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水野十郎左衛門あばれる|江戸ルポルタージュ

文学と神楽坂

 綿谷雪氏の本「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)では、江戸城、剣術道場、大岡越前守、水茶屋、遊郭、忠臣蔵などを面白おかしく取り上げています。特に「水野十郎左衛門あばれる」の「牛込藁店の地蔵坂」はこの話がどうして大嘘になったのか、その理由を説明します。昭和36年らしくその書き方は現在の名文とはやや違っていますが、そこは目をつぶって行きましょう。

 新宿区牛込袋町6番地に新築された出版クラブは、建物もよいし地域も広く、高燥で、見晴らしがよいので評判がいいようです。その敷地は、神楽坂のビシャモン天を少し北へ坂を下りた辺から、戦前、牛込館という映画館のあった横丁——俚名藁店わらだなという——を西へ入った、自然に右へ曲がって登る地蔵坂(一名、藁坂ともいう)の右側で、その向かいは光照寺地籍になっています。
 ところで、この場所はむかし水野十郎左衛門の住んでいた屋敷跡で、水野が幡随院長兵衛を殺したのはこの屋敷だと、出版クラブの挨拶文にもそう書いてあるそうだが——それは完全にあやまりであります。
 この誤りは、じつは今に始まったのでなく、戦前からの引きつぎです。いったい水野十郎左衛門の名にどのような利用価値をみとめたのか知らぬが、戦争前も水野の屋敷跡という名目を売り物にして、宣伝これ努めた料理屋が、私の知っているだけで三ヵ所もありました。しかも、それが一つとして正しい場所でなかったのだから、まったくあきれるというより仕方がない。
 まず最初に、その三ヵ所の料理屋の位置からいっておきましょう。
 一、牛込藁店——前記、出版クラブの所。この店では麗々しく水野十郎左衛門の紋所いおり沢瀉おもだか)まで使っていたと思います。
 二、牛込門外、神楽坂上り口の左側——坂に面した町屋の1かわ裏で、堀の方の電車道沿いの向かって表口がありました。故代理士三木武吉氏の経営で、一時ロシア美人の女中を置いて騒がれたことがあります。
 三、江戸川ベリ、大曲の少し上流、早稲田行き電車道に面している。今その正確な位置を思い出せないが、川岸から西へ江戸川アパートの方へ曲る道がある、その曲がり角の北側だったか、それよりもう少し上流だったか。どうもはっきりしないが、むろん石切橋よりはよほど下流でした。
 右の三ヵ所は、みな正しい場所ではない。理由をかんたんに述べましょう。
 一の場所(袋町の藁店)は、幕府普請方の実測図と、寛文・延宝等の江戸図ちょうて、2軒の武士屋敷地として終始し、しかも水野姓の人物の住居だったことは、ただの一度もないのです。ここは後に、明和2年から天明2年まで佐々木文次郎(改名して吉田四郎三郎)の〈牛込天文台〉になっていた場所ですから、そのことでも自慢するならしも文化史的の意味もありましょうが、水野十郎左衛門屋敷跡というせつを売物にするのは、とんだりょうけんちがいじゃないだろうか(藁店・地蔵坂は由比正雪その他で話題の多い場所ですが、そのことは続巻にゆずります)。
 この藁店を水野十郎左衛門屋敷とした古い文献はかいであり、講談でも、邑井はじめ(明治年代、後の貞吉)の系統だけが藁店を水野屋敷と勝手にきめているのですが、こんな間違いをいい出したものは、神楽坂通りの、いまビシャモン天になっているあたりの向こう側に水野甚五兵衛という小旗本がいた時代があり(寛文図)、そこが藁店の入口に近いので、このへんに水野という屋敷が昔あったのだという近辺の人たちの記憶が俗説にむすびついて、だんだん位置を藁店の横丁の奥へ押し入れたのかも知れない。水野甚五兵衛忠弘は5百石、御書院番で、水野十郎左衛門の家系と違う。紋も、丸に沢瀉で、いおり沢瀉ではない。
 二の位置は、寛文図に水野金兵衛とあり、これも十郎左衛門の系図とちがうのです。金兵衛信利、250俵広敷ひろしきばんで、紋はなみに沢瀉です。

出版クラブ 日本出版クラブは1953年9月「出版界の総親和」という精神を掲げ、設立。日本出版クラブ会館は1957年8月に新宿区袋町6に落成。2018年、新宿区袋町から千代田区神田神保町に事務所を移転。一方、袋町6にはマンションを建築。2023年7月、ようやくマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」が落成。

