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「牛込氏文書 下」江戸幕府まで

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 下」は文書6通で、16世紀末と17世紀の世界を扱います。正確には1583年から1636年までです。
 内容は、戦国時代で贈答品を送る風習、牛込勝行が子供に相続すると北条氏はその権利を認め、豊臣秀吉が禁制を出し、徳川幕府で牛込俊重の流罪は赦免される等です。
 一つひとつは歴史の断面に過ぎません。最重要なものとは思えないのに、どうしてこの文書全体や個々の文書が500年以上の間、生きていたのか、わかりません。また「昔の書き言葉」を翻訳して「生き生きした現代の言葉」に変えるのは、特に私にとっては不可能です。最初にくずし字から「楷書」に変換し、知らない言葉を補い、不思議な言葉を訂正し、現在でもわかる言葉に変えるのは、どんな人でもおそらくできません。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、本文とキャプションは3つ全てから取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 まず[C]のまとめを簡単に見ておきます。

[C] 牛込氏が牛込の地に移り住んで以降、北条氏網以下四代に仕えました。天正17年(1589)、かねてより真田昌幸と沼田・名胡桃城の領有で争っていた北条氏政が、豊臣秀吉の裁定に背いたことをきっかけに、秀吉は北条氏に宣戦布告し、翌天正18年(1590)小田原へと兵を進めました。伊豆、相模、武蔵、下総国などを領有し、百を超える支城を有した北条氏でしたが、わずか四か月ほどで徳川家康ら多くの大名が動員された豊臣軍に降伏しました。
 小田原攻めの後、家康が関東に入国します。牛込氏の系譜には、牛込勝重が天正19年(1591)に徳川家康に召し出されたとあり、家康の江戸入城後まもなく家康の家臣となったことがうかがえます。その後の関ヶ原の戦い、大坂の陣においても家康に従い、徳川将軍家の旗本となります。
 元和2年(1616)には、牛込俊重が二代将軍徳川秀忠の子である国松(徳川忠長)附けとなりました。しかし、忠長の荒々しい言動が目立ち、寛永9年(1632)忠長は改易、家臣らは流罪となりました。俊重も配流されましたが、寛永13年(1636)に赦免されて再び幕府に出仕します。これ以降牛込家は江戸時代を通じて旗本として、小姓組や書院番、長崎奉行を務める者も輩出しました。

① 北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

[A] 北条氏政から牛込宮内少輔(勝行)に宛てた書状の写で、新年の祝儀として鯉・蛤が送られたことに対して礼を述べている。ここでも取次ぎは遠山氏で、遠山氏から別に書状が発給されたことがわかるが、現存しない。氏政の花押判形から、永禄10(1567)年から同13(1570)年までのものと比定される。贈答品の蛤は、既に盛本昌弘氏が指摘する通り、所領の比々谷郷の入江からの上納物、鯉は神田川からの上納物と考えられる。牛込氏の所領支配が、海辺(比々谷郷)と川沿い(牛込郷)の両面を軸に展開していたことを思わせる。
[B] 北条氏政書状写 二月三日 牛込宮内少輔宛
[C] 牛込勝行が新年のお祝いとして鯉、蛤を送ったことに対する北条氏政の礼状。江戸氏牛込氏文書にいくつか含まれる礼状には、鯉や鯛などの水産物を送ったことが記されています。江戸氏と牛込氏は、牛込、日比谷、桜田郷が平川や日比谷の入江に近接していたために、海と川から獲れる水産物を多く贈答していたと考えられます。

② 北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

[A] (ありません)
[B] 父勝行の譲状のごとく、牛込の内富塚村と日比谷郷の夫銭六貫文を安堵するから、旗本として、忠節をつくすようにとの内容である。牛込平四郎は系図上不明であるが、③号文書との関連からみれば勝重の弟と思われ、知行得分のうちの一部を分与されたものであろう。
[C] 垪和康忠を奉者として牛込平四郎に下された北条家の朱印状。牛込勝行の譲状のとおり子の平四郎に牛込郷富塚村と日比谷郷からの夫銭6貫文を相続する事を認めるとともに、北条家の直属の部隊に加わって動するように命じました。日比谷村の夫銭6貫文は[牛込文書 上]①号文、[牛込文書 上]⑧号文にも記載のある陣夫役(夫銭)に相当します。

