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外堀の土塁[B]|コンコース

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)からJR飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の西口改札外コンコースには「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を取り上げて、パネル[B]「外堀の土塁」は日本語と英語で解説しています。

外堀の土塁

菊池貴一郎 江戸風景 誠文館 大正4年

NDL古典籍OCR-Lite-GUIでは

    牛込御門
 小石川御門前 の流を左に雲 行は牛込御門 なり御門内外
 とも武家屋 敷のみちみち たる所なり只神 楽坂西側にし
 わづかに町家 を見る此辺す へて物音の間 ゆるは松ふし風と
 鳥の起しする外 音といふもの絶て なく閑静なる地
 にして景色よし

外堀の土塁
The Structure of the Outer Moat Ground
外堀土塁の構造
The Structure of the Base
 牛込門から赤坂門までの江戸城外堀は、谷地形を利用し、広い堀幅の水面と、水面から高い土塁を持つ江戸城防御のための空間で構成されています。目の前に見える土手もその土塁の一部であり、2013(平成25)年から始まった石垣修復工事、その後のJR飯田橋駅西口駅舎等の工事にあわせ調査が行われ、桝形石垣付近は江戸時代当時の規模を目安とした土塁の復元をしています。
 外堀の土塁は、厚さ5~10cm程度ごとに土や粘土、砂など様々な種類の土を積み重ねて突き固められた版築はんちくと呼ばれる技法で作られています。地層断面をみると、土手の斜面方向とは逆に、水面の方に向かって地層が上がっています。これは、土砂崩れを防ぐためと考えられています。土塁の道路端には土留めの石垣が築かれていましたが、現在では土手に沿って通る道路の端に確認できる通り、コンクリートの小型擁壁ようへきに代わっています。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
桝形 枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。
版築 はんちく。板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくる方法。板などで枠を作り、間に土と少量の石灰や凝固材を入れ、たたき棒などで、土を硬く突き固める。
土留め 法面や崖、盛土などの崩壊を防ぐため、土が低い土地に崩れてこないようにすること。
擁壁 土留めのための壁状の構造物

外堀断面図 [標高(m) 江戸期の土塁地形(推定) 上限(13.5m) 下限(12.5m) 現況 江戸期の土塁が残っている土層 土塁 江戸期の盛土 近代の盛土 (急行線)(緩行線)東京層 砂層 外堀 堀内堆積物 TP 4m]

現在の土塁

土手の小擁壁 戦後直後の牛込門付近の土塁

 The section of Edo Castle’s outer moat between Ushigome and Akasaka Gates was constructed by utilizing the valley topography, which allowed for the development of a wide canal surface and tall earthwork fortifications. The embankment visible here formed a portion of the area’s earthen fortifications. In 2013, a series of excavations were carried out in conjunction with a project to repair the stone walls and redevelop the western side of JR Iidabashi Station.
 The project enabled the reconstruction of earthen fortifications on the same scale as those that existed in the Edo era. As a result, contemporary visitors to the site can experience the grand scale of the historical fortifications that existed in the area. The outer moat’s fortifications were constructed using a rammed-earth technique in which 5-to-10-centimeter layers of earth and clay were stacked on top of one another and tamped down. An examination of the fortifications geological profile reveals that the layers of earth and clay rise towards the towards the moat’s surface and away from the embankment slope, It is likely that this construction method was utilized in order to prevent landslides. Earth-reinforced stone walls were constructed along the roadside lining the earthen fortifications. However, as can be determined from the roadside currently located parallel to the embankment, the original earth-reinforced walls have been replaced by small-scale concrete retaining walls.