日本出版クラブ(昔)

高燥 こうそう。土地が周りより高く湿気が少ない。
俚名 りめい。「俚」とは「いなか、いやしい、ひなびている」
藁店 わらを売る店。車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売る店。「藁を売る店」が転じて「藁を売る店がある坂」つまり地蔵坂。
地籍 ちせき。土地の位置・形質・所有関係等を記録したもの。土地登記の記録簿。土地の戸籍にあたるもの
名目 めいもく。名称。呼称。特に、表向きの名称。「名目だけの重役」
麗々しい ことさらに目立つ。人目につくように派手に飾りたてている。おおげさで。
水野十郎左衛門の紋所 「どころ」とは「家々で定めている紋章。家々の定紋。紋」です。水野十郎左衛門という紋所は現在以下の紋などで見つかっています。

 なお、沢瀉とはオモダカ属の多年生水生植物で、日本、アジアや東ヨーロッパの湿地に広く分布します。三方向に分裂した大きな葉が人の面を思わせ、それを高く伸ばしている様子からとも。
庵に沢瀉 残念なことに「庵」と「沢瀉」が個々に見つけましたが、2個同時に見つかりませんでした。無理やりに紋所「庵に沢瀉」をつくると……

庵に沢潟

1かわ ひとかわ。「1皮」は「1枚の皮。皮1枚。本質・素質を覆い包むもの。物事のうわべの姿」。「1かわ裏」はおそらく「1軒の裏側」
三木武吉 政治家。衆議院議員。第二次大戦後、日本自由党の結成に参画。日本民主党を結成し、鳩山内閣の実現に尽力。自由民主党の結成を推進。生年は明治17年8月15日。没年は昭和31年7月4日。71歳。
電車道 路面電車が走る道路。
江戸川アパート 財団法人同潤会は、大正12年の関東大震災の住宅復興を目的に設立。鉄筋コンクリート造の集合住宅で、ガスや水道、水洗便所を備えている。江戸川アパートは昭和9年(1934)に落成。平成15年、建て替えを決議。落成から約70年後、平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントとなった。
普請方の実測図 「普請ふしんかた」とは江戸幕府の職名で、城壁・堤防・用水などの土木工事を担当した。「普請方の実測図」とは「御府内沿革図書」を含め、江戸幕府が実際に測定し、製図にしたもの。

(例)「御府内沿革図書」の「当時之形」

寛文・延宝等の江戸図  国立国会図書館デジタルコレクションで、遠近道印の『新板江戸外絵図』(小日向、牛込、四ツ谷)(經師屋加兵衛、寛文11-13年、1671-74)や林吉永の『延宝三年江戸全図』(延宝3年、1675)など。
徴する 呼び寄せる。召す。証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
了簡 料簡。了見。考え。思慮。分別。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
邑井一 むらいはじめ。講談師。二代目の一龍斎貞吉を襲名。さらに「邑井一」と改名。生年は天保12年(1841年)。没年は明治43年(1910年)4月8日
水野甚五兵衛 赤で描いた四角形のうち左の方が水野甚五兵衛の屋敷です。

1)遠近道印『新板江戸外絵図』(小日向、牛込、四ツ谷)(經師屋加兵衛、寛文11-13 [1671-1674]) 国立国会図書館デジタルコレクション 2)綿谷雪「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)

書院番 しょいんばん。江戸城の警護、将軍外出時の護衛などの任にあたった。徳川将軍の親衛隊。
丸に沢瀉 これは想像の産物です。

丸に沢瀉

水野金兵衛 先に描いた地図で右の方が水野金兵衛の屋敷です。
250俵 1石は大人1人が1年間で食べる米の量。約150kg。1俵の米量は時代と所により異なりますが、明治末年では1俵が60kg、1石は2.5俵。250俵は100石。
御広敷番 大奥の管理・警衛にあたる御広敷向の役人のうち,警衛を主とした役人。
浪に沢瀉 これも想像です。

