新宿歴史博物館」タグアーカイブ

箪笥町(写真)ID 18243 平成26年

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243は平成26年(2014)に箪笥町などを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243 牛込神楽坂駅。箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

 左手前は牛込区役所・牛込生活館のあった場所で、現在は箪笥町特別出張所、牛込箪笥区民ホール、牛込箪笥地域センター(集会室など)が集まる区民施設です。ここには地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」のA1出口があります。

 左手の先には「グローバル新神楽坂」(地上12階)、「パークハウス牛込神楽坂」(地上13階)、「キッチンコート神楽坂店」と続きます。
 右手には「日米Time24ビル」(地上10階、地下1階)、「アーバンライフ神楽坂」(地上8階)、「山文ビル」(地上10階)、白色と緑色が印象的な「ルネ神楽坂」(地上17階)があります。

兵庫横丁(写真)ID 18242と18400 平成26年と平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242は平成26年(2014)に、ID 18400は平成27年(2015)に、軽子坂を登ってから(あるいは材木横丁和泉屋横丁から)兵庫横丁に入る直前に撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242 神楽坂から南方向を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18400 神楽坂から南方向を望む

兵庫横丁 住宅地図 平成29年

 正面の高いビルはオザワビル(地上7階、地下1階)で、その右側は神楽坂テラス(地上7階、地下1階)、ID 18400では最右側に「神楽坂アインスタワー」(地上26階)も見えます。
 左側の前はイタリア料理の「リストランテ ラストリカート 神楽坂」。次の「神楽坂おいしんぼ」は良く見えませんが、ID 18400では店の前にスタンド照明が出ています。その奥の角が「旅館 和可菜」です。
 右側の建物は前から「神楽坂AGEビル」「オフィス万り八仙」「料理幸本」で、ID 18400では「神楽坂 幸本」「やくら」「八仙」と料理店名も出ています。

神楽坂下交差点(写真)ID 18399 平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18399は、平成27年(2015)、牛込橋近くから神楽坂通りや外堀通りなどを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18399 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があり、その後、この英文は「Kagurazaka-Hill」に改められました。東京オリンピック(2020年予定)や外国人観光客の増加に備えた政令改正に基づく措置のようです(ID 17576 )。
 左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆ピラミッドの街灯に変わりました。また、電線が地中化し、歩道はブロック(インターロッキング)で舗装しています。
 周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、木々は裸木です。歩行者の衣服について半袖も完全な冬用もなく、3月か11月でしょうか。

神楽坂1丁目(平成27年)
  1. CANAL CAFE/boutique(カナルカフェ)
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  4. 外堀通り
  5. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  6. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  7. モスバーガー。屋上広告「M/モスバーガー」「↓ この下」
  8. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「神楽坂 翁庵」「ラーメン/一風堂/Uターン/徒歩3分/飯田橋サクラテラス店」「M すぐ」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」「まんが喫茶ゲラゲラ 4F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  9. 屋上広告「いちごナビ 15 Navi」
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 外堀通り
  4. アパマンショップ。アパマンショップ(不動産仲介業)
  5. りそな銀行/りそなクイック入金
  6. (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶(一方通行)12ー24
  8. 「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  9. 「ドトールコーヒー/DOUTOR」
  10. カグラヒルズ 「MacDonald’s」
  11. 「地球最大 セガ神楽坂」

神楽坂下交差点(写真) ID 18239 平成26年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18239は、平成26年(2014)、牛込橋方面から神楽坂の写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18239 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があります。英文表記は後に「Kagurazaka-Hill」に改められました(ID 17576 )。左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 牛込橋周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、右側の落葉樹は新芽が生えるようです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。また、電線が地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されていて、道路は「歩行者(用道路)」として歩行者天国になっています。歩行者の衣服はどれも冬用です。カグラヒルズの広告が3月20日のイベントを告知しているので、平成26年2月から3月初め頃の撮影でしょう。

神楽坂1丁目(平成26年)
  1. ▶街灯に旗「神楽坂」
  2. (カナルカフェ)
  3. (歩行者横断禁止)(区間内)
  4. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  5. 外堀通り
  6. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  7. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. エイブル(不動産会社)
  9. モスバーガー。屋上広告「MOS BURGE R」「◯バーガー」
  10. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「広告募集 03-5◯74」「M すぐ」「神楽坂 翁庵」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 「(東京)大神宮/靖國神社/←」
  4. 外堀通り
  5. アパマンショップ。「おかげ様/全国売上」アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. ▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  8. 「薬ヒグチ」
  9. 「(山田)紙店」
  10. 「ドトールコーヒー DOUTOR」「BOOK・OFF」「→2◯Om」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「PS3 ソニコ星」「KADOKAWA 3.20 in Store」「(カラ)オケの鉄人 11:00~AM/6:00」「MacDonald’s/まんま/カラオケの鉄人 3F」
  12. 「坐2F」

牛込濠(写真)遠景 ID 19041 令和3年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19041は令和3年(2021年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 19041 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線、静かな牛込壕、樹木で隠れた外堀通りがあります。建物では……

ID 19041から

1 「東京理科大学5号館」
2 「双葉ビル」(地上4階)看板は「日刊大衆 週刊大衆 アクション」「ポケチュー」
3 「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
4 「ヒルズ砂土原」(地上5階、地下1階)
5 「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)看板は「都立中高に/圧倒的実績/ena/◯◯200◯◯◯◯/◯◯◯◯」
6 「東京日仏学院
7 「あずさセンタービル」か?
8 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)」
9 「家の光会館」(地上7階)
10 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
11 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階)
13 「東京理科大学1号館」(地上17階)

ID 19041から

14 「東京理科大学7・9号館」
16 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下2階)
17 「揚場ビル」(地上10階)
18 「第一勧銀稲垣ビル」(地上8階、地下2階)(青い塔屋は「MIZUHO」)
19 「福升ビル」(地上8階)
20 「住友不動産飯田橋ファーストビル」(地上14階、地下2階)
21 「住友不動産飯田橋ファーストビル」
22 「五洋建設
23 「後楽鹿島ビル」(地上12階、地下1階)
24 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
25 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」南棟(地上20階)
26 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」北棟(地上16階)
27 「首都高速道路5号線(池袋線)」

牛込濠(写真)遠景 ID 18566 平成29年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 18566は平成29年(2017年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18566 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右側は千代田区富士見二丁目の高台だけが見えます。さらにJR中央・総武線と静寂な牛込壕、樹木で隠された外堀通りがあります。建物は……

ID 19041 から

1 「龍生会館」(いけばな龍生派本部会館)
2 「東京理科大学5号館」
3 「双葉ビル」(地上4階)看板は「週刊大衆」と「クレヨンしんちゃん」
4 「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
5 「ヒルズ砂土原」(地上5階、地下1階)
6 「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
8 「市ヶ谷エスワンビル」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
9 「東京日仏学院
11 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
12 「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
13 「家の光会館」(地上7階)
14 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
15 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階)
17 「東京理科大学1号館」(地上17階)

ID 19041 から

18 「東京理科大学7・9号館」
19 「神楽坂一丁目ビル」
20 「揚場ビル」
21 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」
22 「第一勧銀稲垣ビル」(青い塔屋は「MIZUHO」)
23 「飯田橋升本ビル」
24 「福升ビル」
25 「飯田橋ビル」
26 「安田ビル」(赤いビル)
27 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」
28 「CANAL CAFE」

牛込濠(写真)遠景 ID 18548 平成28年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18548は平成28年(2016年)1月27日、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18548 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右下にはJR中央・総武線の線路があり、中央線の快速電車が走っています。牛込壕があり、左には樹木で隠れた外堀通りがあります。

 右側からの建物は……

ID 18548から

1 「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)
2 「飯田橋プラーノ」の住宅棟「プラウドタワー千代田富士見」(地上38階)と
3 「飯田橋プラーノ」の事務所棟「ステージビルディング」(地上17階)
4 「東京都立中央・城北職業能力開発センター 人材育成プラザ」
5 「警視庁飯田橋庁舎」
6 「住友不動産後楽園ビル」(地上20階、地下2階)
7 セントラルプラザ「ラムラ」の北棟(地上16階)と南棟(地上20階)