外堀土塁の水際部分(発見された水際石垣)
Waterside Part of The Outer Moat Ground (Discovered Waterside Stone Wall
 2015(平成27)年に行われた発掘調査の結果、外堀の水際には、土手が崩れないようにするための低い石垣が作られていたことが判明しました。発見された場所は、牛込橋から140m程度市谷方向に進む地点の線路の間で、石垣の基礎部分と考えられる 1〜2段の石積みが、外堀で初めて確認されました。この石垣は、明治期に甲武鉄道が敷設された際に、上段部分が撤去され、基礎部分はそのまま埋められたものと考えられます。
石積み 石垣や橋台を築造する方法か構造物
甲武鉄道 1889年(明治22年)大久保利和が開業。この鉄道は御茶ノ水から飯田町、新宿、国分寺、立川、八王子に至る。1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法で国有化され、中央本線の一部に。

発掘された水際石垣

 An archaeological excavation carried out in 2015 revealed the existence of low stone walls along the moat’s edge. They were likely constructed in order to prevent the embankment from collapsing into the moat. The site where the walls were discovered is located in a section of rail track approximately 140 meters away from Ushigome-bashi Bridge in the direction of Ichigaya. At that site, excavators found one- and two-tier layers of stone, which are thought to have comprised the stone walls’ structural foundation. When the Kōbu Railway was constructed in the Meiji period, it is thought that the upper portion of the stone walls were removed and the foundation was buried.

外堀土塁の植栽
Planting of The Outer Moat Earth Fence
 1636(寛永13)年、外堀土塁が完成すると、幕府は翌年、堀方七組の東国大名に命じて、土塁上部から2.7m程下がった位置に、一間(約1.8m)間隔で大きめの松杉を、その内側には小さめの苗木を、二筋にわたって植樹させました。植木奉行(のち普請奉行)の管理下に置かれた牛込土橋~筋違橋の土手と堀は、近辺に屋敷を拝領する武家に割振り、植木の手入れと草刈りを担当させました。幕末に日本を訪れたオイレンブルクの『日本遠征記』によれば、「城壁天端の平坦部とその内側にはモミなどの針葉がぎっしりと並び、水面には何千という野鴨が住み着いている」と記されています。なお、真田濠(現上智大学グラウンド)の土塁上には、往時の姿を思い浮かべることができるような松の植生がみられます。

現在の飯田橋駅西口B

飯田橋駅西口Bの土塁の上部に松などの植林

飯田橋駅西口Bの2階から土塁を見る

堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
松杉 しょうさん。松と杉。松の木と杉の木。
植木奉行 植木に関する用務を担当し、手代15人、同心51人を指揮。寛政3年(1791)廃止。
普請奉行 御所、城壁・堤防などの修理造築、上下水道等の土木工事、武家屋敷請取りなどの事もつかさどる職名。文久2年(1862)廃止。
オイレンブルクの『日本遠征記』 幕末、プロイセン使節団の遠征記。条約を結ぶためにドイツ地方の代表として日本にやってきた。
城壁天端… 『日本遠征記』によれば「外城の城壁や堀は内側の城のそれらとまったく似ている。この都市の一画は南西方面に著しく高くなっている。そして同様に、草のたくさん生えた傾斜地が水をたたえた堀に面する所で終っている。堀は所々大きな池となって広がる。見事な樹木が、蓮の生えた浅い池の上に枝を垂らし、その池には何千という野鴨が住み着き、また城壁の樅の木には、無数の鳥やその他の猛禽が巣くっている。これらの鳥は誰にも追われたりしない。その狩猟は将軍のみが持つ特権に属するものだからである」

 The outer moat’s earthenworks were completed in 1636. The following year, the Tokugawa shogunate order the group of eastern Japanese domainal lords previously mobilized to dig portions of the outer moat to plant a row of pine and cedar trees approximately 2.7 meters below the upper portion of those fortifications. The trees were to be planted 1.8 meters apart. In addition, they planted an inner row of smaller saplings parallel with the pine and cedar trees. This project was carried out under the direction of the Governor of Landscaping (later the Governor of Construction) and the maintenance of the newly planted fauna was entrusted to the warrior houses occupying estates along the outer moat and embankment between Ushigome-bashi Bridge and Kuichigai Gate.
 During the late-Edo period, the area was visited by Prussian diplomat Count Friedrich Albrecht zu Eulenburg. In his Record of the Eulenburg Expedition to Japan, he wrote, “Thick rows of fir trees and other conifers line the flat section crowning the castle walls and the walls’ interior section, and thousands of wild ducks inhabit the moats surface.” The rows of pine trees lining the embankment alongside Sanada-bori Moat (present-day Jōchi University Field) provide visitors with a sense of what the outer moat area was like in the Edo period.