③ 北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

[A] 牛込彦次郎(勝重)に宛てた北条氏直判物の写である。本文と氏直の花押の墨色が同じで全文一筆と思われる。花押のバランスがやや悪く、全体の墨色・筆跡も考慮して写と判断した。
[B] 北条氏直判物 天正12年9月18日 牛込彦次郎宛。勝重に父勝行の知行相続を認めたもの。
[C] 文書袖上部の欠損部は、「父宮内少輔」と考えられ、牛込勝行が子の勝重(彦次郎)に知行と家督を相続することを認めた北条氏直の物。本文書の彦次郎は勝行の嫡子とみられ、②号文書に記載がある平四郎は庶子であったと考えられます。牛込氏の所領は牛込、日比谷村、堀切合わせておよそ180貫文ほどでした。牛込氏の系譜によると、勝行は天正15年(1587)に逝去しています。

④ 豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

[A] 豊臣秀吉より「武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村」に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない。宛所と、文末の「御手印写」の筆跡・墨色が同一なので、共に追筆部と判断される。これと全く同じ内容の禁制写が他にも伝わっている
[B] 豊臣秀吉禁制写 天正十八年四月日 牛込七カ村宛
[C] 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書です。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したものです。ここでは、秀吉軍の現地での乱暴狼籍や放火、百姓らに対する不当な言動が禁止されています。禁制を受け取ることで戦下での安全保障にもなるため、戦国時代には寺社などから申請して代金を支払い発給してもらうことが多くなります。本文書と同様の禁制は相模、武蔵両国に多く発給されており、多くの武士が秀吉方に下ったことがうかがえます。同年7月に北条氏直は降伏しました。

⑤ 石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

[A] 石巻康敬より牛宮(牛込宮内少輔)・伊源(伊丹源六郎)に宛てた書状の写である。年代は未詳で、内容的にも不明な点が多い。牛込氏は城に在番しており、北条氏から受け取った印判状の通りにするように伝えられている。この書状は全文一筆だが、筆勢がやや弱く、文字そのものが判読しづらい。特に署名と花押の部分はその傾向が強く、読めない文字を形で模写したように思われる。よって写と判断した。
[B] 某氏書状 五月廿五日 牛宮・伊源宛
[C] 石巻康敬(彦六郎)が牛込宮内少輔と伊丹源六郎の願い出を取り次ぎ、北条家に認められた旨を記した書状。陣中や城内における竹木の採集の留意点も伝達しています。この時牛込氏が参陣・在番した城は明らかではないですが、「金」(下総国葛飾郡小金・現松戸市をさすか)に馬を運び入れたとあることから、北条氏が下総国葛西城(現葛飾区青戸)へ侵攻した永禄4年(1561)以降と考えられます。康敬は北条氏の評定来などを務めた人物です。

⑥ 太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

[A] この文書は、裏書にもある通り、牛込伝左衛門(俊重、勝重の次代の牛込家当主)が配流を許された時に、太田資宗より受け取った書状である。これについては、既に越中哲也氏の見解がある。氏は牛込家文書を元に、この文書は寛永9(1632)年の徳川忠長高崎幽閉に伴い家臣達が配流されたが、忠長の大番士の牛込俊重は赦免され、その折りに出されたものとする。これは牛込家で後世に記された記録にのみ確認される。その他『徳川実記』より、元和2(1616)年に牛込三右衛門(俊重)が忠長の大番士となったことは確認できるが、忠長の一件との関わりを示す史料的な裏付けはとれない。しかし、資宗・俊重共に慶長6(1601)年生まれで、資宗が備中守を称するのは後半であることから、時期的に寛永期ごろのものである可能性は高い。
[B] 大田資宗書状 極月十四日(寛永13年)牛込伝左衛門宛
[C] 寛永8年に(1631)徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の子)が改易となり、この時忠長に仕えていた牛込俊重は罷免され流罪となりました。本文書は、この流罪を赦免され、再び幕府への出仕の命が下ったことを太田資宗が俊重に伝えた書状です。