 左側からの建物は……

ID 18548から

1 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
2 「家の光会館」(地上7階)。
「油」は「油セルフ セルフ市ヶ谷SS(ライフ白銅)」
3 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
5 「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6 「東京理科大学1号館」(地上17階)
7 「東京理科大学7・9号館」
8 「東京理科大学入試センター双葉ビル」
9 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
10 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)

 中央は……

ID 18548から

1 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
2 「揚場ビル」の塔屋看板
3 「揚場ビル」(地上10階)
4 「飯田橋ビル」(地上11階、地下1階)
5 「飯田橋中央ビル」(地上8階、地下1階)
6 「安田ビル」(地上8階)
7 「ファーストヒルズ飯田橋」(地上14階)
8 「五洋建設ビル」(地上13階、地下1階)
9 「エトワール飯田橋」(地上10階)
10 「CANAL CAFE」


牛込見附(写真)石垣 ID 18224-25 令和6年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18224-25は令和6年(2024年)、飯田橋駅西口テラス階から見た牛込見附の石垣などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18224 飯田橋駅から見た牛込見附の石垣

 ID 18224の奥の右側から見てみると、プラットフォームとJRの線路があり、奥の中央には巨大な石垣と、その奥を歩く通行人たちがいて、白く輝いているのは「牛込見附公衆便所」です。
 この石垣は江戸城の外郭門である牛込見附の1部です。ここで「見附」とは「防御のために城の入口に設ける四角形の空地(ますがた)がある門」です。石垣の手前は道路に沿って、植栽が並んでいます。
 ID 18224の中央に牛込橋があり、道路は「早稲田通り」、左に行くと千代田区、右は新宿区です。道路標識は (歩行者通行止め)です。
 写真手前の右端は飯田橋駅西口駅舎に続く階段。階段の脇にはエレベーターに続く通路があります。その左は石垣が2段になっていて、段差の部分に石塀と青白の石碑があります。
 かつて石垣はツタに覆われ、上部には木が生えていました(ID 9810)。これらは綺麗に除去されています。千代田区は次のように説明しています。

牛込門石垣について
石垣上部の雑草の繁茂を防ぐため、
・東側の石垣上部には「防草砂」で、
・西側の石垣上部には「モルタル」で、
それぞれ舗装している

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18225 飯田橋駅から見た牛込見附の石垣

 ID 18225ではさらに左向きになって写真を撮っています。左端には緑色の囲いがあるのは、飯田橋駅から写真左側への新たな通路の公示のためでしょう。石垣の奥の2階建ての白い建物は「麹町警察署飯田橋駅前交番」です。最も左の奥は「日本基督教団 富士見町教会」で、わずかに「飯田橋サクラテラス」が見えています。
 なお、現在の牛込見附について、側面には再びツタが生えてきています。

2024

2024年9月

飯田橋(写真)駅ホーム ID 18226 令和6年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18226は令和6年(2024年)、飯田橋駅ホームから見た外堀などを撮影しました。以下は地元の方の解説です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18226 令和6年

 写真下から順に見ていきます。

ID 18226から

 手すりの手前はJRの線路敷きです。小さな四角い石が並んでいるのは、鉄道の通信線などを収容するトレンチ(側溝)。手すりの間の大きな四角は、西口の旧駅舎を支えていたコンクリート脚を撤去した後です。
 その奥の一段、下がったコンクリート部分は牛込濠から飯田濠へ流路(どんどん)の護岸部分です。この構造は、駅改築前のID 8267やID 8286に、わずかに写っています。
 写真に戻って、中央の緑の水面が飯田堀。右の石垣は、飯田堀再開発の埋め立て地です。左奥は飯田濠の水を下流の神田川に流す暗きょの入り口。
 中央の橋は、牛込橋の土堤と飯田濠の埋め立て地を結ぶ「みやこばし」です。手すりは金属製で、細かな透かし模様があります。
 写真右上、右側のセントラルプラザの「ラムラ」には「RAM(LA)」の丸屋根、「TOMAS」「Can★Do」「日産レンタカー」「伸芽会」「北海道」などの壁面看板があります。その向こうは外堀通りを挟んだ「神楽坂一丁目ビル」です。
 この付近を令和4年(2022年)に撮影した写真があるので、以下添付します。わずかの間に手すりなどが整備されています。

飯田堀の開渠部(2022年)

牛込濠(写真)遠景 ID 17002-04 令和4年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 17002-04は令和4年(2022年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID17002 、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17003、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17004、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線があり、牛込壕は透明で、樹木の間に外堀通りがあります。外堀通り周辺の建物は低層ですが、その理由は、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。

ID 17002から

ID 17004から

A「パークハウス市谷田町」(地上12階)
B「東京理科大学5号館」(地上5階)
C「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
D「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
E「市ヶ谷エスワンビル」1階に「肉のハナマサ 市ヶ谷店」看板「ena」
F「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
G「家の光会館」(地上7階)
H「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
I「東京理科大学1号館」(地上17階)
J「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
K「飯田橋ラムラ(RAMLA)」(地上20階)

1「東京日仏学院
2「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
3「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4「東京理科大学8号館」
5「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6「東京理科大学7・9号館」
7「東京理科大学入試センター双葉ビル」
8「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
9「飯田橋升本ビル」など。ビル越しに「みずほ銀行」の看板

飯田橋分水路工事(写真)ID 14812〜15 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14812-15は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路の工事を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14812、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14813、飯田橋分水路工事、昭和52年

 神田川沿いの目白通りを東向きに撮影しています。ID 14812は右端に「石切橋」の交差点表示と信号機。左の先に石切橋があり、神田川を渡っています。目白通り沿いには写真奥に向けて「三菱石油」「共立」の看板。さらに奥のビルの「◯AN」は、ID 14813の「TO」と併せて「TOPPAN」(凸版印刷)でした。
 首都高速道路はT型橋脚で、「非常駐車帯」の出っ張りが路面を覆うコンクリートに影を落としています。分水路の工事が終わったあとでしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14814、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14815、飯田橋分水路工事、昭和52年

 ID 14812-3とは逆で西向きの撮影です。首都高のT型橋脚は右側が長く、神田川の上にせり出しています。ID 14815は手前の交通信号のある橋橋を自動車が渡っていて、これは「古川橋」です。さらに奥に向けて「掃部かもんばし」と「はなみずばし」と「江戸川橋」と続きます。

 ID 14814の左に「三菱銀行」の江戸川橋支店の看板があります。この支店は2020年10月26日に統合(廃止)され、現在は三菱UFJ銀行神楽坂支店内です。

飯田橋分水路工事(写真)ID 14805-11 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14805-11は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路と高速5号池袋線飯田橋入口の工事などを撮影しました。

 当時は飯田橋分水路はまだ100%はできていません。完成すれば下図のようになります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14810 飯田橋分水路工事

 下図のように地下鉄の上に既存の分水路があります。この左側に新しい分水路ができつつあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14811 飯田橋分水路工事


 当時は高速道路5号(池袋線)の飯田橋入口と料金所も新たに作っていました。左側には首都高の道路、その下に見えませんが神田川、右側には目白通り、右の遠くに飯田橋の立体交差点などが見えます。コンクリートがある地下に分水路が1本新たに追加されます。橋脚にいる作業員は合わせて4人、舗装上にいる人は1名です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14805 飯田橋分水路工事

 飯田橋料金所(飯田橋入口)に登る道路は最初には曲がっています。

飯田橋料金所の道

 飯田橋料金所に近くなり……

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14806 飯田橋分水路工事

 さらに近くに来ました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14807 飯田橋分水路工事


 別の場所ですが、ここについて考えてみます。首都高のT型橋脚が右奥へ伸び、神田川と橋が見えています。左側の目白通りに沿って建築中の建物には「安全第一 東武建設」の看板。そのすぐ右下には「飯田橋ハイツ」と読めます。飯田橋ハイツは1977年(昭和52年)完成なので、時期も符合します。
 つまり、写真に見える遠くの橋は西江戸川橋で、次の橋との距離が最小である小桜橋に撮影者はいるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14808 飯田橋分水路工事