現在の真田濠

江戸城外堀|史跡解説板2

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち2枚目は江戸城の外堀です。写真は日本語と英語で書かれて、諸門の写真や図が18枚、大きい図は江戸城全体図と神田川の地形です。

江戸城外堀

江戸城外堀
The History of Edo Castle Outer Moat

 江戸城は、本丸ほんまる二の丸三の丸西の丸北の丸吹上ふきあげからなる内郭ないかく内堀が囲み、その表門おおもんでした。外堀は、雉子きじばしもんから時計回りに、ひとつばしもんかんばしもんときばしもんなど諸門をめぐり、ふくばしもんからとらもん溜池ためいけから四谷門市谷門牛込うしごめもんを経て、現在のかんがわに入り、いしかわもんから浅草あさくさもんで、すみがわに至る堀でした。外堀工事は、1606(けいちょう11)年に雉子きじばしから溜池ためいけまでの堀を構築こうちく後、1618(げん4)年に駿するだい掘削くっさくされて平川ひらかわ(現ほんがわ)のりゅうに付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川はほりどめばしで締め切られ、独立した堀となりました。
 1636(寛永かんえい13)年には、てんしんで外堀が構築され、江戸のそうがまえが完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形ますがた築造をまえほそかわいけくろなど西国さいこくざまだいみょう石垣いしがきかた六組ろくくみ)、牛込うしごめばしから赤坂あかさかばしにかけての外堀掘削とるい構築こうちく東国とうこくだいみょう堀方ほりかた七組ななくみ)が行いました。
 その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。牛込~市谷間の堀は、市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、が繁ったため、しんぎょうの管理下で頻繁ひんぱんにさらいが行われました。また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触まちぶれも出され、外堀の維持・管理が行われました。
本丸 日本の城郭建築で、最も主要な部分。多く、天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が戦時に起居する。
二の丸 城郭で、本丸の外側の郭。二の丸の大きな役割は最重要の本丸を守護すること。
三の丸 二の丸を守るのが三の丸の主な役割
西の丸 本丸の西のほうに、独立して設けられた区画。将軍の世子の居所や、将軍の隠居所。世代交代をした城主が隠居場所として使うのが基本で、城主の妻や世継ぎとなる子が住むこともあった。
北の丸 城の北側の区画。特に、江戸城の北の丸にあった将軍の正妻の居所をいう。
吹上 元は風が吹き上げる高い所
内郭 城の内側に石などで築かれた囲い。また、その地域
内堀 ないごう。城の内部にある堀。
表門 おもてもん。建物などの表口にある門。正門
大手門 城の正門
雉子橋門 雉子橋門跡は「千代田区景観まちづくり重要物件」指定の地域遺産。千代田区一ツ橋と九段南を結ぶ。家康が朝鮮からの使節をもてなすためのきじをこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。
一橋門  徳川家康が江戸入国の際に丸木の一本橋を渡したことによる。江戸城の外堀の橋の一つ。雉子橋の東方、神田橋との間の橋で、南詰に一ツ橋御門があった。
神田橋門 千代田区神田と大手町を結ぶ橋。江戸城外濠(日本橋川)にかかる。江戸時代には魚市がたった。
常盤橋門 常盤橋は1590年(天正18)の架橋ともいわれ、江戸でも最も古い橋で、長さ17間(約31m)、幅6間(約11m)と、両国橋が架かるまでは江戸一の大橋だった。その橋に通じるこの門は、江戸城外郭の正門にあたり、桝形ますがた門の形状をよくとどめている。
呉服橋門 中央区八重洲やえす1丁目にあり、外堀通りと永代えいたい通りの交差点にあった。
虎ノ門 江戸城を守る三十六見附門の一つである虎ノ門が置かれた
溜池 東京都港区北部と千代田区の境界にある。江戸時代には外堀の一部で、大池があり、その水は上水に使用されていたが、明治期には埋立てられた。
四谷門 現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口
市谷門 1636年(寛永13年)、美作みまさかやまはん(現在の岡山県)藩主・もり長継ながつぐが築造
牛込門 1636年(寛永13年)、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主はち須賀すか忠英ただてが築造
神田川  東京都を流れる荒川水系隅田川支流の一級河川
小石川門 1636年(寛永13年)、岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造
浅草門 浅草橋は台東区、中央区の境にある橋。神田川が隅田川に合流する地点にかかり、奥州街道の入り口になる。浅草門は現在の浅草橋の南たもとにある。
隅田川 東部を貫流する荒川の分流
駿河台 徳川家康が江戸入府の際に、駿河から連れてきた家臣団がこの地に居住したからとする説と、富士山が見えたからとする説がある。
掘削 土砂や岩石を掘り取って穴を開けること
平川 神田川の前身。三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して、かつては河口は大手町1丁目のあたりで、日比谷入江という干潟の海に流れを注いでいた。海水が遡上してて飲料水に不適だった。1620(元和6)年、平川は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。
日本橋川 千代田区と中央区を流れる一級河川。江戸時代の天下普請のとき、平川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となった。これは飯田堀、飯田川とも呼ばれていた。1903年(明治36年)、市区改正事業があり、埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになる。
流路 川の水が流れる場所
堀留橋 日本橋川に架かり、南堀留橋の上流約120m。九段北一丁目と飯田橋二丁目の間から西神田三丁目に通じる専大通りの橋。昔この付近の日本橋川を堀留川と称した
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
総構 城以外に城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造
枡形 ますがた。枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。出陣の際、兵の集まる所。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣方六組 西国・四国の大名61家は「石垣方」6組に編成して江戸城東方の堀に石垣を築かせた。
牛込土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


