・あごの三つが平らで、両のほおがふくらむ顔。器量のよくない女の形容としていう語。おたふく。おかめ。
谷町 市ヶ谷谷町は昭和27年から住吉町に変更。
饅頭谷 新宿区富久町と住吉町にあった低地。「坂部さんに四谷の歴史を聞く 四谷四丁目」では「靖国通り沿いに川(紅葉川)が流れていて、他にも(田安家屋敷から茗荷谷、饅頭谷、市谷本村町にかけて、上流は桜川、下流は柳川)川が流れていて、川(皮)に囲まれた庵((餡)が素性庵と呼ばれていた)があった為、饅頭谷と呼ばれていました」
宝永 1704年から1711年まで。江戸幕府として第5代の徳川綱吉。
慶長 1596年から1615年まで。
紫鹿子 「鹿子」は2語ではなく、1語の「鹿偏・子」。正しくは「婦美車紫鹿子」(ふみぐるまむらさきがのこ)。安永3年(1774)刊。浮世偏歴斎道郎苦先生作。著者は蓬莱山人帰橋。洒落本。江戸遊所69所を9段階に分けて紹介。
中品下生 上品上生から下品下生までの9段階に分けて、「中品下生」とは現在の「中の下」になる。
四六 おそらく「四六見世」でしょう。岡場所の料金設定で、昼600文、夜400文でした。昼は正午~明七ツ(午後4時)、夜は日没~暮九ツ(午前0時)でした。
浄土 一切の煩悩がない清浄な国土。理想境。極楽浄土。極楽。
昼夜四ッ切 これは「昼が四ツ切、夜が四ツ切」の意味。昼四ツ切は正午から午後4時までの時間を4等分し、夜四ツ切は日没~午前0時を4等分すること。この1等分に昼600文か夜400文を支払う。
昼六、夜四 おそらく「四六見世」
江戸巡礼 田中卜平作「猿の人真似」(明和9年)(「洒落本大成 第5巻」中央公論社、昭和54年)に「江戸巡礼」の1章がありました。
あいきやうの…… 「洒落本大成」と「江戸岡場所図誌」では引用で違っています。ここは「洒落本大成」が正しいとしています。「愛敬稲荷の貴女、えくぼはあるけど、表情は氷のよう」

洒落本大成

足の向く侭 大正10年に三田村鳶魚えんぎょ氏が刊行。平成10年に中央公論社から再発行。以下は「愛敬稲荷の隠し町」の1部分です。

  愛敬稲荷の隠し町
 安永に、「タンノウ/\」という流行唄が盛んに謡われた。
 ーッとや、一ツ長屋の佐次兵衛どの、四国を廻って猿となる、お猿の身なればおいてきたンノウ。
 二ッとや、ふた目と見られぬおたふくも、女房にするとてだまされたンノウ。
 三ッとや蜜柑は食ひたし銭はなし、銭箱あけたらしかられたンノウ。
なんて調子のものだが、それを蜀山人が集録した末に、「此歌、山の手より起ると云ふ、愛敬稲荷の隠し町辺なるべし」と書いた。
 市ヶ谷の愛敬稲荷といえば、昔はすぐに知れるほどに有名な社地であった。田町の二丁目、外濠線の電車の通う大道路、ここの名物であったおお泥溝どぶも、今日では蓋が出来たから目立たない。
 新見附の停留場で下りて、ちょっと西へ歩くと、右手の角に農工銀行の支店がある、そこを曲がれば箪笥町への通り、まだ幾足も運ばない内、右手に細い路地のあるのをはいって、船河原町の方へ進むと、両側の人家は行儀よく立ち並んでいる。その左手に、家並がポッツリ切れて、へこんだように教蔵院(真言宗)の門がある。愛敬稲荷は、この教蔵院の境内に祀られたもので、今日もその祠殿が存している。存しているどころか、本堂のようにも見える有様、それだけ幅を利かせるのも、昔繁昌した余勢でもあろう。
 何故愛敬稲荷が繁昌したのか。ほかでもない、そこが岡場所であったからである。岡場所というのは私娼の巣窟のことで、愛敬稲荷の門の側と向う側とに、浅草の十二階下のようなものがあった。十二階下よりももうすこし綺麗な、もっと公開的な模様であったらしい。俗謡もここから流行し出すほど、人も沢山に集ったのだ。ここの繁昌は、明和・安永に出版した、例の洒落本に見えている。
 松平越中守定の庶政改革、それを民間では御趣意と呼んだ、その御趣意は、町奉行をして私娼掃蕩をさせた。幕閣は、おおよそ30年目くらいに一度ずつ、江戸中の大掃除を執行させた。その中間に、町奉行だけの考えで検挙摘発することもあった。寛政五年に、定信の御趣意を奉じて、岡場所取潰し、すなわち、私娼掃蕩が厲行され、愛敬稲荷の付近は、急に淋しくなってしまった。
 それだけならば別に話すほどのことではないが、一体ここは教蔵院という寺の門前地である。外濠を向うに往来を控えて、蓋をした大泥溝に並んで、家屋が立ってしまった。往来からは教蔵院が見えぬのみか、往来からは出入りが出来ない。横手の新道らしい狭い道路から、僅かに往き通いしなければならぬ。寺の大門としては、通例大道行き抜けであるべきはずだ。もとは、濠端から見通しになっていたに違いない。それが私娼の巣窟となった頃、濠端の往来を背にして、怪しい家が建てられ、往来からは見えない。いかにも隠し町が出来たのであろう。隠し町というのは、あるいは隠し売女町の略語かとも思われるが、それよりも、事実が隠し町になっている。
安永 1772年から1781年まで
 物事のほどあい。程度。限界。物事の回数を数えるのに用いる。回。
此歌、山の手より起る 蜀山人の全20冊を3回読んでみましたが、この句はなく、そもそも愛敬稲荷の言葉もありませんでした。
浅草の十二階下 浅草のりょううんかくは1890年に竣工、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で半壊、撤去。凌雲閣は浅草の顔だったが、明治末期には客足が減り経営難になった。浅草十二階の下の一帯は実態としては私娼窟と化していた。それにより浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した(Wikipediaから)
厲行 れいこう。励行。決められたことをその通りに実行すること
隠し町 かくしまち。しょうの住む一郭。寺の門前などに多い。私娼くつ

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