2月3日牛込勝行が鯉・蛤を送り
北条氏政がその礼状
1561以降?5月25日北条氏が下総国葛西城に侵攻(1561)
した後で牛込氏などの要望が通った
天正11年15836月5日牛込勝行の子の平四郎が
一部を相続したと北条家
天正12年15849月18日牛込勝行が子の勝重に知行と
家督を相続したと北条家
天正18年15904月日豊臣秀吉が北条氏の本拠地の小田原
へ侵攻し、牛込7村には禁制令
寛永13年163612月14日徳川忠長が高崎に幽閉され、
忠長の大番士、牛込俊重も流罪に。
5年後、赦免され、幕府にまた出仕

出羽様下 再考

文学と神楽坂

 地元の方からです。

 東京は坂と谷の町です。数多くの崖があり、その高低差が「○○上/下」という地名になった場所が多くあります。たとえば千代田区の「九段下/上」「明神下」、新宿区の「馬場下」「池ノ上」などです。神楽坂周辺では「赤城下」「矢来下」などが坂や崖の下の地名です。
 このブログには「出羽様下」という、今では聞かなくなった地名が出てきます。
 これについて、改めて考察します。

「出羽様」は現在の神楽坂3丁目3番地にあった松平定安伯爵の神楽坂邸です。屋敷があったのはさほど長い期間ではなく、明治4年から明治26年までです。松平伯爵はその後、四谷に転居しました。
 松平家は出雲松江藩の元藩主で、官位は出羽守でした。四谷の屋敷のそばに「出羽坂」があり、今もそう呼ばれています。「出羽様」という呼び名が明治以降も一般的だったことが分かります。

 神楽坂の出羽様の屋敷は、南側の裏に崖があります。崖下は江戸期まで小身しょうしん(身分が低い、俸禄の少ない身分)の旗本などの屋敷でしたが、早い時期に町家に転じたことが明治16年東京測量原図で分かります。

松平邸と出羽様下(明治16年 東京測量原図)

 地形的に、この町家一帯が「出羽様下」と呼ばれたと考えるのが自然です。現在で言うと熱海湯を含む小栗横丁の西半分です。

 新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」の図は、「・出羽様下」の「・」の位置を間違えてしまったのではないでしょうか。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 竹田真砂子の「振り返れば明日が見えるー2」「銀杏は見ている」(「ここは牛込、神楽坂 第2号」牛込倶楽部、平成6年)では

 本多の屋敷跡は、明治15, 6年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正10年10月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

渡邊坂(写真)平成31年 ID 14057-58

文学と神楽坂

  神楽坂通りを上り切ってそのまま西へ進み、地下鉄神楽坂駅を過ぎると「逆転式一方通行」の区間が終わり、ゆるやかな下り坂の対面式になります。その道が突き当たるような三角形の変則交差点が「牛込天神町交差点」です。
 この交差点を右折し、北に下る坂に標柱「地蔵坂」が建っています。さらに100mほど進むと標柱「渡邊坂」にやってきます。「マティーニバーガー」の前です。

わた なべ ざか  江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

渡邊坂。北から望む。

御書院番 江戸幕府の職名のひとつ。若年寄の下で、営内を警備、 将軍外出の際には行列に従い警護にあたるほか、遠国出張や交替で駿府在番などを務める。

 でもおかしな問題があります。「地蔵坂」と「渡邊坂」、どこが違うの? 東京の坂について書いてある3冊を調べました。
 まず、横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、1970年)によれば……