赤坂土橋 赤坂御門のこと。土橋とは城郭の構成要素の一つ。堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
手伝普請 近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。
堀さらい 水路清掃のこと。
 インド原産のハス科の多年性水生植物。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)
普請奉行 土木・建築工事において基礎工事を管掌する。
町触 まちぶれ。江戸時代に町人に対して出された法令
喰違 麹町区紀尾井町阪上から赤坂離宮前に出る城門。江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)
  Edo Castle’s inner hull was comprised of six citadels: the main, second, third, western, northern, and fukiage citadels. The entire inner hull was encircled by an internal moat and Ōte-mon Gate served as its main entrance. The Castle’s outer moat originated at Kijibashi-mon Gate and passed, in clockwise direction, through Hitotsubashi-mon, Kandabashi-mon, Tokiwa-bashi-mon, Gofukubashi-mon, and Torano-mon Gates. It then extended from Castle reservoir through Yotsuya-mon, Ichigaya-mon, and Ushigome-mon Gates before ultimately flowing into the present-day Kanda River. From there. it served as a canal, which passed through Koishikawa-mon and Asakusa-mon Gates and ultimately converged with the Sumida River.
  The outer moat’s development began in 1606 with the construction of a canal from Kiji-bashi Bridge to the Castle reservoir. The second stage in its evolution came in 1618, when portions of the Kanda Plateau were removed and the canal was redirected towards the Hira River. That process gave birth to the Kanda River and transformed the Hira River, which was closed off at Horidome-bashi Bridge, into an independent canal.
  The outer moat was finally completed in 1636, when feudal lords from eastern and western Japan were mobilized to construct its remaining portions. Specifically, western domainal lords, including the Maeda, Hosokawa, Ikeda, and Kuroda Houses, were ordered to supervise the construction of stone walls and the square masugata enclosures used to protect the castle gates along the section of outer moat between Kiji-bashi Bridge and Torano-mon Gate. In constrast, domainal lords from eastern Japan were order to dig a canal between Ushigome-bashi and Akasaka-bashi Bridges and construct earthen fortifications.
  In order to maintain the outer moat, the Tokugawa shogunate mobilized domainal lords from around the country to dredge it. In particular, the section of the moat between Ushigome and Ichigaya required frequent dredging because the water level often receded, resulting in the accumulation of silt on the moat floor and the development of water lilies on its surface. Such dredging projects were carried out under the supervision of the shogunate’s Governor of Construction. In addition, the city authori-ties attempted to keep the outer moat free of debris by issuing official proclamations banning the residents of commoner neigh-borhoods from disposing of garbage in the moat.


