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牛込赤城社内の山猫|江戸岡場所図誌

文学と神楽坂

 礒部鎮雄氏の「江戸岡場所図誌」(江戸町名俚俗研究会、1962)赤城神社の「岡場所」です。ここでは3つに分けて、最初は全体の状況です。

江戸岡場所図誌

牛込赤城社内(山猫と云)
 赤城明神は、云うまでもなく牛込の総鎮守にして、此処も門前岡場所の形態である。
かくれ里下巻」には、
 牛込等覚寺門前とあり、此の寺は天台宗で赤城明神の別当寺でもあり、始め等覚寺(伽藍記)後に東覚寺(名所図会)と記してある。
婦美車」に上品下生之部、昼夜四ツ切チョンノマ一分、此浄土、風儀回向院前におなじ、髪の結様衣装武家にまなぶ、あまりさわぎならず、但し此所山ネコと云ふ。「花知留作登」にも同様に記す。
 とあって、勿論上等ではなく山猫と云はれる程だからすさまじい所があったろう。

岡場所考」に今はなし、又、「甚好記」には価十匁とあり、安永頃まで存在していて、寛政には取潰されてしまった。
 その場所は、赤城門前町のわづかな処である。

総鎮守 そうちんじゅ。国か土地の全体を守護する神社
門前岡場府
 岡場府とは江戸で官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。神社や寺に参拝に来る人を目的にした門前町に集まった。
かくれ里 「かくれざと」は『近世文芸叢書』風俗部第10(国書刊行会、明治44年)から。編纂者は国学者の石橋真国で、真国は通称茶屋七助、江戸町奉行附腰掛茶屋の主人で、没年は安政二年(1855年)。以下は「かくれざと」の「赤城」から。

   赤 城
牛込等覚寺門前〔契国策〕遊所方角図 申方  赤城〔甚好記〕赤城 十匁〔紫鹿子〕上品中生 赤城 昼夜四切チヨンノマ一分 此浄土風儀回向院前に同じ、髪の結様衣裳武家をまなぶ、余りさわぎはならず、但し此所山猫と云〔名所鑑〕赤城、昔1分の重忠の城跡なり〔江戸順礼〕酒で紅葉何れ赤城の色競。〔遊里花〕ほんに しほらしく見える女郎花。

等覚寺 とうかくじ。

等覚寺。礫川牛込小日向絵図。万延元年(1860)

婦美車。安永3年

別当寺 神社に付属して置かれた寺院。寺の最高管理者が別当、別当に補任された僧侶が神社に住み込み、運営指導に当たっていた寺を別当寺という。明治元年(1868)の神仏分離で廃棄。ここでは上図の中央と下図の右奥が別当寺。
婦美車 ふみぐるま。「婦美車紫鹿子」。正確には「鹿子」ではなく鄜の阝を子に変えて1語として書く。刊行は安永3年(1774)。作者は浮世偏歴齋道郎苦先生。
上品下生 「上品な人」「下品な人」と同じように、浄土教ではじょうぼんちゅうぼんぼんと呼び、さらにそれぞれをじょうしょうちゅうしょうしょうに分けます。つまり、極楽浄土に導くために「上品下生」は「上の下」(9番目のうち3番目)の階級です。
昼夜四ツ切 昼と夜それぞれを4分割して、きりあたりいくらと計算する。
チョンノマ 短時間での性行為を提供する時間。多くは20〜30分。

風儀 ふうぎ。風習。しきたり。ならわし。行儀作法。態度。風紀。
回向院 えこういん。墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院
さわぎ 騒ぐこと。騒がしいこと。ごたごた。騒動。大変な。めんどうな。酒席などで、にぎやかにたわむれる。
山ネコ 芸がまずく、淫を売る芸者。初めは寺の僧を相手としたが、後には寺の境内にいた一般人も客にした。
花知留作登 弘化4年。高柴英著。本の正確な読み方は不明。花知留作登の本文は「牛込赤城 此地本所回向院前に有りしと同じく、髪の結よふ衣裳は武家をまなび、さはがしき事はならぬゆへ、處を山猫と云ならし、夜昼四ツに切一切金一分、十匁」
岡場所考 石塚ほうかい編。安永4年(1775)。書写年は不明。豊芥子は江戸神田の粉屋に生まれ、珍書・古書を収集し、戦記、地誌、芝居、風俗に関する蔵書家として有名。蔵書を通じて山東京伝、柳亭種彦、河竹黙阿弥ら文人たちと交流をもった。
今はなし 「岡場所考」では「四ッ谷、ぢく谷、市ヶ谷」などは書いてありますが、しかし赤城神社で岡場所は全く触れていません。
甚好記 じんこうき。春画の小冊子。巻尾に江戸遊所40ヶ所の地名をあげる。安永年間(1772〜1781年)の印刷らしい。
十匁 揚代が銀10匁だったところから、上等な遊女
安永 1772年から1781年まで
寛政 1789年から1801年まで。寛政の改革(1789年~1804年)では老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗。
赤城門前町 上図(礫川牛込小日向絵図)を参照。