渡辺坂 新宿区天神町と中里町の境を南へ矢来のほうへ上る坂。昔、坂のふもと東側、中里町に「渡部源蔵」の屋敷があった(万延元年図)

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)の本とほとんど同じで……

渡辺わたなべ(天神町、中里町の境)
 矢来町二七、矢来町派出所前を、早稲田通りと分かれて、北に下る広い道。なだらかに下る。この道をそのまま進むと、山吹町を経て、江戸川橋にいたる。
 むかし、坂下東側、中里町に渡辺源蔵の屋敷があった。『江戸切絵図』(尾張屋版)に、中里町から矢来下に向かう道の東側に、渡辺源蔵の名が見える。道に、坂のマークはついていない。現在、坂の東側に、「渡辺歯科」がある。源蔵さんの家系か。

 これは岡崎清記氏の図ですが、渡邊坂は大きな場所を占め、地蔵坂はここではなく右側の場所が正しいと書かれています。

岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)

 では、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)によると……

渡辺坂(わたなべざか)
 中里町と天神町の境を南へ、天神町三四番と三五番の間を入って南に上る。坂上は同町二六番と二七番の間に出て、東西に延びる崖下の狭い道につき当たる。裏町の露地という感じの道である。坂名の起りは、むかし、この坂のふもとに旗本渡辺源蔵の屋敷があったことによる。『諸家系譜』によると、渡辺源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに通称天神下の御書院番組屋敷の内を賜った。

 こんどは渡邊坂と地蔵坂、180°正反対です。

石川悌二氏『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)

 これは歴史から調べないとだめ。万延元年では旗本渡部源蔵はここにありました。

万延元年

 上と左の辺が道路になり、上辺はほぼ水平なので、坂をつくるのには左辺しかありません。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 明治20年の地図は下のようになっています。なるほど二つのT字型交差点の間を結んで「渡邊坂」があったんですね。つまり、天神町から「渡邊坂」はクランク状で、まっすぐの道ではないのでした。

明治20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 ところが明治29年、このクランクが改修されます。「渡邊坂」の西、地図で言うと左側に新たな道の建設が始まったのです。

 明治40年の地図では完成しており、この道路が令和になるまでそのままです。

明治40年地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 つまり、渡邊坂は今ではありません。

 最後に2019年、新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の渡邊坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14057 渡邊坂 「山吹町」交差点から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14058 渡邊坂 新宿天神局前から北方面を望む


大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

高橋春人「ほろびの街」PHPエディータ―ズ・クループ。2019年

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。

 2007年、「神楽坂まちの手帖」15号「かくれんぼ横丁」で、渡辺功一氏は

お和佳姐さんのお宅と、お隣の持田さんのあいだに、戦後まで立派なイチョウの本がありました。これは、本多様の屋敷にあったものなんです。実は、イチョウというのは、火災でも燃えにくく、火消しのシンボルだったんです。空襲でこのあたり一帯が焼けたとき、焼け跡でまた新しい芽を吹いてで感動的だった、という話を、この横丁で生まれ育った作家の竹田真砂子さんが書いておられます。

 実は住宅地図で見ると「料亭松島」がその後の「丸島わ桂」の家でした。「わ佳」の間違いでしょうか。

住宅地図。2000年ごろ

住宅地図。1999年

袋町|幡随院長兵衛

文学と神楽坂

 袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして(ばん)(ずい)(いん)(ちょう)兵衛(べえ)が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。
 幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野(みずの)十郎(じゅうろう)左衛門(ざえもん)はどちらも「かぶきもの」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。
 また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。

(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本やっこ」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒せきれい組・大小神祇じんき組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬かご組などが組織されました。
 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。
 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当(さやあて)をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。
 この事件は武士対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。

 歌舞伎では、これを元にして「幡随院(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)精進(しょうじん)俎板(まないた)」や「極付(きわめつき)幡随(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)」などを作りました。
 この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所は別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、西神田1丁目11番地は現在なく、代わって西神田2丁目になり、現場に近い西神田小学校も西神田児童センターになりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。