四谷門

数寄屋橋門

雉子橋門

市谷門

山下門

一橋門

牛込橋

幸橋

神田橋

小石川門

虎ノ門

常盤橋門

筋違門

赤坂門

呉服橋門

浅草門

喰違

鍛冶橋門

四谷門数寄屋橋雉子橋門市谷門山下門一橋門
牛込門幸橋門神田橋門小石川門虎ノ門常盤橋門
筋違門赤坂門呉服橋門浅草門喰違鍛治橋門

赤坂門:長崎大学附属図書館蔵
Akasaka-mon Gate: “Photo Tokyo Past and Present” Hiroshi Nozawa
喰違:『絵本江戸土産』国立国会図書館蔵
Kuichigai-mon Gate: “Edo Souvenir in Pictures” National Diet Library
そのほか:『旧江戸城写真帖』東京国立博物館蔵
Others: “Old Edo Castle Photo Collection” Tokyo National Museum

江戸城外堀

江戸城全体図zsっっっっっっっっっっd

江戸城全体図

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 61歳で待望の栄冠をにぎった家康、日本最大の実力者となって幕府を開いた。
 ところが、家康は征夷大将軍となってわずか2年で世子秀忠にゆずる。慶長10年(1605)2月24日、譜代、外様の大名10万余の軍勢を率いて江戸を出発し、威風あたりをはらう入京、天下の人々は驚いた。このことは「天下は廻り持ち」の思想を否定し、徳川の子孫が独占することを宣言するためであった。政治的中心が、江戸と大坂という分裂状況を事実上終止符をうち、諸大名にその方向を決定させるのに十分であった。
 天下は徳川のもの、政治の中心となる威容をほこる本城作りに、譜代・外様を問わず天下の大名総力をあげて工事に協力させることが可能となったのである。諸大名も将軍への忠誠を示すために命ぜられるまま城普請にかり出された。
 慶長の天下普請のはじまりである。(略)
慶長11年(1606)の修築工事
(略)この時の工事箇所は、外郭の雉子橋より溜池落口までの石垣の他、本丸石垣、天守台、富士見橋台石垣、虎門石垣などにあたり、天守台を除き5月には竣工する。(略)
慶長12年の修築工事
 この年の修築工事は、前年の工事の未了部分を継ぎ、さらに雉子橋から溜池際に至る東南の外濠を改修することを主目的としている。(略)
寛永13年(1636)の修築工事
 この年の工事は、外郭の修築によって江戸城の総がまえが完成する時である。(略)

寛永期の修築工事

慶長期の修築工事


 修築工事は、石垣方と堀方とからなり、石垣方は西国大名、堀方は東国大名が担当し、石垣工事は、神田橋から桜田にいたる修築と虎ノ門・御成橋門(幸橋門)・赤坂門・喰違門・外糀町口(四谷門)・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・筋違門・浅草橋門・溜池台の外郭諸門の桝形、濠の掘削工事は、赤坂から市ヶ谷までの外濠西側を開削することを目的としている。外濠西側の掘削によって東北の神田川に連結し、外郭諸門の築造によって城濠が完成するのである。

神田川の地形

 堀留橋(ほりどめばし)江戸時代の堀はここで終了し、元飯田町堀留と呼ばれた。埋め立ての時期は不明だが、寛文期(1661〜1673年)には堀留(堀で掘り進められない終了地点)になっていたらしい。大正時代の関東大震災の後に復興事業があり、再び架橋した。