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神楽坂を書いた文学|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 6. 神楽坂を書いた文学」です。

 神楽坂を書いた文学
 明治から大正にかけて、神楽坂は早稲田大学を控えて文学的ふん囲気の濃厚な所であった。だから新時代の文学を荷負う若い文士たちは、ここでの生活を愛した。この街には、主として早稲田の学生や若い文士だった日夏耽之介森田多里国枝史郎三上於兎吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などが住んでいた。
 文学作品の中に出てくる神楽坂をのべるとつぎのようである。まず小栗風葉は「恋慕ながし」の中に明治31年ごろの神楽坂の縁日や、裏町の花街のにぎわいを書いている。
 田山花袋の「」(明治41年作)には「神楽坂は、毎夜毘沙門の縁日のやうに雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出掛けて行く。」とある。
 夏目漱石の「それから」(明治42年作)には、神楽坂の途中で、主人公の代助が地震に出あう場面を書いている。
 正宗白鳥も「」(明治44年)の中に神楽坂縁日の、見世物のようすを書いているし、サトーハチローは、「僕の東京地図」(昭和11年作)の中に、明治末年を書いている。その中には、
 「神楽坂は、何と言っても、忘れられない町である。矢来の交番のところから、牛込見付までの間を一日に何度往復したことか、お堀は、ボートが浮いてゐなかった。暗い建物の牛込駅に添うてずッと桜が植わってゐたやうにおぼえてゐる……」とある。
 北原白秋は、「物理学校裏」(大正2年)という詩を作っている。神楽坂裏通りにあたる物理学校裏に住んだことがある白秋は、当時のようすを書いたもので、その中には、付近の住宅地は静かで、そとに聞えてくるのは、花街の三味や琴の音、甲武線の汽車の音、校舎で教える教師の声だけであると、擬音を入れながら描写している。
 夏目漱石の「硝子戸の中」(大正4年作)の中にも神楽坂を書いているが、田山花袋も大正初期の牛込一帯を「東京の三十年」の中に書いている。
 武蔵野をとよなく愛し、武蔵野の絵と文学と昆虫の研究を残した画家の織田一麿は、その著「武蔵野の記録」に、「牛込神楽坂の夜景」と題して、大正7年のようすを書いている。その中につぎの一節がある。
 「殊に夜更の神楽坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいえば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は11時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四辺に散乱した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都会生活は価値を失ふ。」
 泉鏡花は、「竜胆と撫子」(大正11年)の中に、神楽坂が明治から大正へと時代の流れとともに変ってきたようすを書いている。また鏡花は「神楽坂の唄」(大正14年)を作っている。鏡花が新世帯をもったのが神楽坂だったから忘れることができなかったものであろう(参照)。
 加能作次郎は、「早稲田・神楽坂」という一文を「東京繁昌記・山手編」に、明治末期から大正初期の神楽坂、特に毘沙門前の縁日のにぎわいを書いている。
 矢田津世子は、昭和10年ごろの神楽坂を短編「神楽坂」に書いているし、戦後のようすは佐多稲子の「私の東京地図」 (昭和21年刊)に出ている。そして池袋などがめざましく発展していくのに、ここは少しも復興しようとしないと、正宗白鳥が「神楽坂今昔」(昭和27年刊)に書いている。
 〔参考〕 新宿と文学 東京の坂道
日夏耽之介 正しくは日夏耿之介。ひなつ こうのすけ。
森田多里 もりぐち たり。美術評論家。早稲田大学文学部英文科とソルボンヌ大学を卒業。西洋、日本美術史の先駆的役割を果し、戦後は岩手県立美術工芸学校長、岩手大教授。西洋美術思潮の紹介、日本近代美術史、民俗芸能の研究を行った。生年は明治25年7月8日。没年は昭和59年5月5日。91歳。
国枝史郎 くにえだ しろう。小説家、劇作家。早稲田大学英文科中退。大学在学中に自費出版「レモンの花の咲く丘へ」。大正3年、大学を中退し関西へ移ると、同年、大阪朝日新聞社で演劇担当記者。6年、松竹座専属の脚本家。9年退社、大衆文学の作家に。『しんしゅう纐纈こうけつじょう』が再評価され、三島由紀夫が「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」昭和47年)と絶賛。生年は明治20年10月10日。没年は昭和18年4月8日。55歳。
三上於兎吉 正しくは「三上於菟吉」。みかみ おときち。
れんながし 小栗風葉の小説。明治31年9月1日、読売新聞で連載スタート。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。きん流尺八の天才青年はたじゅんすけとバイオリニストの五十いおずみようの純恋で始まり、売春と一八チーハー博徒(独特な賭紙を用い、大正初めまで盛大だった中国系の賭博)の胴元である銀次も絡み、葉子の自殺、銀次も死亡して終わります。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
神楽坂は、…… 田山花袋の母親が癌で亡くなるまでを描いた「」の一部にこの文章が出ています。
けれどそれは母親を悲しむというよりは寧ろ自己の感情に泣いたのだ。その証拠には、そこに若い細君が帰って来たら、その涙は忽ち乾いていったではないか。その柔かい手を握ったではないか。
 銑之助は自からこう罵った。
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 月が段々明るくなって、今日はもう十日だという。街の賑わい、氷店の繁昌、鉢植の草花、神楽坂は毎夜毘沙門の縁日のように雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出懸けて行く。
 病人はまだ生きて居た。
 平生後生を願わなかったからという声が彼方此方あちこちに聞えた。だから言はぬことではない、私は御寺参をあれほど勧めたのにと親戚の法華かたまりの老婦が得意そうに言った。

甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
サトーハチロー 正しくは「サトウハチロー」
織田一麿 正しくは「織田一磨」
大戸 おおど。家の表の大きな戸
新宿と文学 東京都新宿区教育委員会の『新宿と文学—そのふるさとを訪ねて』(区教育委員会、1968年)は、新宿区内を描写した文学作品や、区内に居住した作家たちを紹介する本。
東京の坂道 ​石川悌二氏『東京の坂道—生きている江戸の歴史』(新人物往来社、​1971年)は、数多くの坂道を一つ一つ取り上げ、それぞれの坂の名称の由来や歴史的背景を取り上げ、江戸時代から続く東京の街並みや人々の営みを紹介する本。​

桜並木だった神田川土手|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 43.桜並木だった神田川土手」についてです。

桜並木だった神田川土手
      (新小川町)
 大曲から石切橋までの間は、明治から大正にかけて両岸が桜並木で、花時には人出でにぎわったものである。島崎藤村の詩集「若菜集」(明治30年)には「水静かなる江戸川の、ながれの岸にうまれいで、岸の桜の花影に、われは処女となりにけり」という一節がある。
 武蔵野をこよなく愛した織田一磨の「武蔵野の記録」には、大正6年の石切橋あたりの絵と説明があるが、それによると清流が豊富で、桜並木では、春は灯火をつけ、土手には青草が茂って摘草もできたということである。
 大正12年以後昭和8年にかけて神田川改修工事が行なわれると、その姿はなくなった。
 〔参考〕 新宿と文学

若菜集 明治中期、島崎藤村の第一詩集。1897年に春陽堂から刊行。詩51編。ロマン主義文学の代表的な新体詩。
水静かなる江戸川の これは「二 六人の処女をとめ おえふ」の項で出ています。他に「おきぬ」「おさよ」など。
処女 詩には「おとめ」と読み方がついています。「おとめ」は「おとこ」の反意語で、年の若い女。未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。
大正6年の石切橋 「第16図 江戸川石切橋附近」と「第18図 江戸川河岸」です。

江戸川石切橋附近

第16図 江戸川石切橋附近 (素描)大正6年作 四ツ切大
 江戸川の護岸工事が始まるというので、その前に廃滅の詩趣とでもいうのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思って、可成精密な素描を作つた。
 崩潰しようとする石垣に、雑草が茂り合った趣き、民家の柳が水面にたれ下った調子、すべて旧文化の崩れようとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折ったものだ。
 20図、21図も同様の目的で、同時代の作品であるが、記録といる目的が相当に豊富だったために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失われている。芸術としては、牛込見附の方に素描らしい味覚がある。
 記録としてはこの図なぞ絶好のもので、これ以上にはなれないし、それなら写真でもいいということになってしまう。

江戸川河岸

第18図 江戸川河岸 (素描) 大正6年作 四ツ切大
 この作も前記二図と同じ意図の下に描写した記録作品で、江戸川に香る廃滅する詩趣を写さんと志したものだ。河の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。
 石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れている。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来ていないし、橋梁もまだ旧態を存していた。
 この下流へ行けば大曲までは桜の並木があって、春は燈火をつけ、土手には青草が茂っていて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代って、殺風景というか、近代化というか、とにかく破滅した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思わせる。

飯田河岸|中村道太郎と織田一磨

文学と神楽坂

 飯田河岸を描いた作品はあまり多くはなさそうです。中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)や版画家である織田一磨氏の「武蔵野の記録」(洸林堂書房、1944年。武蔵野郷土史刊行会、1982年)などです。で、この3点を見ていきます。

1.中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」

中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)

飯田河岸は江戸開府の当時まで神田川の河口であった地で海港として諸国の船舶が輻輳していた。下町建設のため駿河台を切り開いてその方面に流路を転ぜしめて以来現在の如き水路を見るに至ったので今日ではさしたる重要性を認めず唯汚物船などが往来する。