浪に沢瀉

 『久夢日記』には、水野十郎左衛門屋敷は牛込御門内とある。牛込門内から田安台(九段坂上)へかけては、正保図に水野甲斐・水野⬜︎之助・水野石見、寛文図に水野十兵衛などの屋敷を見出しますが、調べてみれば1軒として水野十郎左衛門の家系ではありません。
 くどいようですが、もう1つ書くと、山崎美成の『海録』に、〈幡随院長兵衛事蹟〉という一文の引用がありまして、それには十郎左衛門屋敷を小石川牛天神脇、あみほしの辺と書いています。これは江戸川のおおまがりを近くにひかえて、もっとも俗伝に近接しているものの、牛天神脇の水野は正保図には水野備前とあって、これは2万石安中城主。この人の玄孫げんそん元知のときに2万石を取上げられたが、旗本2千石として家は同所で幕末まで継続しました。水野十郎左衛門なら寛文4年に切腹を命じられて家も取上げられたのだから、同じ場所で幕末まで頑張っていては理屈に合いません。
 だいたい水野といっても数が少くないので、十郎左衛門は、戦国末期のあばれ大名として有名な水野勝成かつしげの孫です。父出雲守成貞(勝成の3男、百助)のときに分家して旗本となり、寛永元年8月に初めて神田広小路に屋敷を下賜されました。諸書に十郎左衛門の家禄を、5千石とか1万5千石とかいうのは誤りです。正しくは『寛政重修諸家譜』に3千石とあります。
 神田広小路というのは、一橋から水道橋に通ずる道路(今、三崎町を通る都電の電車道)の、もう一つ西に並行する道で、西神田小学校のある通りをいいます。その小学校の東斜め向かいのへんに正保図に<水野出雲いずもと出ていて、現在の西神田1丁目11番地(明治図では中猿楽町10番地)にあたる。この屋敷こそ水野十郎左衛門の父が下賜され、十郎左衛門が相続し、そして幡随院長兵衛が殺された家なのです。

久夢日記 きゅうむにっき。風俗記。江戸後期で編者未詳
田安台 正保年中江戸絵図では、正保元年(1644)か2年の江戸の町を描いています。下の緑丸が田安御門でした。そして御門のある台地は田安台です。
正保図 正保年中江戸絵図で、赤丸が「水野」か「水ノ」です。
寛文図 新板江戸大絵図で「水野カイ」が見つかりました。
山崎美成 江戸後期の随筆作家、雑学者。曲亭馬琴や屋代弘賢など考証収集家と交わり、流行の江戸風俗考証をおこなった。生年は寛政8年。没年は安政3年7月20日。61歳。
海録 1820年〜1837年で20巻、随筆『海録』は18年間の考証随筆。項目は1700余。難解な語句や俚諺には解釈を、また当時の街談巷説や奇聞異観は詳しく考証した。
小石川牛天神 うしてんじん。小石川区(現、文京区)の牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
網干坂 牛天神と網干坂は30分位離れています。

牛天神北野神社ー網干坂

大曲 この地点は東向きに流れてきた神田川がほぼ南に流れを変える場所。
牛天神脇の水野 正保図の青円が「牛天神脇の水野」でしょう。「水ノヒンゴ」と書いるように見えます。
 しかし、下の「小日向小石川牛込北辺絵図」の水野右近の方が「牛天神脇」によく合っているようです。ただ、この絵図は200年後の1849年に描かれたものです。また、水野右近は静岡県伊東市宇佐実の一部を所管する旗本でした。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

水野備前 みずのびぜん。水野家2代が安中城主だった。2万石。
安中城 群馬県安中市安中の戦国時代から続く城。
玄孫 やしゃご。げんそん。孫の孫。ひまごの子。
水野勝成 江戸前期の備後国福山藩(福山市)藩主。幼少より徳川家康に仕えた。大坂の陣で大和(奈良県)郡山藩主になり、島原の乱では原城を落城した。通称は六左衛門。生年は永禄7年8月15日。没年は慶安4年3月15日。88歳。
出雲守 江戸東京博物館では「『◯◯守』『◯◯介』のことを『受領名』『官職名』などといいます。徳川家康が慶長11年(1606)に武家の官位執奏権を手に入れ、以降は将軍が朝廷に奏請する権利を持ちました。『近世武家官位の研究』では『同姓同名とならないか、老中など然るべき役職にある者の名前に抵触しないかなどを吟味し、支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めたのであろう』」(橋本政宣「近世武家官位の研究」続群書類従完成会、1999年。八木書店、2015年)
下賜 かし。高貴の人が、身分の低い人に物を与えること。
神田広小路 広小路とは「近世の都市において,普通の街路よりも特に幅広くつくられた街路のこと。城下町など町制の行われた都市では,延焼防止のための防火帯であるよけとして設けられることが多い」。でも、神田広小路はどこなのか、わかりません。「江戸町巡り」では「千代田区外神田一丁目11番」が神田広小路だといっているようですが、この場所は本書の中の言葉とは相当違っています。

