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狂歌師 大田南畝旧居跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 20. 狂歌師 大田南畝旧居跡」を見ていきます。

狂歌師 大田南畝旧居跡
     (北町41
 光照寺前通りを西に進み十字路の先は、狂歌師として有名な大田蜀山人(南畝)の居住地跡である。
 蜀山人は、幕府の儒者であり学者であるが、狂歌師としても有名で当時江戸第一人者であった。蜀山人は、寛延2年(1749)3月2日、吉衛門の長男としてここに生まれ、文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住していたのである。
 このあたりはいまでも閑静な住宅地であるが、田山花袋の「東京の三十年」(大正6年)にも、明治22年ごろの中町のようすを書いている。その中に、
“中町が一番私に印象が深かった。他の通に比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。”
 と書いている。
 またこの通りには若い美しい娘が多かったという。きれいな二階屋があり、そこからは玉を転がしたように琴の音が聞えて、それをひいている美しい白い手も見えたし、運がよいと、表でその娘たちの姿も見られたといっている。
〔参考〕東京名所図会 大田南畝 森銑三著作集
狂歌師 狂歌を詠み、教えることを業とする人。狂歌とは短歌と同じく、五・七・五・七・七の5句31音の歌だが、しゃれ、風刺、俗語などが入っている。
太田蜀山(南畝) 正しくは「大田」と書きます。また、Wikipediaによれば「名はふかし、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、しょく山人さんじん、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手やまのての馬鹿ばかひとも別名とする説がある。狂名、四方よものあか。また狂詩には寝惚ねとぼけ先生と称した」。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。74歳
北町41 実際は中町でした。なぜ北町は間違いだったのか、詳しくはここで。ちなみに、森銑三著作集第1巻「南畝の日記」201頁には「南畝は34歳の新春を、その牛込中御徒町の家にめでたく迎えたのである」となっています。

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光照寺前通り 光照寺の前の通りで、東側には地蔵坂(藁店)がありますが、西側には通称名も含めて何もなさそうです。
幕府の儒者 儒者は江戸幕府の職名で、将軍に儒学の経典を進講し、文学をつかさどる人。しかし、南畝が儒者だったという事実はありません。
文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住 「大田南畝の住居跡」によれば「文化元年(1804)小日向に転居するまでの56年間」でしょう。

No名称種別坪数住所現在地期間備考(数え年)
息偃館借地200坪牛込中御徒町新宿区中町37・38寛延2年(1749)~?1歳〜
借地210坪牛込中御徒町新宿区中町36?~文化元年(1804)〜56歳 書斎「巴人亭」
遷喬楼買得93坪小日向金剛寺坂上文京区春日2-16文化元年(1804)~同6年56歳〜 年賦購入。2階建て
拝領139坪余牛込若松町新宿区大久保文化6年(1809)~同9年61歳〜
緇林楼拝領150坪余駿河台淡路坂上千代田区神田駿河台4-6文化9年(1812)~文政6年(1823)64歳〜 大久保と交換

東京の三十年 岩波書店の内容では「明治14年、花袋が11歳で出京してからほぼ30年の東京という街の変遷と、その中にあって文学に青春を燃焼させた藤村・独歩・国男ら若い文学者の群像を描く。紅葉・露伴・鴎外ら先輩作家との交流にも触れ、花袋の自伝であるとともに明治文壇史でもある」

 中町の通——そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込うゑこみれいなのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒せうしやな二階屋、其處から玲瓏れいろうと玉をまろばしたやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。」
註:轉ぶ まろぶ。転ぶ。ころがる。ころぶ。倒れる。

森銑三 もりせんぞう。書誌学者、随筆家。戦前は東京帝大史料編纂所勤務。戦後は早稲田大学で書誌学を講義。近世の人物の伝記などを研究し、資料を探索して埋もれた人物を発掘した。生年は明治28年9月11日。没年は昭和60年3月7日。89歳

花袋と紅葉(2)