 この飯田河岸は、背後に大きな平地があるので、船河原橋から小石川橋までの地域でしょう。ただし、千代田区の飯田河岸とすれば、背後の土手を中央線が走っているはずです。つまり、神田川から市兵衛河岸などの文京区側を見たものです。この河岸は極めて狭く、神田川が外堀通りに接しています。
 煙突がついた建物が並んでいるのは陸軍の東京砲兵ほうへい工廠こうしょうでしょう。大正12年、関東大震災のため、小倉工廠に移転を開始、昭和10年、完了しました。
 通りには無数の電線とうで7本の電柱が3本見え、道路には自動車と荷車が走っています。船荷を陸揚げする揚場には沢山はしけがとまり、1台は運送中です。

飯田河岸(明治22年以降)

2. 織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 大正3年秋の第一回二科展に著者が出品した作である。著者の解説に『当時の牛込見附附近はポプラの樹が茂っていて、現在の飯田橋停車場ホームのあるあたりには、常に石灰岩の破片が山積されていたものだ。これを小船に積込んでセメント工場に運搬する。その為にいつもこの河岸には伝馬船が集まっていた』とある。
新宿区役所「新宿区史」昭和30年

 飯田河岸を正面に見すえて、右端には石垣があり、下には床石があります。牛込橋のの下の橋台から飯田壕を見たものでしょう。てん船(=はしけ)が沢山とまり、舟員2人は竿を動かし、はしけを操っています。
 右の土手の中腹、緑と白の切れ目を中央線の電車が走っています。傾いた木の柱は架線柱でしょうか。なお、以前はこの部分を甲武鉄道といいましたが、明治39年、鉄道国有法で国有化し、中央本線になりました。
 昭和3年11月15日、複々線化し、また牛込駅と飯田町駅から飯田橋駅に統合。この水彩画はそれ以前に描いたものでしょう。

【参考】石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

3.織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 これも織田一磨氏の「飯田河岸」です。左岸は飯田河岸、右岸は神楽河岸で、牛込橋はまだ見えません。左岸の斜め屋根の荷揚場の下の壕に、はしけ数隻があります。
 また、左岸に高い崖があり、上端は平らに整理し、その上に樹木数本があり、中腹には黒く段差があります。この黒い段に中央線の鉄道があると考えると、線路より高いところに土手があるので、これが下図の土手でしょう。飯田壕がやや狭くなっているのもわかります。
 織田一磨氏は明治15年の生まれで、牛込駅が開業した時(明治27年)には12歳でした。これは2の飯田河岸と同様で、中央線の複々線化前の情景でした。

明治四十年一月調査東京市麹町區全圖 飯田壕付近。「飯」は「飯田河岸」の「飯」から。

牛込橋

文学と神楽坂

 北西の「神楽坂下」から南東の牛込見附跡までにある橋を牛込橋といいます。

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 千代田区では交番の脇の標示に…

牛込橋

牛込橋

牛 込 橋
 この橋は、「牛込橋」といいます。
『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と牛込方(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永13(1636)年に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋てす。
     平成八年三月
千代田区教育委員会

 最初は広重の「どんどんノ図」の一部です。神田川を遡る荷船はこの『どんどん橋』(どんどんと音のする木造の太鼓橋)と呼んだ牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしました。天保年間(1830-44)後期の作品です。
  団扇絵3

 次は国立国会図書館の「神田川通絵図」の図です。書誌の解題には「巻頭に天明五巳年三月とあり、図中、昌平橋近くの鳳閣寺に寛政11年に所替となった旨の書き入れがあり、およその作成時期がわかる」と書いてあります。天明五巳年は1785年、寛政11年は1799年のことで、江戸中期です。
牛込橋と船河原橋

 次は明治4年(1871)の橋で、「旧江戸城写真帖」に載っている写真です。太政官役人の蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、江戸城を記録した写真集です。湿式コロジオン法といわれる撮影技法を用い、感光能力に優れ、取り扱いも簡便、画像が鮮明で保存性もよかったといいます。いつの間にか「どんどん橋」(木造の太鼓橋)ではなく、普通の橋になっています。
牛込門

 さらに明治6、7年の牛込橋です。

牛込橋之景。一瀬幸三「浄瑠璃坂の敵討は牛込土橋」(新宿郷土会。平成6年)

牛込門橋台石垣イメージ(牛込門と枡形石垣 飯田橋駅西口2階)

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。

東京実測図。明治28年

東京実測図。明治28年

 次は明治後期で、小林清親氏の「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 明治37年、東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904)では牛込橋を下流から見ています。右は牛込区(現・新宿区)、左は麹町区(現、千代田区)です。牛込濠から飯田橋濠に向かう排出口は小さくなっています。

東陽堂編『東京名所図会』第41編(明治37年)江戸東京研究センター

 今度は、東京市編纂の「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)の牛込橋から見た神楽坂です。

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも取り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 さらに明治42年(1909年)の牛込見附です。(牛込警察署「牛込警察署の歩み」、1976年) L

 1927年(昭和2年)、織田一磨氏は「外濠の雪」(東京誌料)を描いています。

織田一磨「外濠の雪」東京誌料、昭和2年

 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 また、牛込橋と関係はないですが、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。牛込橋も変更の可能性があります。新飯田橋駅