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14809 飯田橋分水路工事

飯田橋駅(写真)東口 歩道橋 ID 12104 昭和54年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104は昭和54年(1974年)3月2日、飯田橋歩道橋を中心に、他にも巨大なタンクローリーの一部、わずかに見える首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104 飯田橋歩道橋前 目白通り

 歩道橋では左から地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」、交差点名表示「飯田橋/IIDABASHI」、方向表示「市ヶ谷/新大久保/目白/水道橋」。道路標識は(指定方向外進行禁止)「8-20」が2個。
 建物では左から「ビューティープラザ/レディ」「(ミカワ)薬局」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」とおそらく万国旗「(モリ)サワ」「M」「フ(ィニッシュワークスクール)」

飯田橋駅東口(写真)商店街 昭和54年 ID 12030, ID 12091-12100

文学と神楽坂

地元の方からです

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030, 12091-12100は昭和54年(1974年)に飯田橋や目白通り付近を撮影したものです。
 簡単に地図で撮影場所を見てみます。

1970年 飯田町駅東口付近

(1)ID 12030は、少し離れた⑦です。突き当たりの木造住宅は、飯田町貨物駅に隣接する旧国鉄の職員住宅です。現在はホテルメトロポリタン エドモントが建っていて、写真のあたりが正面入り口になります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030 飯田橋二丁目 1979年

(2)ID 12091は①。目白通りから1本、奥に入る道の入り口です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12091 クリーン薬局飯田橋店 1979年

(3)ID 12092-93は②③。国鉄(現在はJR)飯田橋駅の南東側で、東口から西口へ向かう土手沿いの商店街です。2階には「喫茶白ゆり」。これは深夜営業店で、仮眠しながら始発を待つ人にはよく知られていました。今は閉店中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12092 飯田橋喫茶白ゆり 1979年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12093 飯田橋 1979年

(4)ID 12096は④で、左側に国鉄(現在はJR)の飯田橋駅東口があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12096 飯田橋通りガード 1979年

(5)ID 12097は番地から見ると⑥付近です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12097 飯田橋四丁目9住居表示 1979年

(6)ID 12100は⑤で、新宿区の下宮比町の第一勧業銀行飯田橋支店、東海銀行飯田橋支店などが見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12100 飯田橋歩道橋前 1979年

 コート姿の人が写っているので、時期は冬でしょう。同じエリアを撮影したID 12083、85-90、94−95、98ID 652、662、664、12102、12103、12105、12106などと同時撮影ではないでしょうか。

神楽河岸(写真)ID 483 ID 11459 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 483とID 11459はほぼ同じ写真でしたが、ID 483の画角の方がやや大きくなっていました。ID 483は飯田橋駅東口でも出ています。撮影は飯田堀再開発前の1976年(昭和51年)でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 483

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11459 東京都水道局神楽河岸営業所(飯田橋付近)

 中央に2階建ての「東京都水道局」の建物があります。その左側のテント状の屋根は「ごらくえん」の建物で、すでに閉店しています。2ヶ所の間にはコンクリートの床が見えますが、丸友パチンコの跡でした。右端も水道局の建物です。
 その前にある道路が外堀通りで、その横断歩道を歩く人々がいます。道路標識は左から(歩行者横断禁止)、(駐車禁止)、(転回禁止)、(大型貨物自動車等通行止)、さらに都バス停留所「神楽河岸」です。
 水道局の背面には外濠がありますが、水面は見えません。その背面には「東京燃料林産(株)飯田橋支店」があり、少し離れて反対側から見たネオンサイン「ミ(ツ)ウロコ」(?)があります。
 さらには国鉄「飯田橋駅」の上部が見え、牛込橋も見えます。
 最後は一段高くなった千代田区の建物で、左から「飯田橋外語学院 10月生受付中」「日本歯科大学」「日本歯科大学体育館」「東京警察病院」「飯田橋会館(1階は郵便局)」「前田建設工業別館(暗く見え、1階は「三井住友銀行」)」「石原産業東京ビル」「フジボウ会館(最上階は下よりも広い)」「前田建設工業」などと続きます。

市ヶ谷濠(写真)桜 釣り人 昭和20年代 ID 9488-91

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488〜9491は、昭和20年代に旧江戸城の外堀、桜の花、釣り人などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9489 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9490 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9491 外堀(飯田橋付近)

 以下は地元の方からものです。

 ピントがあっていない写真もありますが、ほぼ同じ場所からの撮影です。手前が新宿区側、濠を挟んだ対岸が千代田区側でしょう。
 場所は「飯田橋付近」としています。ただし、この場所が飯田橋かどうかは疑問です。対岸には国鉄の中央・総武線の線路があるはずですが、奥に向かって下り坂です。飯田橋付近の牛込濠には、こんな坂はありません。

外堀。1977「気まぐれ本格派」33話

 また写真奥には線路の高さに複数の三角屋根が見えます。当時の飯田橋駅は牛込橋の向こう側なので、この場所に駅施設はありません。昭和20—30年代の航空写真でも確認できません。
 では、撮影場所はどこでしょうか。外堀とすれば、四谷方向から市ヶ谷駅に向けて、市ヶ谷濠を撮影したものではないでしょうか。四谷から市ヶ谷にかけての線路は下り坂です。駅は四谷側にのびており、航空写真でも駅施設が確認できます。心なしか濠が写真右に向かってすぼまって見えるのも、市ヶ谷濠の形に符合します。

昭和22年 市ヶ谷濠付近(地理院地図)

 濠は濁っていて、浅く見えます。ゴミも浮いており、好適な釣り場とは言えなさそうです。釣り人は両岸にいますが、多くは小中学の男の子です。大人の男性や割烹着の女性は付き添いのようにも見えます。地域の子供サークルの活動で、手軽な遊びとして「釣りの会」などをした写真ではないでしょうか。

神楽河岸(写真)飯田濠 ID 8285 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、ID 8285は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅から神楽河岸を撮影しました。牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっていて、晩秋から早春にかけての時期でしょう。また、ID 8285とID 8267と8269は桜の枝ぶり、濠の干上がり具会までそっくりで、同じ時の撮影でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8285 神楽河岸

 飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物についてはID 8267と8269ID 8265を参照してください。

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課 F 大郷木材店(倉庫) G 大郷木材店(倉庫)
1 とんかつ森川旧店舗(立喰そば? 早稲田通り) 2 二鶴(早稲田通り) 3 佳作座(外堀通り) 4 三和計器製作所(外堀通り) 5 城北ガレージ(外堀通り) 6 パチンコジャイアンツ(外堀通り)
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル(神楽坂通り) vi 喫茶軽い心(神楽坂通り)vii 五条ビル(神楽坂通り)viii 神楽坂ビルディング(神楽坂通り)

神楽坂一丁目(写真)牛込橋 ID 8283 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 8283は飯田橋駅西口近くから神楽坂や神楽河岸などを撮影しました。年代は「昭和44年頃か」で、桜の葉はなく、男女はコートを着ているので、晩秋から早春にかけてでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8283 飯田橋手前

 写真中央は「牛込見附」交差点で、現在は「神楽坂下」交差点に名前が変わりました。左右が外堀通り、前後が神楽坂通り(早稲田通り)です。外堀通りを走る都電3系統は昭和42年12月に廃止になり、すでに軌道はありません。
 信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、交差点名の表示はありません。逆転式一方を示す回転式の(一方通行)の標識が見えます。神楽坂通りを入った場所には標識「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯には左手前に見えている円盤形の大型蛍光灯があり、「神楽坂通り」の標識と一緒に坂上まで続いています。
 田口重久氏の05-14-37-1(1967-02-08、昭和42年、 牛込見附から神楽坂下)とよく似た画角ですが、ID 8283のほうが少し後の時代です。比べると
・「クラブ軽い心」が「喫茶 軽い心」に変わった
・軽い心の向こうに神楽坂ビルティングが出来て菱屋ビルが見えにくくなった
・左手前の「とんかつ森川」が、少し奥に(つまり「牛込見附」交差点にはより近くに)店を建てて新たな看板を出した
などの違いがあります。