 花袋は意を決して、当時の流行作家尾崎紅葉横寺町へ訪ねてみたのは、21才の明治24年(1891)5月24日の日であった。それは、泉鏡花に先立つこと、4ヵ月はやい。その当時の出合いを花袋は、『東京の三十年』にこう書いている。
キャラコ三絞の黒の羽織か何かを着て、すり減した下駄を穿いていた。顔のイヤに蒼白い神経性の私は訪問すると、すぐ玄関の二畳――鏡花春葉など後にいた――のすぐ隣りの八畳の座敷へと案内されて通った。その室はやや低い、下にゴタゴタした家屋を見るような小さな庭に面していた。私を導いて通して呉れたのは50位の品の好い老婦人であった、私の胸はドキドキした。(中略)“何うぞ二階へ”こうさっきの老婦人が、やがて入ってきて言った。5月24日新緑が爽やかに日の光にかがやく頃なので、家は皆障子が明け放しされてある。で立って、廊下に出ると、座敷の隣りの長鉢の置いてある六畳の間に、その若い美しい花のような菊子夫人が、白粉を真白につけて、ぱっちりした眼をして此方を向いているのに出会した。私は慌ててお時宜をした。その光景は今でもはっきり、私の目に見える。階悌を上ると、二階は八畳に六畳、明るく初夏の日影の光線が、さし込んで、一六居士(巌谷小波厳父)の書いた新婚の祝の寿という幅物がかかっていたり、ソファが置いてあったり、書籍が、散かっていたり、座蒲団が置いてあったりする向うに、彼のいる机が置いてあって、その前の長火鉢のところに紅葉は坐っていた。
“此方に来給へ”で私は其の長火鉢の前の赤い模様のあるメリンスの派手な座蒲団に坐った。しかし、その座蒲団は噂にきいた菊と紅葉の模様ではなかった。傍には茶器、茶碗、薬綴、そういうものが、本やら雑誌やら新刊書やらと一諸にごたごた散らばっていたが、案内して来た老婦人は茶器を洗うべく、それをかれの手から取っで、下りていった。かれについての最初の印象は好い感じであった。いかにも江戸っ子らしい快活な城府を設けない話し振り、若い文学書生をも別に侮りもしない態度、尠くも私の動揺する心を静めるに十分であった。(中略)一時間ほど、私は話したが、それは大抵忘れて了ったけれど、かれの贅沢な生活、何不足ない生活、いかにも大家らしい応揚な生活。ことに美しい菊子夫人が私の眼と心を強く刺戟した。話をしている最中、その菊子夫人は、めずらしいはしりそら豆の茄でたのを皿に入れて持って来たりした。」

キャラコ インド産の平織りの綿布。丈夫で実用的な布地。白衣、シャツ、足袋などに用いられる。
三絞 不明です。「三絞」とは京都呉服卸の三絞株式会社のこと。「絞りの羽織」とは絵柄部分だけが絞り染めの羽織のこと。
羽織 防寒、礼服、おしゃれなどを目的の長着の上に着る和服の短衣。
お時宜 何かを行うのにちょうどよい時機。中世ではちょうどよい状況・対処。転じて、適当な挨拶。さらに頭を下げる挨拶動作。お辞儀
メリンス 細番手のウールを平織りにした、薄く柔らかい毛織物。メリノ羊の毛で織ったから。
菊と紅葉の模様 菊と紅葉の模様のお揃いの湯飲茶碗の話は有名だといいます。これは尾崎紅葉と菊子の夫婦だからこそ面白かったのでしょう。
城府を設けない じょうふをもうけない。相手に対して、へだてなくうちとける。
尠くも すくなくも。すくなくとも。とにかく
はしり 魚菜などのそれぞれの季節より早めに出るもの
そら豆 マメ目マメ科ソラマメ属。しゅんは4~6月。早熟栽培もあり、収穫は12月から。