「水野十郎左衛門屋敷」綿谷雪「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)

正保図に<水野出雲> これは上の正保図の黒丸か下の黒四角です。この<水野出雲>は<水野出雲守成貞>以外には存在しないので(「出雲守」の項参照)、神田広小路はどこかわかなくても、この黒丸は水野出雲守成貞の屋敷だと言ってもいいでしょう。
西神田1丁目11番地 昭和42年4月1日から住居表示実施され、西神田1丁目奇数番地は西神田2丁目に変わりました。現在、正保図の黒丸は、右図の左の斜線部とは少し違って、西神田2丁目2番の一部と7番の一部をまとめたもの(下の黒四角)でしょうか。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

つゆのあとさき|永井荷風(3)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座で働く君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは出獄してまだ間がない「おじさん」です。そして「つゆのあとさき」はこれでおしまいです。

 君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通りすぎる女にからかう学生もいないのは、大方おおかた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静なかいの音にまじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとににぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川こいしかわの家へ同居した当時の事をおもい出す。京子と二人で、岸のあかりのとどかない水の真中までボートをぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣いんしな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前によこたわっている飯田橋いいだばしから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫ひとりむしつぶてのように顔をかすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納みおさめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失きえうせないように、く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄すすみよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭こかげから現れ出た男にあやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受してうし天神てんじんしたかこっていた旦那だんなの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といってある会社の株式係をしていたがつかい込みの悪事があらわれて懲役に行ったのである。その時分は結城ゆうきずくめった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらし手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかた兵児帯へこおびをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
見附 新見附でしょう
四番町 現在の四番町とは違います。九段北四丁目の北部です。近くに新見附橋があります。旧麹町区の新旧町名対照図 震災復興前後

旧麹町区の一部
電車 大正時代、電車といえば路線電車=チンチン電車のことです。
京子 君江の小学校の友達で、牛込の芸者になり、さらに、ある会社の株式係の川島金之助のめかけに。君江と京子と川島の三人で一夜を共にしたことも。しかし川島は横領の咎で収監。しかし、川島は仮釈放中か満期釈放で、自由の身になっていました。
小石川の家 小石川は小石川区です。家は小石川区諏訪町にあると後でわかります。
淫恣 いんし。みだらで、だらしがない。
活劇 劇の展開を思わせるような波乱。激しく派手な格闘。乱闘
市ヶ谷見附 市ヶ谷見附は江戸時代に江戸城の外堀に作られた枡形の城門ですが、その見附は今はなくなり、「市谷見附」交差点だけが残っています。
火取虫 夏、灯火に集まるヒトリガなどの蛾の類
 れき。小さい石。こいし。いしころ。つぶて。
牛込 牛込区、特に神楽坂を中心にする地域
牛天神下 後で「諏訪町で御厄介になっていた」と君江が言っています。「牛天神下」とは「牛天神=北野神社の下」という意味なのでしょう。
結城ずくめ 結城紬は茨城県結城市の周辺で織られる、奈良時代から続く高級絹織物。「ずくめ」は「そればかりだ」
洗ざらし 衣服などの、幾度も洗って、色は薄れる状態。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行くうち、川島は木蔭こかげのベンチには若い男女の寄添っているほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、あかるいところが神楽かぐらざかだな。そうすると、あすこが安藤阪あんどうざかで、の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似まねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たらあきらめをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。
定めし さだめし。あとに推量の語を伴って、おそらく。きっと。さぞかし。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
有合う ありあう。ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。
諏訪町 現在は文京区後楽二丁目の一部。

小石川区諏訪町

心づいて こころづく。心付く。気がつく。考えが回る。失っていた意識を取り返す。正気づく。
 「阪」のこざと偏から土偏に変えると「坂」になります。「阪」は「大阪」など地名・人名にしか使われていません。それ以外には「坂」を使います。

昭和17年(標準漢字表)
昭和21年(当用漢字表)
昭和23年(戸籍法)人名用漢字に阪は使えない
昭和56年(常用漢字表)
平成16年(常用漢字表)人名用漢字に阪は使える

安藤坂 春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。

安藤坂

 突然土手の下から汽車の響と共に石炭のけむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなくたもとに顔をおおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊さしつかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午おひる時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径こみち一筋ひとすじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程みちのりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車がとまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩ひとあしひとあし市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
 たもと。和服の袖の下の袋状の所。
市ヶ谷本村町 戦前の市ヶ谷本村町は、陸軍士官学校を除くと、小さかったようです。