牛込橋→神楽坂(昭和44年)
  1. 袖看板「もつやき 本場沖縄産 琉球 泡盛 ◯雲 ◯正宗 やなぎ」
    (食)事 中華そば やなぎ
  2. 大きく「とんかつ」、消した看板、「食通の店」(森川の旧店舗)
  3. 二(鶴)
  4. 電柱看板「タイプ学院」「独特 とんかつ 森川」
  5. 白鷹 特製とんかつ 森川 白いのれん(森川の新店舗)
  6. 77(喫茶店セブンセブン)
  7. 天下の名酒。富士錦。三富酒蔵
  8. 電柱看板「大久保
  9. (12-24 駐車禁止)
    ――「牛込見附」交差点
  10. 田口屋生花店(5階のビル)
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 広告「産婦人科 加藤医院」
     ――「牛込見附」交差点
  3. さ(くら)や(靴店)
  4. 佳作座の上映作品(赤井商店
  5. 山田紙店
  6. 不二家洋菓子
  7. 塔屋広告「喫茶 軽い心」ファサード広告「喫茶 軽い心」「ハッピージャック」
  8. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。昭和44年(1969年)2月に完成。
  9. 菱屋もビルに。メトロアーカイブの「坂のある街」でもビル。

神楽河岸(写真)ID 8763-66, 68 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8263 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8264 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8265 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8266 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8268 神楽河岸

5図のまとめ

ID 8265から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
A.警視庁(第2機動捜査隊)a.東京理科大学1.佳作座
B.警視庁b.週刊大衆(双葉ビル)2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街)
C.警視庁(神楽坂巡査派出所)c.東京理科大学3.三和計器製作所
D.新宿区役所土木課d.田口屋生花店(神楽坂通り)4.広告「エアーホット」(神楽小路)
E.大郷木材店(倉庫)e.喫茶軽い心(神楽坂通り)5.城北ガレージ
F.大郷木材店(倉庫)f.五条ビル(神楽坂通り6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り)
 ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町)
h.丸金ビル(仲通り)
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル

ID 8266から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
F.大郷木材店(倉庫)h.丸金ビル(仲通り)6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸i.銀嶺会館
(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル
7.東京トラベルセンター
H.大郷木材店
一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社
j.岡本ビル(軽子坂)8.牧書店
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k.セントラルコーポラス9.東京都左官工業協同組合
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)

ID 8268から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k セントラルコーポラス10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)
J.土萬商店資材置場l 東京厚生年金病院本館

※手前に津久戸小学校
11 倉庫(升本総本店)
K.東京都新宿東清掃事務所m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か12 京英自動車
L.東京都水道局n 東京厚生年金病院別館13 キッチンアキラ
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える)o 第一銀行飯田橋支店14 中升酒店
p 稲垣ビル15 堀上工業
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル)16 丸吉百貨店
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町)

 手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
 また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
 後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
 撮影時期は
  昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
  昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
  昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
  ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。

※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)

住宅地図。昭和44年

画角の検討 S50(1975-01-19)地理院地図

庾嶺坂下(写真)昭和43年 ID 8016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016では、昭和43年10月に外堀通りの「逢坂下」を撮影したとのこと。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016 飯田橋付近 外堀通り(逢坂下)

 左手前で道が外堀通りにつながっています。歩道に沿って店がいくつかあります。手前から

  1. 看板「〇〇店」看板
  2. 「麻雀 大三元」
  3. コカコーラと読めない店名看板
  4. 看板「研究社」

 歩道には公衆電話ボックス。「丹頂形」と呼ばれる古い形です。手前の消火栓標識は「東京消防庁/Fire Hydrant/消火栓/火事は119」。
 右側の外堀の向こうには千代田区の東京警察病院といくつかのビルが見えています。警察病院の左に顔を出しているのは富士見町教会です。
 では本当にここは「逢坂下」でしょうか。もし逢坂下なら、少し先に「家の光会館」の高いビルが見えているはずです。
 「逢坂下」の北側の三叉路は「笹尾」と「〇〇〇〇〇」「〇木三史」です。1本北側の「庾嶺坂下」は、昭和43年の地図では「事務所」「〇業KK」「研究社」です。写真の3軒目の建物は「研究社」です。よく見ると、その向こうの石造りの建物も研究社の旧社屋のように見えます。
 東京警察病院の距離感も庾嶺坂のほうがいいのではないでしょうか。

昭和43年 地図 逢坂+庾嶺坂

路面電車(写真)抜弁天交差点 昭和45年 ID 7435

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435では、昭和45年1月、抜弁天交差点で飯田橋行きの都電13系統を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435 都電13系統 飯田橋行き

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は昭和45年1月30日「東大久保(現 抜弁天付近)を走る都電飯田橋行き」と書いています。
 都電13系統は、この場所で大久保通りを外れて専用軌道に入ります。軌道内は通行禁止ですが、子供1人が歩いています。
 廃線後の軌道跡は「文化センター通り」に変わりました。都電の向こうの車が走っているのが「大久保通り」です。

抜弁天。赤い「抜弁天」は現在のバス停。

 広告は左から右に……。

  1. 立て看板「家土地電話/物件豊富一度ご来店下さい/大松商事☎︎•••」
  2. ブランド「TOTO」
  3. ブランド「タイ◯◯」
  4. 立て看板「新宿警察署/軌道内通行禁止/東京都交通局」
  5. 路面電車「乗降者優先」「飯田橋」「400」「13/週刊文春」
  6. 電柱広告「この坂下/質/最高◯用り/石川」
  7. 店舗「PM 6:00-AM 5:00/スナック25時/さくら/◯ハラーサービ(ス)」

牛込濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

外濠(写真)牛込地域 ID 5728-29 昭和35-36年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5729 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

 あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。

ID 5728 を改変

 先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。
 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。
 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。
 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。
 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。
 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。
 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。
 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。

  1. 新見附橋
  2. 理科大5号館・体育館(市谷船河原町)
  3. 日仏学院(市谷船河原町)
  4. 丸紅若宮荘(若宮町)
  5. 国鉄白銀アパート(白銀町)
  6. 家の光会館(市谷船河原町)
  7. 研究社旧社屋(神楽坂1丁目)
  8. 理科大(神楽坂1丁目)
  9. 通称「お化け屋敷」(神楽坂2丁目)
  10. 厚生年金病院本館(津久戸町)
  11. 厚生年金病院別館(下宮比町)
  12. 同潤会江戸川アパート(新小川町)
  13. 銀鈴会館(神楽坂2丁目)
  14. 第一銀行飯田橋支店(下宮比町)
  15. 稲垣ビル(下宮比町)

 このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。

住宅地図。1973年

推定画角(昭和38年6月 地理院画像MKT636を加工)

牛込濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

新丸ノ内ビルヂング(写真) 昭和27年 ID 4743

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743は、昭和27年9月、東京逓信病院を撮影したといっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743 飯田橋 東京逓信病院

三井住友トラスト不動産」によれば

1929(昭和4)年まで「陸軍軍医学校」があった富士見町の土地には、1938(昭和13)年に「東京逓信病院」が開院した。病院の建物は、山田守の設計によるモダニズム建築で、「太平洋戦争」中の空襲で被災するも、改修の上、1972(昭和47)年まで使用された。」 【画像は1938(昭和13)年】

 設計した山田守氏の写真も2葉残っています。

 したがって、昭和13年の病院は4~5階建てで、ID 4743と全く違っています。では病院・病棟が昭和27年までに変化したのでしょうか。
 以下は「病院の沿革・歴史」によれば

年月歴史
昭和12年10月建物竣工(本館、第一病棟、第二病棟)
昭和13年2月診療開始(内科、小児科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、産婦人科、皮膚泌尿器科、物療科)
昭和13年4月看護婦養成業務開始
昭和20年5月戦災により本館外来の一部及び院内郵便局焼失
昭和20年12月東京逓信病院看護婦養成所の承認受ける
昭和22年9月結核科設置
昭和22年12月皮膚泌尿器科を皮膚科と泌尿器科に分科
昭和23年4月東京逓信病院高等看護学院を開設
昭和24年6月逓信省が郵政省に改正
昭和24年6月副院長、健康管理科、臨床検査科設置
昭和27年7月中央手術室、中央材料室設置

