関根弘氏の「パビリオンTokyoの町」(創樹社、昭和61年・1986年)です。氏は詩人、評論家で、小学校の時から詩を発表。問屋小店員から、木材通信社、日本農林新聞、軍事工業新聞などの業界紙記者になり、日本共産党員における活動(昭和21年)と除名(昭和36年)。昭和34年からは詩作と評論に専念し、昭和58年(1983)、腹部大動脈瘤が破裂し、人工透析に。生年は大正9年(1920)1月31日。没年は平成6年(1994)8月3日。74歳。
神楽坂
山田紙店の原稿用紙
石垣りんに「神楽坂」という詩がある。出版クラブの帰り道、飯田橋駅へ向かってひとりで坂を下りていくと、先を歩いていた山之口貘が立ち止まって、あのアタリに、と小路の奥を指さし、「ヘンミユウキチが住んでいました」といった。あとの記憶は立ち消えたが、私は「このアタリに」山之口貘が立っていたと思うという内容だ。神楽坂の情景が描いてあるわけではないが、これを読んだとき、ああ、神楽坂だな、とわたしは思ったものだ。出版クラブや飯田橋駅が出てくるからではない。小路が決め手だ。
神楽坂は、坂を幹とすれば、左右に枝のように小路があって、ヘンミユウキチが住んでいただけではない。わたしの友人も住んでいたし、飲み屋が軒を並べていた。飲み屋はいまも軒を並べている。坂の上の毘沙門天の横を入っていけば、三業地。こちらのほうは、かつてもいまもわたしに無縁の世界だが、神楽坂の色どりになっている。わたしは青春時代の一時期、この神楽坂の空気を呼吸していた。青春時代には、いま自分が青春を生きているなどとは思わないもので、わたしもいかに安くて美味い酒を飲むかに腐心していた。 21歳から23歳になるまで、神楽坂を向かいから見下ろす位置にある富士見町の高台、警察病院の横を入ったところの新聞社に勤めていた。新聞社といっても、林業、木材だけを対象とする業界紙で、社長は平野増吉という岐阜の林業家。かつて日本電力の庄川ダム建設工事に反対し、木材の流送権を楯にとってたたかった猛者だった。当時は木材の統制、自由営業の廃止に強く反対していた。 朝、出勤すると、高橋隆という初老の営業局長に「お茶を飲みにいきましょう」と誘われ、電車道を挟んだ神楽坂まで下りていき、坂下のブラジル・コーヒー店に入る。そこで社長の武勇譚を聞かされたり、木材統制反対の秘策を練ったりで、たちまち一、二時間は空費され、それから取材に出撃ということになる。夜は夜で、編集部長の岡野敬治郎という男に「一杯、飲みにいこう!」と誘われ、やはり坂下の「松竹梅の酒蔵」を振りだしに、神楽坂を漫遊することになる。つまり、小路の奥に入っていくことになるわけである。同僚の記者も不思議にお酒の強いものばかりで、電車道をもう一つ越えた坂の中途の左を入ったところの「官許どぶろく」の看板を出している飯塚という飲み屋によく連れていかれた。 終電に乗り遅れることもしばしばだった。すると、小路の奥にある岡野敬治郎の家や同僚の境野くんのアパートに泊った。八木さんという同僚の飲んでいる姿は亀のようだった。境野くんのアパートの部屋には枯れた花がいつまでも捨てられずに挿してあった。日米開戦で統制がきびしくなり、1円50銭以上は飲めないことになったが、開戦当初は店内に入れば明るく、ハシゴすれば充分飲めたのであった。わたしは、開戦前夜の飯田橋駅と神楽坂の情景をつぎのように書いている。 夕方5時から6時頃の間の最も混雑する時で、高台の蔭にカーブしたレールの上に最初の車輌が姿を現はしたのを見つけて慌てて改札口に一刻を争ふ人々が多く見受けられた。すこし急げば間に合ふのを落着きはらつて見送る人もあった。女学生や女事務員は改札口の脇にある長椅子にかけて大抵は友達を待合せて帰つた。/其等の人々は高台の方から何処からともなく集つてくるのであつた。濠を越えた向ふには和洋折衷式の屋並が群れ、その屋並をたち切つてVの字型にせり上つた繁華な坂があるが、その方向から来る人は少かつた。(昭和16年5月)
正岡子規の写生小説の向こうをはって書いたつもりの短篇からの抜萃である。出来栄えのほどは誇るわけにいかないが、これが戦時下かと思える雰囲気を伝えることには成功しているだろう。