 次は「行元寺」の話が入り、その後は「耳袋」の話です。

「根岸守信(江戸町奉行)耳袋」に、
  〇外科不具を治せし事
予が許へ来りし外科に阿部春沢といへる 此者放蕩にして本郷二丁目住居後出奔せし由 或時噺しけるは、此程不思議の療治いらして手柄せり、牛込赤城明神境内に隠し売女あり 世に山ネコト云 彼もとより頼み越せしゆえ、其病人を蕁ねしに年比十五六歳の妓女なり、容姿美にして煩わしき気色なし、其愁ふる所を向しに、右主人答て此者近比かゝへぬるに、婬道なき庁輪故、千金を空しくせしよし、右容躰を見るに、前陰小便道有て淫道なき故、得と其様子を考へしに内そなわりしも非ス、全血皮の所なれば其日は帰りて、翌日に至り一ト間なる所に至り、彼女の足手をゆわへ、焼酎をわかし、且独参湯を貯へて前陰を切破りしが気絶せし故、独参湯をあたえ、せうちう〔焼酎〕にて洗ひ、膏薬を打しが、此程は大方快く、程なく勤めもなりぬべし、親方甚だ悦びぬと語りぬ。
妓女 ぎじょ。芸妓。げいぎ
婬道 いんどう。女性生殖器のちつの異称。
庁輪 かたわ。片端。片輪。身体の一部に欠損がある人。
独参湯 漢方で、人参の一種を煎じてつくる気付け薬。

 永井義雄氏の「図説 大江戸性風俗事典」(朝日新聞、2017年)ではまるで小説のようにこの情景を細かく書いています。

 あるとき、外科医の阿部あべしゅんたくが赤城の女郎屋に往診を依頼された。
てやってください」
 楼主が示したのは十五、六歳の遊女である。なかなかの美貌で、顔色もよく、とても病気には見えない。
「じつは、大金を払って最近抱えたのですが、陰道のない女だったので、大損をしてしまいました」
「陰道がないですと。まさか。ちと、診てみましょう」
 春沢は女の陰部を診察した。
 たしかに尿道口はあるが、膣はふさがっている。
「うーん、いま、ここではどうすることもできません。明日、準備をして、まいります」
 いったん、春沢は引きあげた。
 翌日、春沢は気付薬の独参湯どくじんとう、消毒用の焼酎しょうちゅう、手術用の小刀を用意して赤城に出向いた。
 独参湯をせんじ、焼酎を温める。女の手足をしばって股を広げさせ、陰唇を開いておいて、小刀で陰門を切開した。
 その痛みに、女は失神してしまった。焼酎で傷口を消毒しておいて、青薬を貼った。独参湯を飲ませると、女は意識を回復した。
 しばらくして傷はえ、女は客を取れるようになった。楼主は大喜びだった。

 著者のぎし鎮衛やすもりは寛政10年(1798)から文化12年(1815)まで南町奉行の任にあり、外科医の阿部春沢とは親交があった。春沢から直接聞いた体験談を書き留めたのである。内容は正確であろう。
 女は処女膜きょうじんしょうではなかったろうか。処女膜が分厚くて、普通には性交できない状態である。メスで切開手術をすることで治るという。春沢の処置も基本的には同じだった。
 それにしても痛ましい話である。症状が治った途端、けっきょくは売春を強要されたことになろう。女郎屋にとって女は商品だった。

 最後は「蜀山人」の話です。

〇蜀山先生云、
 此頃赤城明神地内に山猫の茶屋ありて、此處の倡妓の方言に、ばかの事を十九日と隠話にいへり、ぞろの字、十九日に似たればなり。此方言の初りは宝暦明和の初めの比、江戸中を売ありく針金うりあり、商ひ場所を日をきわめてうりありく、毎月十九日に者牛込より赤城近辺に来る故、右の隠語とはなりぬ、其うり声、
 〽 はりかね/\はりかねの安うり二尺一文針がね/\

倡妓 しょうぎ。歌や舞で、宴席に興を添える女。売春婦。 「倡」とは歌舞や演奏を生業なりわいとする人。

 これは「大田南畝全集第10巻 随筆」(岩波書店、昭和61年)のうち「奴凧」ですが、かなり違っています。「大田南畝全集第10巻」465頁は次の通り。

明和のはじめまで、針がね/\、二尺壱文針がねとよびて、江戸中を売ありく老父あり。予が若き時、牛込に居りしに、此辺へは毎月十九日に来りし也。風説には、此老父隠密を聞出す役にて、江戸中を一日づゝめぐるといへり。
◯馬鹿ものゝ事を十九日とよびしは、牛込赤城の縁日十九日也。其頃赤城に山猫といふ倡婦ユフジョありしが、此所にていひ出せし隠名といへり。ばかと書て十九日といふ字体にちかきゆゑともいへり。
明和 1764年から1772年まで
倡婦 しょうふ。娼婦。売春婦。

蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚とうかくと号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。
東覚寺 神仏分離で廃寺。当時、神職はなく、別当坊だけが神務を執行中だった。
重泰  牛込村へ移住して牛込姓に改めたのは宮内少輔重行(江戸氏牛込氏文書)か、重行の子勝行(寛政重修諸家譜)の時で、家系では重泰の名前はない。

赤城神社

赤城神社

[現代語訳]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。先に話した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。(始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる)

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。
新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

 赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 「新撰東京名所図会」64冊(山下重民他編、明治29年9月~42年3月、「風俗画報」臨時増刊、東陽堂)
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。

神楽坂の由来は?

文学と神楽坂

 この神楽(かぐら)坂の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡御旅所(おたびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談)

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、神輿(みこし)は牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. 軽子(かるこ)坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神揚場坂(あげばさか)で御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatiman ここで御旅所(おたびしょ)とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789寛政1789年
1818文政文政1818年

 ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、しかし、(単数か複数の)誰が「祭礼のときは神楽を行っていた」のかはわかりません。まあ、仕方ないのですが。