 大きな病棟の変更はなさそうです。つまりID 4743はおそらく当時の東京逓信病院ではないといえます。
 これ以上は私は何もできません。しかし、地元の人はその先に行きました。以下はその考えです。

 違う角度で分析してみます。ID 4743の左のビルは7-8階建てで、かなり大きなものです。右手の鉄道の奥にも4ー5階建て以上のビルが多数あります。終戦間もない時代ということを考えると、場所は東京都心でしょう。
 昭和27年に竣工した都心のビルを調べると『新丸ノ内ビルヂング』が出てきます。当時の写真は、ID 4743に非常によく似ています。

 新丸ビルを鉄道を背景に写真に収めるには、通りの向かいの丸ビルからの撮影が好適です。この角度の写真は、鉄道の向こうが日本橋になります。写真中央の華やかなビルは、塔屋の形状からしても日本橋の三越百貨店のようです。

日本橋の三越百貨店

1961年(昭和36)東京駅付近(今昔マップ)

 なぜID 4743が誤認されたのかは分かりません。建築家の山田守の代表作のひとつである新宿区津久戸町の東京厚生年金病院は昭和27年10月の開設で、新丸ビルと同時期です。何かの取り違えがあったことも考えられます。
 なお、ID 4743では建物の右手を列車が走っていますが、堀端の国鉄中央線は土手のやや下にあります。仮に列車が東京逓信病院のそばを走る場合、この角度では列車は全く見えません。


首都高(写真)石切橋 平成元年 ID 509, 510

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」では、平成元年(1989年)9月、ID 509のタイトルは「石切橋から大曲」、ID 510のタイトルは「大曲から石切橋」を撮影したといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 509 石切橋から大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 510 大曲から石切橋

神田川の橋

 ID 509では石切橋の上から大曲方面を撮影しました。神田川の向かって左側(北側)は文京区です。
 西江戸川橋と小桜橋がはっきりと見え、その先の中ノ橋は川面に影が落ちています。新宿区のある右岸(南側)に台のようなものが等間隔に並んでいます。護岸の石組みの色が変わっており、工事の足場のようなものかもしれません。
 この付近は出版・印刷の街です。左岸に見える「太洋社」は中堅の出版取次(書籍問屋)でしたが、2016年(平成28年)に経営破たんしました。現在はマンション「ブリリア文京江戸川橋」です。少し先には(TOP)PAN(凸版印刷)が見えています。
 右岸には首都高速道路5号線(池袋線)が建ち、ふくらんだ「非常駐車帯」があります。高い柱の上に非常電話のピクトグラムと「非常電話 SOS」が併記されています。

 ID 510の写真説明の「大曲から石切橋」は誤りで、目白通りの石切橋付近から大曲方向を撮影しています。右寄りの信号機の表示3文字は読めませんが、少し先に首都高の非常駐車帯があることから、ここが石切橋交差点であることが分かります。交差点の左の橋が石切橋で、この橋からID 509を撮影しています。石切橋の文京区側のたもとの2階家は江戸期から続く鰻の「はし本」です。
 また信号機の右奥に8階建てのビルがあります。これは2009年Googleにあった石切橋の8階建てのビルとよく似ています。1989年、写真のビルの2階と3階の窓がなく、ここは違っていますが、4階以上の窓は4枚に分かれ、非常階段は酷似しています。これは2017-18年に取り壊されて、2019年に三晃ビル(マルエツ 江戸川橋店)になりました。

飯田橋(写真)昭和51年 ID 495-497 ID 11472-73, 11475

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495-97とID 11472-73, ID 11475は、昭和51年8月、飯田濠、飯田橋(架橋)、飯田橋歩道橋、遠くの首都高などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11472 神田川 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 496 飯田橋橋きわ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11473 神田川 飯田橋

 ID 495-496の2枚は、下の地図の赤線の画角です。右の橋がコンクリート製の飯田橋。正面が新宿区側の護岸の石垣です。
 この様子は昭和初期の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)の写真から変わっていません。
 石垣に関しては、大正8年頃の絵はがきと同じに見えます。この石垣は今は人工地盤の下に隠れています。今も利用される飯田橋は昭和4年(1929)に鉄橋からコンクリート製の橋に改良されています。
 左から……

  1. 看板「Coca-Cola 焼肉 京城館」「(サクラ)はカラーFH」
  2. 公衆電話ボックス
  3. 歩道橋「(目)白通り/新宿区下宮比町」
  4. 電柱看板「◯科」
  5. 看板「麻雀 東南荘」「近畿日本ツーリスト」「サッポロビール  八鶏園」「イーグルボウル」「写真植字機」
  6. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  7. 看板「所」「東京都◯◯◯◯◯◯事務所」
  8. 目白通りを横断する歩道橋。
  9. 飯田濠と飯田橋(架橋)
  10. 首都高速道路5号線(池袋線)
  11. (指定方向外進行禁止)、(時差式信号)、信号機
  12. 歩道橋「外堀通り/新宿区下宮比町」

住宅地図。昭和51年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 497飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11475 神田川 飯田橋

 ID 497はやや右にズレて、地図の青線の画角で撮影しています。
 左寄りの東京都の看板は「セントラルプラザ飯田橋」の完成予想図ですが、この時点では名称も決まっていなかったはずです。飯田濠の再開発は昭和48年3月に始まりましたが、地権者の反対で難航しました。紆余曲折の末に昭和59年に商店街ラムラが開業。昭和61年3月、13年を経て再開発事業は完了します。
 正面右奥、歩道橋の下り階段が見えます。この階段は後に撤去され、交差点の向こうの新宿区を結ぶ歩道橋が増設されました。
 では左から……

  1. 歩道橋の上り階段
  2. 看板「東京都」(セントラルプラザ飯田橋)
  3. 橋名「いいだばし」
  4. 看板「(魚)下立喰寿(司)」
  5. 看板「キンシ政宗」
  6. ごらくえん
  7. 東海(銀行)と東海銀行の窓枠
  8. 歩道橋と飯田橋(架橋)
  9. 電灯
  10. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  11. (指定方向外進行禁止)8-20

神田川(写真)浅草橋とお茶の水橋 昭和63年 ID 506〜507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506〜507は、昭和63年(1998)8月、神田川を撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506 飯田橋、堀

 ID 506の写真説明は「飯田橋、堀」ですが、ここは数キロ離れた台東区浅草橋で、正面には上流の左衛門橋があります。屋形船の間をカヌーが何艘も漕いでいるのは、飯田橋付近からのツアーの様子を撮影したのでしょうか。
 神田川は滔々と流れ、マンションやオフィスビル、ホテルなどが並んでいます。

浅草橋(昭和63年)カヌーと他の船
左衛門橋(東神田二丁目と三丁目を結ぶ)
  1. ネオンサイン「サウナHotel」
  2. 看板「ヤマハ」
  3. 屋上広告塔「Etoile」(服飾品卸売会社エトワール)
  1. 第七 三浦屋(屋形船)
  2. 屋形船・つり船 野田屋(屋形船)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 507 飯田橋、堀、中央線

 ID 507も写真説明の飯田橋ではなく、JR御茶ノ水駅に近い「お茶の水橋」から撮ったものです。西向きに神田川を見ており、数艘のカヌーが川を下っています。左をJR総武線やJR中央本線が走り、黄色い電車は各駅停車で結ぶ中央・総武緩行線です。

お茶の水橋(昭和63年)カヌー
  1. 御茶の水美術学院/第二学期補欠募集受付中/御茶の水美術学院
  2. 池坊お茶の水学院
  3. 池坊◯◯お茶の水学院
  1. 順天堂大学(2館とも)

首都高(写真)新小川町~石切橋 昭和52年 ID 501-505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501-05は、昭和52年(1977)5月、新小川町から東五軒町、さらに石切橋までの首都高速道路5号線(池袋線)のカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501 飯田橋インターチェンジ

 この写真はID 12208(2)とほぼ同じです。ただID 501は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 502 飯田橋インターチェンジ

