文学と神楽坂
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31から35までは、昭和34年に神楽坂1丁目を撮ったもので、芸者さんも出てきます。ID 31は2560 x 1938ピクセルで、ID 32から34までは約1420 x 1100ピクセル、ID 35では1907 x 1316ピクセルでした。つまりID 31だけが特に巨大なピクセルでした。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 32
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 33
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 34
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 35
この芸者衆が、なぜか淑やかにゆっくり歩いてくるし、ライトが照らす方向と芸者衆が行く方向は同じ。一般の人はなぜか芸者衆を見てびっくりしている。普通の行動ではないと思っているようで、なかにはこのカメラをまじまじと見ている者たちもいる。「待合の少ない坂下に芸者衆がたくさんいるのも不自然です」と地元の人。やらせですね、多分。 なお、ID 31だけは説明があります。
写真解説 : 神楽坂の逆転式一方通行の導入前で、右手に坂を登る一方通行(ONE WAY)の標識が見える。また、左手の歩道をよく見ると、四角い石を敷き詰めていることが分かる。
年代 : 昭和(戦後) / 昭和34年
残念ながらこの新宿歴史博物館の説明は違っています。この時、逆転式一方通行はもう実行中でした。詳しくは逆転式一方通行・再考(写真) を。左には「午前」「一方通行出口」(つまり坂上⇒坂下)、右には「午後」「一方通行」(坂下⇒坂上)と書いてあります。自動車は、午前には坂上から坂下に、午後は坂下から坂上に、通行するように決まってていたのです。
左の標識
右の標識
新宿歴史博物館の「左手の歩道をよく見ると、四角い石を敷き詰めていることが分かる」について、石だとはわかりませんが、ここがそうでしょう。
「神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目
信号機(ゼブラ柄の背面板)
パチンコ ニューバリー。
田原屋
電柱看板で「質 倉庫完備 大久保 」
清水衣裳店
翁庵 の生そば。 は「楚」のくずしかな、 は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
甘味 桜井。
小栗横丁 に行く小道。
「花 田口屋」。ここから2丁目
電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店 にあった(下図)。
志満金
「印章・ゴム印」で「津田印店」
(白十字医院)
山田紙店 。現在は土産店「のレン」
(神楽堂パン)
おしるこ(紀の善 )
小柳ダンス⇒神楽小路
ここから2丁目。1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。
メトロ映画
トリスバー
志乃多寿し
(山一薬品)
パチンコマリー
川島歯科 人文社「日本分県地図地名総覧」東京都。1962年。
“”
1丁目
2丁目