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芸術座発祥の清風亭跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 48.芸術座発祥の清風亭跡」では……

芸術座発祥の清風亭跡
      (文京区水道町27
 千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(28参照)ものである。
 ここは、島村抱月芸術座の発祥地である。大正2年の秋、恩師坪内逍遥文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志7, 80名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(27参照)。
 〔参考〕大東京繁昌記山手篇 随筆松井須磨子 早稲田の下宿屋
文京区水道町27 文京区水道町に清風亭があったと書いていますが、正しくは新宿区西五軒町でした。
千代田商会 西五軒町12番10号にあり、現在は事務所「ESCALIER神楽坂」(地上5階)です。下図の「小石川橋」の名前は変更し、現在は「西江戸川橋」です。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社()と清風亭() 東京市及接続郡部地籍地図

貸し席 貸座敷。料金を取って貸す座敷。
文芸協会 明治39年(1906)、坪内逍遥・島村抱月を中心に、文化団体。同42年に演劇団体として改組、新劇運動の母体となった。大正2年(1913)解散。

 では、川村花菱氏の「随筆・松井須磨子:芸術座盛衰記」(青蛙房、1968)を見てみます。

 私が(島村抱月)先生の仕事をお手伝いすることになってから、着着と実際方面に進んで行った。第一に、先生を擁護する早稲田の若い人々の会合が先生を中心にして催された。場所は江戸川の清風亭で、6, 70の人々が集まったが、私はその時はじめて、中村吉蔵氏がこのたびの仕事に先生の片腕として居られたことを知ったのだ。そのときは、集まる人々には、橋本の親子丼が出たが、その数はたしか5, 60人前だと覚えている。橋本というのは、江戸川橋の袂のうなぎ屋で、幕末から明治のはじめには、川添いの所に、さし出した座敷ができていて、その下にいけがあったと老人が話してくれたが、山の手では評判のうなぎ屋で、その頃は、護岸工事の結果、川岸に添って道が出来て、橋本は道の反対のあたりのところに二階建ての店を出していた。
 その会合は、きわめて活気のあるもので、いずれも新劇団に対する遠大な理想や抱負を堂々とのべられたが、あいかわらず先生は黙々と人の意見を聴いていた。
 ——こうあってほしい。
 ——そうでなければならない。
 その議論はそれぞれに理屈はあったが、あるものはあまりにも理想にすぎ、あるものはあまりにも誇大的、妄想であったりした。だいたいの意見が出そろうと、先生は、静かに自分の考えを述べられ、一同の強大な援助を希望されると同時に、いろいろの具体的計画を話された。しかし、その席では、新劇団に参加する俳優のことは言われなかったし、脚本のことも言われなかったが、いわば、その会合は、劇団のブレイン・トラストを作るというのにあったらしく、新らしく生まれ出る劇団の幹事を選出することになり、その方法は先生が5, 60——すなわちそこに集まった人々を劇団の評議員に指名し、その中から20数人の幹事が選ばれることになって、前に言った、相馬御風片上天絃中村星湖吉江孤雁楠山正雄秋田雨雀人見東明本間久雄安成貞雄等々の人々が幹事に選ばれ、中村吉蔵氏・水谷竹紫氏は当然この一員であり、も幹事の一人になった。
橋本 天保6年(1835)に創業した鰻屋。

はし本 Google

ブレイン・トラスト brain trust。〔通例非公式な〕政府顧問団。専門解答グループ。元々は米国ルーズベルト大統領がニューディール政策を行い、政策の立案・遂行にあたった顧問団の通称。
楠山正雄 児童文学者、演劇評論家。早大英文科卒。早稲田文学社を経て冨山房に入社,戯曲の翻訳や創作、演劇評論、児童文学の翻訳、創作にも活躍。母校で西洋演劇史や近代劇を講じた。生年は明治17年11月4日、没年は昭和25年11月26日。66歳。
人見東明 詩人、教育者。早大英文科卒。自然主義風文語詩から口語自由詩にかわり、明治44年、詩集「夜の舞踏」を出版。大正9年、日本女子高等学院(現昭和女子大)を設立し、理事長。生年は明治16年1月16日。没年は昭和49年2月4日。
本間久雄 評論家、英文学者、国文学者。早大英文科卒。1918年「早稲田文学」編集主任となり「明治文学研究」7冊を編集。英国留学を経て昭和6年(1931年)早大教授。
安成貞雄 評論家。早大英文科卒。平民社に出入りし、犀利な批評家、翻訳家で、旺盛な読書力と優れた英語力があったが、脳溢血のため39歳没。生年は明治18年4月2日。没年は大正13年7月23日

居酒屋の作家|山本容郎

文学と神楽坂

『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎ようろう氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。

 私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。
「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」
 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。
 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町交番まで来た。
 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。
「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。
 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。
曙橋 あけぼのばし。新宿区住吉町。立体交差の道路橋の名前
大通り 正しくは外苑東通り
夜ふけと梅の花 大酒飲みの男は、消防団4、5人から袋叩きにあい、主人公に出会う。主人公はなだめながら、交友関係ができないうちに、男から5円を受け取る。5、6月後、主人公も酔客になり、同様な事を行う。
且つ かつ。二つの行為や事柄が並行して行うこと
くったく 屈託。ある一つのことばかりが気にかかってその他が手につかない。くよくよすること。
機縁 きえん。きっかけ。縁。
早稲田通り 千代田区九段北の靖国通りの田安門交差点から、神楽坂通りを通り抜け、外苑東通りの交点から杉並区上井草の青梅街道の井草八幡前交差点までの延長15kmの東西方向の道路
神楽坂の虎 夜の神楽坂を通ると、虎が五六匹でてくる。うち一匹が後をつけてくる。「夢語り」手法を境地に高めたもの。
揶揄 やゆ。からかう。なぶる。嘲弄ちょうろうする

 私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「しょうが見える。
 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。
 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。
 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。
 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。

 日が暮れた、淡い銀と紫――
 蒸し暑い六月の空
 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。

 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。
交差点 昔は(昭和55年など)「神楽坂交差点」でした。今は(昭和59年など)「神楽坂上交差点」です。この本が出版された昭和57年11月はどちらを使ったのは、不明です。
筑土八幡 北東方向です。
菊鮨、第三玉の湯、そして「たこ庄」 3軒全ては白銀町にあります。地図を参照

1980年。住宅地図。

昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。