 場所について遠くの首都高には膨らんだ「非常駐車帯」があり、首都高は標識(最高速度60キロ)、橋脚は「T型」で「飯田橋ランブ」は見えません。目白通りの左側の建物は半世紀前とは多くが違っていますが、左端で見切れているのは2021年頃に解体されたトーハンの旧本社でしょう。横断歩道を右側に越えていくと、架橋があり、信号機は3つ。また、歩道の先では左に行く小さな道路も。建物は半世紀昔に建てられて、どれも名前は全くわかりません。
 ここは「小桜橋南」交差点でしょう。
 この区間の目白通りの地下に、昭和52年度末に「江戸川橋分水路」ができる予定で、バリケードや三角コーンも沢山あります。これは完成直前の様子を撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 503 石切橋附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 504 石切橋附近

 左の信号機に「石切橋」の交差点表示があり、これは「石切橋」の東側から撮影したものです。さらに行くと昭和45年に架設した「古川歩道橋」があります。標識は(転回禁止)(区間内)ですが、ID 504では(車両進入禁止)が加わっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 505 江戸川橋分水工事看板

 工事の看板は見えませんが、この写真はID 12216(4)とほぼ同じです。ただID 505は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

神田川(写真)昭和51年 ID 479, 489-90, 11462-64

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479、489-90、11462-464は、昭和51年8月、飯田橋歩道橋の上から神田川やそこにかかる橋などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 489高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11462 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 490 高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11463 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 491 飯田橋周辺、橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11464 神田川(飯田橋付近)

 ID 489とID 11462は神田川の下流方向を撮っています。左から植物に覆われて突き出しているのは文京区の「市兵衛河岸」です。小屋があり、ガラス扉の中にイスが見えます。昭和55年の住宅地図では「都市◯地再開発(事)飯田橋工区」とあり、工事の詰め所のようなものでした。
 その奥、首都高速道路の橋脚ごしに見えているのは「飯田橋公共職業安定所」(現・ハローワーク飯田橋)。さらに右にクレーンが見えているのは、中央大学の旧後楽園校舎(文学部)を解体しているのでしょう。
 神田川の右岸は千代田区です。古めかしい「釣り具」の看板が見えるのは、かつて外堀や神田川で釣りを楽しむ人がいたことを示しています。
 ID 490−491とID 11463−11464は、やや手前の橋を撮影しています。誤解されがちですが、この橋は文京区と千代田区をつなぐ「船河原橋」です。

船河原橋
 飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として、交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので、飯田橋の一部と見られがちです。

 船河原橋は一見すると2本あります。メーンは文京区と新宿区を結ぶ大きな橋で、外堀通りの一部です。その橋が神田川の上で左にV字に大きく分岐し、千代田区につながっています。これも船河原橋です。
 飯田橋は千代田区と新宿区を結び、目白通りの一部です。ID 491では右下のコンクリート製の欄干部分が飯田橋になります。
 神田川の右側は近いところから…

  1. (一時停止)(指定方向外進行禁止)(駐車禁止)(区間内)
  2. 電柱。電柱広告「宮村歯科」「新村印刷」
  3.  Subway 地下鉄
  4. 消火栓。
  5. 千代田街ビル飲食街
  6. 資材置場
  7. (最高速度30キロ)
  8. 電柱。電柱広告「新村印刷」
  9. つり具
  10. 岡田不動産株式会社
  11. ビル
  12. ダイヤモンド航空サービス
  13. 東京アテナ

住宅地図。昭和55年

 

神楽河岸(写真)昭和51年 ID 474, 479, 11456, 12189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 479とID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474 揚場町神楽河岸界隈

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12189 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11456 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479 駅前付近より外堀通り四谷方向

 手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
 外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。

下宮比町→神楽河岸(平成51年)
  1. 東京都水道局神楽河岸営業所
  2. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. ▶都バス「飯田橋」
  4. 交通局定期券売り場
  5. 空き地
  6. 新宿東清掃事務所

▶は歩道上で車道寄りに看板等がある

  1. 空地。鉄の塀に無数のポスター跡と麻雀店の立て看板
  2. ▶交通信号機「飯田橋」。架線柱
  3. 文鳥堂書(店)
  4. (山)路(飯店)(中華料理店)
  5. 麻雀店とパチンコ店の突き出し看板

住宅地図。1976年

目白通り工事(写真)新小川町 昭和45年 ID 473, 13055, 13081-85

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13084 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13085 新小川町二丁目大曲付近

 ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。
 白鳥橋の上、首都高が途切れたようになっていてるのは、後に飯田橋料金所を作る場所です。
 首都高の下、向かって右側の歩道はおそらく利用ができず、バリケードやブロック、チェーンスタンド、コンクリートの土管らしきもの、大きな円環3つなどが並んでいます。作業小屋もあります。歩道の縁石をまたいで何台かの車が止まっています。おそらく工事のためでしょう。
 左手前から奥に向けて、ヘルメット姿の作業員達は目白通りを大きく掘削しています。鉄骨や、穴を掘るための鉄板が並んでいます。
 目白通りの地下には神田川の洪水対策として江戸川橋分水路があります。しかし東京都の資料によれば建設年は昭和47ー52年で、写真と時期があいません。また平面図で見ると、分水路が作られたのは神田川寄りで、写真とは反対側です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設」としています。現在の都の下水道台帳を調べると、江戸川橋分水路に沿って「早稲田幹線」があるのが分かります。工事は、この下水管に関係したものでしょう。

下水道台帳 大曲付近

 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。
 ID 13085では、目白通りを「東京タワー」と書いたバスが北進中。また、トレードマーク「フクスケ」の広告塔は、福助株式会社でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473 飯田橋大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13081 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13082 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13083 新小川町二丁目大曲付近

 ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。
 写真右の掘削工事は飯田橋交差点方向に続いています。手前に「工事許可要件」の告知看板が立てかけられていますが、詳細は確認していません。
 右側の歩道は、工事によってやや狭くなっているように見えます。掘削部は一定間隔で鉄板を敷き、車道に出られるようにしています。歩道の回りにはトレードマーク「/出光」「日産サービス」の看板があり、これは昭和52年のID 12216に写っているものと同じです。その隣奥の少し引っ込んだビルは東京電力新小川町変電所。やや離れて「モリサワ」「(東海)銀行」の屋上看板が見えます。ほかに電柱広告「印刷ローラー 博文社」「歯科 田◯」「質 長島」などが確認できます。
 写真左上、首都高の上には「↖飯田橋出口/本線↑」の標識があり、本線の向こうに飯田橋出口のランプが見えます。その上には屋上広告「鹿島をひらく 鶴屋産業」があります。

神楽坂五丁目(写真) 令和4年 ID 17078-80

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078-80は、令和4年3月、神楽坂五丁目から西向きに神楽坂上交差点や神楽坂六丁目方面を撮影した写真3枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17079「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17080「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 中央の前後の通りは「神楽坂通り」、その先に出てくる南北(写真では左右)の通りは「大久保通り」、2つの交差点は「神楽坂上」交差点です。
 神楽坂通りは0時から12時までは東向きで神楽坂を下り、12〜24時は西向きで、上がります。ランチタイムの12〜13時は歩行者専用道路です。
 車道と歩道はアスファルト舗装ですが、歩道はインターロッキングという小型ブロックのかみ合わせです。
 灯具は令和4年2月から3灯タイプですが、将来道路になる場所では旧来の街灯を使っています。街灯柱は淡灰色で、下半分にビニール製の保護材と思われるものがあります。
 外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。