原稿用紙はむろん神楽坂の老舗山田紙店製のものを使った。山田紙店の原稿用紙は、本郷の松屋製の原稿用紙と並んで有名である。松屋製の原稿用紙は夏目漱石が愛用した。わたしの短篇は、洛陽の紙価を高めることはできなかったが、それは山田紙店もいたしかたないと思うだろう。 先日、地下鉄東西線の神楽坂駅を降りて、なつかしの古戦場を一巡してみた。山田紙店の前に来たら、店の間口が半分に削られており、半分は、都営と営団地下鉄飯田橋駅の乗降口になっていた。時の移り変わりのはげしさを痛感したが、性懲りもなくまた原稿用紙を買ってしまった。弘法は紙を、いや筆を選ばぬというのに……。 |
山之口貘 やまのくち ばく。詩人。生年は1903年(明治36年)9月11日。没年は1963年(昭和38年)7月19日。放浪と貧窮の中で風刺とユーモアを感じさせる詩作。
ヘンミユウキチ 逸見猶吉。詩人。生年は1907年(明治40年)9月9日。没年は1946年(昭和21年)5月17日。1928年、21歳の頃、神楽坂で酒場「ユレカ」を経営。壮大でニヒル、暗い詩風。
三業地 芸妓屋、待合、料理店の三業組合(同業組合の一種)がある区域
色どり 物に美しく色をつけること。着色。彩色。おもしろみや変化を求めて工夫を凝らすこと。
21歳から23歳になるまで 昭和16年から昭和18年まで。1941年から1943年まで。
警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。
新聞社 麴町区富士見町2丁目9番地の日本農林新聞(関根弘氏の「針の穴とラクダの夢 : 半自伝」草思社、昭和53年)。同書によれば、氏が日本農林新聞に入ったのは昭和15年(1940)頃です。
平野増吉 ひらのますきち。明治24年、林業界に入る。飛州木材専務。大正15年の庄川事件(小牧ダム・小牧発電所)では中心的な役割を果たし、流木権と山村民の生活権をめぐって電力会社(日本電力など)と争う。昭和12年から日本農林新聞社長。昭和16年、国の木材統制に反対して投獄。戦後の昭和21年、日本進歩党から岐阜県の衆院議員に当選1回。生年は明治11年4月20日、没年は昭和34年11月1日。81歳。
林業、木材だけを対象とする業界紙 「日本農林新聞」です。
電車道 でんしゃみち。路面電車の軌道。路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここでは「外堀通り」です。
ブラジル・コーヒー店 インターネットの「西村和夫の神楽坂」(東京理科大学理窓会埼玉支部、現在ブログは終了)では
戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。 |

牛込三業会「牛込華街読本」中の「現在の神楽坂」昭和12年 昭和10年代の神楽坂通り(写真)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和12年 昭和10年代の神楽坂通り(写真)
松竹梅の酒蔵 「松竹梅酒蔵」は大正9年、灘の酒造家・井上信次郎が酒柄に「清酒之精華 松竹梅」と名付け、昭和8年、宝酒造の傘下として松竹梅酒造を設立。「松竹梅」の販売を強化した。
電車道をもう一つ越えた坂 電車道の中で大久保通りという電車道を超えて朝日坂になった。
屋並 やなみ。家が並んでいること。並んだ家。のきなみ。やならび。
昭和16年5月 「針の穴とラクダの夢 : 半自伝」によれば、「文化再出発の会」の雑誌「文化組織」(昭和16年5月号)に載った短篇「最後の扉」です。
松屋製の原稿用紙 東京雑写では
本郷 紙屋・松屋跡(芥川龍之介の原稿用紙) 東大正門近くの本郷通り沿いで、日本初の大学ノートの製造販売をおこなった紙屋「松屋」。 1884年(明治17年)に紙製品の製造販売を目的として創業し、原稿用紙の扱いでは、文豪・夏目漱石、芥川龍之介、徳田秋声らの愛顧を得てゆく。特に芥川龍之介が愛用し、青い枠線・左下の同色の店名の入った原稿用紙を、現在でも各地の文学館の催し等で度々目にすることができます。駒場の日本近代文学館の芥川龍之介展でも展示原稿のほとんどが松屋製。甲府の山梨県立文学館でも芥川直筆の松屋製の1枚が展示されていた。 松屋は昭和19年、戦局悪化の中、空襲による類焼防止のための建物疎開命令で店舗を解体。店の裏(西側)にあった土蔵を残して、路地(落第横丁)の北側に工場を移転して営業再開。創業69年目の1955年(昭和30年)になって紙屋「松屋」は解散しました。 |