 花袋はよっぽどその優雅な生活を羨ましく思ったのであろう。自分の生活は、貧しく、明るい二階もなければメリンスの蒲団もない、そら豆もないと自嘲した。前述の随筆集『椿』には、「紅葉山人を始めて、訪問して帰って来た時には自分の家が此上もない汚ないみじめなものに見えて、情けなかった。畳のデコボコしたのも佗しければ、障子の紙も黒くよごれているのも不愉快であった。私は着物を着換えずに長い間、机の前に坐って、黙って考えていた。(勉強する外仕方がない)こう思って、私は下唇を噛んだ」と、書いているのは、まさに真情であろう。紅葉の門下に迎えられた花袋は、硯友社の機関誌『千紫方紅』に「瓜畑」を載せてもらったし、親切にしてもらったのにかかわらず、反発的な精神があったのは紅葉の優雅な私生活への抵抗がその基因をなしていたものであろう。
 花袋はその後もしばしば、紅葉を訪ねた。新聞の連載物を書いているときは居留守もつかわれたようである。でも気さくな紅葉は、途中で出会うと、「ぼくの家に来たのかえ、これから弓に行くんだ、一諸に行きたまえ」と、誘ったということだ。当時行きつけの道弓場は、俗称獅子寺といわれた、横寺町法善寺境内にあった。この獅子寺の由来は、徳川家光が、酒井邸から帰途獅子の置物を置いていったことからそれ以後こう呼ぶようになったもの。
 それはともかく、間もなく花袋と紅葉は疎縁の仲になっていく、それはある日花袋が紅葉に向って「尾崎君」と不意に口をついて出た言葉に弟子に対して厳格そのものの「我意の人」といわれた紅葉の逆鱗に触れたのであろう。
 紅葉はいわゆる江戸っ子気服のよい人間であっだらしく、後輩の面倒をよく見たようであるが、「3尺さがって師の影を踏まず」といった、厳しい一面があった。紅葉の小品「青葡萄」の中の師弟観はまさしくそれである。
千紫方紅 せんしばんこう。色とりどりの花が咲きみだれること。雑誌は、成春社。1号(明24.6)から9号(明25.4)まで。以降廃刊。
瓜畑 うりばたけ。うりの植えてある畑。瓜田かでん
気さく 性質や人がらが、さっぱりしてこだわらないさま。
獅子寺の由来 保善寺によると「徳川三代将軍家光公との因縁によるもので、家光公が当寺に来た折、獅子に似た猛犬を下賜され、以来『獅子寺』と呼ばれるようになった」
疎縁 疎遠。遠ざかって関係が薄いこと。音信や訪問が久しく途絶えていること。
我意 がい。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。わがまま。
逆鱗 げきりん。はげしく怒ること。ふつう、目上の人が怒る場合に用いる。
江戸っ子 生粋きっすいの江戸市民。特徴はいきで勇み肌、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさ、浅慮でけんかっ早いなど。
 気質。気性。「研究者肌」「肌が合わない友達」
気服のよい 正しくは「気風きっぷが良い」。性格や心意気が男らしくで清々しい
3尺さがって師の影を踏まず 弟子は、師に敬意を払い、師の前では控えめにふるまい、同行する場合は影を踏まないように離れて礼節を尽くすべきである。

花袋と紅葉(1)

文学と神楽坂

 昭和41年、新宿郷土会「新宿郷土研究」第4号に「花袋紅葉」という一文が書かれています。この「新宿郷土研究」は新宿区立図書館で借りられますが、誰が作者「わたくし」になるのか不明です。この編集兼発行人は一瀬幸三氏なので、おそらく一瀬氏でしょう。

 わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。
「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。
 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。
 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。
 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。
 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。
「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。
 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。
 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。
「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。
椿 国立国会図書館オンラインに載っています。
どぶろく にござけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。
富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。
心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める
東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。
群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。
内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。
邸宅 下図で赤い図。
神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町
監獄署 下図の中央

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

士官学校 陸軍士官学校。下図の左手。
市ヵ谷見附 下図の中央部
九段 東京都千代田区西部の地区。麹町こうじまち台から神田方面へ下る坂(九段坂)に、江戸時代、9層の石段を築き、幕府の御用屋敷を建て九段屋敷と称したから。
招魂社 東京招魂社。現在の靖国神社。下図の右手

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

神田 神田区。千代田区の旧神田区地域。北に神田川が、南東に日本橋川が流れ、東京都電車が区の全域を走る。
馬車鉄道 鉄道馬車。軌道上を走る馬車の輸送機関。1882年(明治15年)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。
万年青 おもと。ユリ科の常緑多年草。

オモト

甲良町 明治二年(1869)市谷甲良屋敷を市谷甲良町と改称(己已布令)し、同五年には付近の武家地、開墾地を併合した。なお、江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町の一部で、甲良町にはない。
甲良屋敷 現在の市谷柳町の一部。徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷というようになった。(甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。東京都立図書館)
開墾地 開墾地(山林や原野を切り開いた土地)はどこを指し示すのか、わかりません。江戸時代、甲良町はすべて人が住んでいました。したがって明治初期になってから一部の家はなくなり、原っぱができたのでしょう。
25番地附近 「新宿郷土研究」では25番地附近を、別の研究は甲良町12を指しています。ちなみに明治19-20年に発行した参謀本部陸軍部測量局の「東京五千分ー東京図家量原図」(日本地図センター発行。2011年)では甲良町12は桐、甲良町13は原と家、甲良町25は普通の家が描かれています。

東京実測図。明治28年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

東京五千分ー東京図測量原図。参謀本部陸軍部測量局。明治19-20年。日本地図センター発行。2011年