大正11年 東京市牛込区

電車通 路面電車が通る道

 君江さんは「おじさん」と一緒に下宿の2階にやってきます。

「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉のどの焼けるのをうるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きくいきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔いんぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘きむすめらしい様子が残っていたのが、今ではほおからおとがいへかけて面長おもながの横顔がすっかり垢抜あかぬして、肩と頸筋くびすじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐ったもものあたりの肉づきはあくまで豊艶ゆたかになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶ようやな趣が目につくようになった。この趣はたとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客けんかくの身体には如何いかにくつろいでいる時にもすきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りにひざを崩して窓の敷居に片肱かたひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方こなたから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江はなかばをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄はなうたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌てじゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
     *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーのびんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣うらどなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見るとまくらもとに書簡箋しょかんせんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出ひきだしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢であいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切しんせつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。
昭和六年辛未かのとひつじ三月九日病中起筆至五月念二夜半脱初稿荷風散人

淫奔 いんぽん。性関係にだらしのないこと。みだらなこと。
生娘 うぶな娘。男性との性体験のない娘。処女。
 おとがい。下あご。あご。下顎の正中部、下唇の下に、横走する溝をへだてて突出する部分。英語でchinと呼ぶ部分だが、日本語には「おとがい」という古びた言葉しかない。
垢抜け 洗練した。素敵に見せられるように外見を変化させること。
豊艶 ほうえん。ふくよかで美しい。
正業 せいぎょう。正当な職業。かたぎの職業。
妖冶 ようや。なまめかしくあでやかな。妖艷
平生 へいぜい。ごく普通の状態。状況の中で生活している時。ふだん。平素。
サムライ日本 昭和6年「サムライ日本」は西条八十が作詞、松平信作が作曲して、「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/のびた月代寂しく撫でて/新納にいろうつる千代ちよ にがわらひ/昨日勤王 明日は佐幕/その日その日の出来ごころ/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し」と続きます。新納鶴千代は主人公で、大老井伊直弼の隠し子です。
思置く おもいおく。気にかける。あとに心を残す。思い残す。
念二 「念」は漢数字「廿」の大字だいじで、二十。したがって、「念二」は「22」になります。
夜半 よはん。よなか。0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい
 サイ。わず-か。わずかに。すこし。やっと。
散人 さんじん。役に立たない人。俗世間を離れて気ままに暮らす人。官途につかない人。閑人。文人などが雅号の下に添えて用いる語。散士。

牛込から早稲田へ

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。

牛込から早稲田へ
 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公くまこうというのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さがすん、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷みずたに八重子やえこが芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号のうちは何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入はいると寄席よせだ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんなうちは影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。
六寸一寸二寸 一寸は約3.03cm、二寸は約6cm、六寸は約18cm
GINZA DOTEN 英語は正しいですが、銀座のDotenは不明。「同店」か?
トツクニ 外つ国。外国。異国。「つ」は「の」の意の格助詞
ヒサグ 鬻ぐ。販ぐ。売る。商いをする。

待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町しんおがわまち花屋だ。新小川町なんていうより大曲おおまがりの方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ、、、君なる揚げ、、まん、、じゅう、、、みたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。
 大曲へ来てしまったか! 電車でんしゃみちを早稲田へ行く。石切いしきりばし。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋まるやのそば、こいつも有名だ。この二軒は小石こいしかわに属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代かいだいちょう。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。
花屋 横浜植木は現在も神奈川県横浜市で営業中。1890年(明治23年)鈴木卯兵衛を代表者として「有限責任横浜植木商会」を創業。1913年(大正2年)4月、東京市牛込区新小川町に東京売店を開設。
電車道 路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここは現在は目白通り。
橋本 文京区水道2-5-7にある鰻の「はし本」。創業は天保6年(1835年)。
丸屋 現在不明。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
ムッシュウ・クラヤミのウシマツ 暗闇の丑松。戯曲。昭和九年(1924)、六世尾上菊五郎が初演。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松は、愛妻お米を親方四郎兵衛にあずけて江戸を立退いた。一年たって戻るときに、丑松は女郎になったお米に再会。四郎兵衛に騙され売り飛ばされたと事情を聞いても信じられず、激怒。お米が首を吊って死んだ後になって、やっと真実を理解した丑松は、非道に気づき、江戸へ帰るや四郎兵衛夫妻を殺し、何処ともなくのがれて行く。

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

 柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名