神楽坂5丁目(令和4年)
  1. 1階は「(くすりの福太郎 神)楽坂店」2階は「(ANYTIME FITNESS) 2F」「(ANY)TIME FITNESS」「24時間年中無休の/フィットネスジム/2F」(シュエット神楽坂)
  2. 壁面「PIZZERIA TRATTORIA」。旗「PIZZERIA &/TRATTORIA」。店名「Margherita Pagliaccio」(マルゲリータパリアッチョ 神楽坂店)(ピザ店)
  3. 突き出し看板「築地すし好/Girl’s Bar Lounge ♥ Belle」「BAR(イラスト) 鴨 社」店名「築地すし好」
  4. 株式会社 つくば商事(不動産会社)
  5. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機
  6. 大久保通り
  7. 「くすり/ポイント5倍デー(ココカラファイン)」「JOYFIT」巨大な時計(タイヨウビル)
  8. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機、 「自転車を除く/日曜・休日は12-19」、(駐車禁止)
  9. 街灯(六丁目用の灯具、2灯)
  10. 遠くに神楽坂FNビル(6-67)、三上ビル(6-64)、パークリュクス神楽坂(6–59)
  1. 空地(将来は道路になる)
  2. 旧来の街灯が1つ
  3. 案内看板「牛込消防署→」
  4. 12-24
  5. 「江戸三十三観音十六番札所」「厄除・除病 大佛薬師如来」「開運・繁昌 大聖歓喜天」「大聖歡喜天王 安養寺」
  6. 「(神楽坂 穂禮)上海」(中華料理店)(響ビル)
  7. 街灯(六丁目用の灯具)

インターロッキング インターロッキング(interlocking)とは、コンクリートブロックをレンガ調に組み合せて敷き詰める舗装方法で、翻訳は「つなぎ合わせた」「連結した」など。荷重がかかると、ブロック間の目地に充填した砂が働き、かみ合わせ(荷重分散効果)が得られる。

神楽坂1丁目(写真)令和4年 ID 17576

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576は、令和4年10月、神楽坂下交差点から坂上方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576 神楽坂入口

 中央の信号の上に交差点名が「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」と表示されています。よく見ると英字はシール状のものを貼っています。かつては読み通りに「Kagurazaka shita」としていましたが、外国の人々に分かりやすいように修正したのでしょう。
 左右は外堀通りで、前後が神楽坂通り。信号機にはゼブラ柄の背面板はなく、車道と歩道はアスファルト舗装。街灯柱は淡灰色で、街灯は3灯をまとめ、夜には明るく光っています。外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。

神楽坂1丁目→坂上(令和4年)
  1. (歩行者横断禁止)(区間内)
  2. 看板「交通事故多発」
  3. 「ル」「BRITISH COUNCIL 英会話スクール」「この先 約150m」(研究社研究社英語センタービル
  4. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)
  5. 広告看板「カラオケの鉄人 KARATEZ~ ここから歩いて1分‼︎」「カラオケの鉄人 神楽坂通り沿い
  6. 飯田橋ともじり皮ふ科/行きたい皮膚科がココにある。/Tel 03-6265-00xx/ 当ビル5F
  7. 交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. (エイ)ブル(不動産会社)
  9. モスバーガー(ハンバーガー屋)
  10. 「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「飯田橋ともじり皮ふ科 5F」「Darts bar」「(神楽坂) 翁庵」「HIRO GINZA/BARBER SHOP」
  11. 「駅前留学 NOVA」「も駅前留学 NOVA KIDS」
  1. (駐停車禁止)警告 交差点・横断歩道は駐停車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区」。「信号機」。交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」
  2. 郵便ポスト
  3. (駐車禁止)
  4. Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店/広告「オーナー様募集/空室にお困り/建物管理にお困り/アパマンショップなら/グループ全体で/サポートできます」広告「新宿区・文京区/千代田区・豊島区/お部屋探しは/アパマンショップ/飯田橋店に/お任せください!」広告「お部屋探しは アパマンショップ 飯田橋店へ おまかせください!/下記QRコードから友だち追加を/していただくことで お客様のご条件にピッタリのお部屋を/ご紹介できます!」Apamanshop(不動産会社)
  5. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」「(歩行者専用)」「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  6. (カレーショップ ボナッ)
  7. 消(火栓)
  8. のレン NOREN MURO 室(米麹食品専門店)
  9. のレン(生活用品店)
  10. 案内看板「地下鉄 神楽坂駅」
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  13. 「自然エネルギーのアドバンス」「自然エネルギーのアドバンス」「広告募集中」「ドトールコーヒー 神楽坂店 Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」突き出し看板「FUJIYA」
  14. カグラヒル。屋上にKADOKAWAのデジタルサイネージ広告。「新世代のフィギュア原型師、創出ブロジェクト」「電撃文庫 KDcolle 造形大賞」「4F ス(シロー)」「マツ(モトキヨシ)」
  15. 「ゲー(ムのオアシスに飛び込め!)G(iGO)

牛込濠(写真)遠景 令和4年 ID 16993

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 16993は、令和4年(2022)2月、法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目などを撮影したものです。タイトルの「市谷船河原町を望む」は残念ながら間違いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16993 法政大学前から市谷船河原町を望む

 カメラが少しだけ左を向けば「新見附橋」や「新見附交差点」が見える場所でした。
 外堀通り沿いが低層になっているのは、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
 少し下がった場所からは高い建物になります。
 主にGoogle Mapを調べて、これらのビルは以下の通りでした。なお、写真で2/B、9/Fは同じ建物です。

市谷田町3丁目(令和4年)
  1. アヴェニュー市ヶ谷(マンション)
  2. 進学塾 臨海セミナー/eisu/1ヶ月無料体験受付中/進学塾 臨海セミナー 中学受験科(eisuビル市ヶ谷)
  3. 屈指の合格実績 eisu 小・中・高(eisuビル市谷新館)
  4. 華記茶餐応(中華料理)と1店舗(トゥービル)
  5. 酒井商店(酒などの店舗)
  6. 長谷川豪建築設計事務所
  7. DUNLOP FALKEN (株)タイヤ突進舎 Bridgestone (株)タイヤ突進舎 DUNLOP(タイヤショップ)
  8. The Gate Ichigaya(賃貸事務所)、前に駐車場
  9. Tomas Gymnastics(トーマス体操スクール市ヶ谷校)
  10. 用心棒(ラーメン店)
  11. システム桐葉外語 日本語学校
  1. 第2市ヶ谷マンション
  2. 塾を超えたジム eisu / 小1・2・3 脳力開発ジム イルカ/小4・5・6 名門中合格ジム プライム/中1〜高3 飛び級速習ジム ニュートン(eisuビル市ヶ谷)
  3. DNP(DNP市谷加賀町ビル)
  4. グランベスタージュ市ヶ谷(マンション)
  5. レジディア市ヶ谷(マンション)
  6. 東京理科大学 TOKYO UNIVERSITY OF SCIENCE
  7. Tokyo Institute of Tourism(東京観光専門学校

住宅地図。令和2年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和41年 ID 14112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112は、市谷船河原町の逢坂おうさかを西向きに撮影しました。なお撮影時期は「昭和41年頃か?」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112 市谷船河原町 逢坂

 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 男性2人が逢坂を下り、男性3人と女性1人が立ち止まって話を交わし、男性1人が上っていきます。1人だけは長袖シャツとベスト、残りの男性は全て背広。木々は茂っていて、夏前か秋口でしょう。

逢坂(昭和41年頃)
  1. 民家
  2. 電柱。ポスター ?(学園祭のイベント?)
  1. 竹柵と竹垣(築土神社)
  2. 石垣と日仏会館の入口
  3. 民家。段差スロープ。石垣

牛込濠(写真)遠景 平成31年 ID 14063

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目市谷船河原町を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14063 法政大学前から市谷船河原町を望む

住宅地図 令和2年

 地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……

  1. 神楽ビル
  2. Luft Garten
  3. Skip Boat Neo Gate
  4. 双葉ビル。看板は「週刊大衆(漫画)アクション 小説推理」「orange 双葉社 発売中」一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」(倉庫)。
  5. 市ヶ谷エスワンビル。看板は「2018年度 合格実績 小石川中 68名 都立中 785名」「ena」「日比谷高 2名 西高 4名 国立高 6名」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
  6. やまと運輸市谷砂土原町センター
  7. 油井工業所。2階の看板は「護國園」とイラスト「将棋の駒」
  8. パークハウス市谷田町(マンション)
  9. 龍生会館
  10. メゾン・ド・コリーヌ市ケ谷(マンション)
  11. 東京理科大学5号館
  12. マノワール古河(マンション)
  13. 船河原マウントロイヤル(マンション)

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和50~51年 ID 9921

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂おうさかを坂下の東向きに撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921 市谷船河原町 逢坂

 遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。

逢坂(昭和50-51年頃)
  1. 丸石自転車。看板(自転車に乗っている人)
  2. 柵。その左の築土神社は見えない
  3. 日仏学院の石垣
  4. 民家と段差スロープ
  1. (右・指定方向外進行禁)。自転車を除く/一方通行路。 (始まり)
  2. 垣根と民家

昭和51年 住宅地図

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 11460-61, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、11460-61、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77、12187-88(カラー)が4枚、ID 485、488(白黒)が2枚、「目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)」ID 11460-61が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11460 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11461 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

神楽河岸|町名はいつから

文学と神楽坂

 神楽河岸はいつから単なる「土地名」ではなく「町名」になったのでしょうか? 現在は人口0人の「町」ですが、いつから「町」になったのでしょうか。
 ウィキペディア(Wikipedia)では……

神楽河岸(かぐらがし)は、東京都新宿区の町名。住居表示実施済み地域であり、丁目の設定がない単独町名である。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では……

神楽かぐら河岸かし
 牛込御門から船河原橋間の外堀沿いの河岸地。当地域はかつての江戸城の外堀である飯田濠の場所にあたり、現在は埋め立てられ、千代田区と新宿区の両区にまたかって駅ビルが建っている。ビルの上層部には東京都飯田橋庁舎と住宅棟があり、このうち事務棟は新宿区、住宅棟は千代田区に属している。
 江戸時代に河岸地だったのは牛込揚場町に付属する河岸のみで、揚場と呼ばれていた。近代になって揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。昭和六三年住居表示実施。

 また、コトバンクの「日本歴史地名大系」(平凡社)では

牛込御門―ふな河原かわら橋間の外堀沿いの河岸地。江戸時代に河岸地であったのは牛込うしごめ揚場あげば町に付属する河岸(物揚場)のみで、揚場河岸とよばれていた。近代に入って揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷』(1970年)49頁では

 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに困る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川街門外と記されてある。

 つまり、「神楽河岸」の土地名は「近代に入って」「明治末年」からだと書いてありますが、「神楽河岸」が「町」になった時点は不明なのです。

 高道昌志氏の「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集第80巻。2015年)では「このような状態から、神楽河岸は明治26年に市区改正事業によって、土地の区分としての『河岸地』から一端削除されていく。……一部を隣接する揚場町に編入し、残りを神楽坂警察署用地と水道局神楽河岸出張所、更にその残りが神楽河岸一・二号地として分配され……」
 つまり、神楽河岸は揚場町、神楽坂警察署と水道局神楽河岸出張所、神楽河岸一・二号の6つに分かれました。「神楽河岸町」の記載はありませんが「神楽河岸」は出ています。

日本建築学会計画系論文集第80巻。明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程

 同じく明治26年11月、牛込警察署が初めて神楽河岸に移転します(昭和5年『牛込区史』491頁)。注目すべきことは、所在地が「現在の神楽坂一丁目地先神楽河岸に移転し」となっていることです。地先(じさき、ちさき)とは「居住地・所有地・耕作地と地続きの地で、反別も石高もなく、自由に使える土地」「その土地から先へつながっている場所」だそうです。
 明治41年「神楽河岸」は「|」で表しています(『牛込区史』332頁、昭和5年)。つまり、世帯もなく、住民もいない所でした。
 大正元年、東京市区調査会の東京市及接続郡部地籍地図 上卷では、神楽河岸は神楽町一丁目の一部として描かれています。この時代の神楽河岸は、神楽町一丁目につながった「無番地/番外地」(土地公簿で地番ちばんのついていない土地)だったのです。

 大正9年に変化が出ます。この年、10世帯41人と初めて人口が増え、大正13年には14世帯85人になっています。大正9年12月、警察署の庁舎がここに新築されたことが関係していて、この時に区が認める町名として成立したと考えられます。
 大正10年の牛込町誌 第1巻の地図には「神楽河岸」の地名が見えます。また「区分及び人口」でも「神楽町を左の4区に区分す」として、神楽町1-3丁目と並んで神楽河岸、番地ナシ、8戸41人の記載があります。
 一方、同書記載の土地所有者には神楽河岸がなく、全域が公有地だったと考えられます。牛込町誌は「牛込区史編纂会」が手がけており、信頼性の高い資料です。
 さらに『牛込区史』(492頁)には現在の警察の管轄区域として「神楽坂一、二、三丁目」にはじまる町名の列挙の最後に「神楽河岸」が出てきます。原文では「現在当署の管轄区域は神楽町1、2、3丁目・(中略)・神楽河岸の諸町である」と書かれ、神楽河岸は確実に町の1つになったのです。おそらく新しい町名なので、最後になったのでしょう。
 さらに時代が変わり、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)によれば既に「神楽河岸町」とついています。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

 昭和45年の住宅地図では、再び「神楽河岸町」はなくなり、代わって「神楽河岸」があります。新宿区の町は「神楽河岸」、たたえる水は「飯田濠」、東半分で千代田区の町は飯田町でした。ちなみに、町としての「飯田河岸」は昭和8年7月1日になくなっています

住宅地図。1970年

 もっと新しい文献で、新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では、まったく無視し、「神楽河岸」は載っていません。一方「新修新宿区町名誌」(平成22年)では再び町の扱いになりました。
 おそらく、神楽河岸は大正9年の牛込警察署の庁舎建築から確実に「町」になったのでしょう。以来「神楽坂」と同じように「神楽河岸」も「町」の1つです。あとは当時の公報で確認できればいいのですが。
 なお「新宿区町名誌」(昭和51年)のように完全に無視したのは、まずかったのです。

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498-500, 12107-08, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500, 12107-08, 12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12107はID 499と、ID 12108はID 500と、ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12107 飯田橋歩道橋

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12108 飯田橋歩道柵

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

相生坂(写真)真清浄寺 令和4年 ID 17088

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清しんしょうじょう付近から相生あいおいざかなどを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOオーリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088 真清浄寺前から相生坂を望む

相生坂

相生坂(令和4年)
  1. 片岡ビル
  2. 道路標識(幅員減少)
  3. 道路標識(駐車禁止)
  4. 電柱看板「八洋」
  5. 白い店舗「パン デ フィロゾフ」。パンを求めて沢山の顧客が並んでいます。
  6. パークコート神楽坂レゼリア
  7. 電柱看板「八洋」
  8. 正面はヴィークコート神楽坂(マンション)
  1. 4階建てのアパート?
  2. カーブミラー 「よく見て 通りましょう」
  3. 電柱看板「ZEBRA」「地元でお葬式一筋 西五軒町1」
  4. 真清浄寺 のぼり「真清(浄寺)」
  5. 駐車場
  6. 掲示板
  7. 黒い店舗は「神楽坂富貴ふきぬき」(うなぎ店)
  8. 自動販売機「KIRIN」

東五軒町(写真)西五軒町 令和4年 ID17089

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089 東五軒町から西五軒町方面を望む

東五軒町(令和4年)
  1. メープルハウス(地上3階のマンション)の一部
  2. フレスクーラ神楽坂(地上7階のマンション)、自動販売機「KIRIN」、大型ゴミ箱、3角コーン
  3. 電柱、(最高速度20キロ)、(駐車禁止)、バナー「放火に注意/牛込消防署・牛込防火協会」
  4. raum神楽坂(地上5階のマンション)
  5. ルーブル神楽坂(地上8階のマンション)
  6. ENEOS(共栄石油)、FC(燃料カード)
  7. (指定方向外進行禁止)、カーブミラー
  8. 横断歩道
  9. 左に行くと「相生坂」
  10. ハート株式会社/新宿支店
  1. 工事中
  2. 電柱看板「(株)八洋 次の角/左折 東五軒町6」
  3. トーハン本社、駐車場
  4. 郵便ポスト
  5. 横断歩道、(横断歩道)、バナー「一方通行につき/右折できません」、左に行くと「相生坂」
  6. 五軒町ビル
  7. アルスクモノイ(古書)
  8. 最も高いビルは、ラ・トゥール神楽坂(地上24階、地下2階)賃貸マンション