平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(展望社、2006年)の「神楽坂三十年代地図」です。この本は平綴じのため、これ以上頁を開くことはできませんでした。まあ、これで十分読めます。
本文の左下に「昭和35年度 神楽坂周辺詳細図より」と書いてあります。残念ながら、この「詳細図」は「国立国会図書館」でも「新宿区立図書館」でもありませんでした。
2つに分けると、解像度が上がり、もう少しきれいな図になります。
神楽坂通りの逆転式一方通行はいつ始まったのでしょうか。まず逆転式一方通行についてですが、『神楽坂 まちの手帖』第7号(2005年1~3月)を読むと
角栄伝説は生きている!
出田竜祐
明治大学政治経済学部経済学科4年 神楽坂通りには伝説が生きている。 |
ウィキメディアでは
実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生、これが元で規制が行われたものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年(昭和31年)に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年(昭和33年)に現在の逆転式一方通行になった。
◆東京新聞 2012年6月6日朝刊最終面
東京トリビア「時間帯で一方通行が逆転 神楽坂に角栄伝説」 |
朝日新聞では逆転式になったのは1961年5月になっています。(朝日新聞、2016年11月3日朝刊)。
2007年、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、
このころの神楽坂通りは対向通行であり、車道を狭くするため歩道がつくれなかった。いまのように安心して歩道を歩ける状況ではなかった。昭和38年(1963年)ごろ、町では一方通行と歩道をつくる運動を始めている、安心して買い物のできる歩道づくりのために、神楽坂通り商店会による新宿区役所や本庁交通二課への陳情をおこなった。市会議員の中村俊二の尽力で、歩道工事着工が決まった。通りの側溝の上にあった段差のある御影石を取り除き、歩きやすい歩道かできあがったのである。昭和二年から石に滑り止めの筋を入れて舗装に使われていた御影石は、側溝のふたに使われた。 そんなおりに、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きたのである。その結果下りは危険だということで、車は上りの一方通行になった。それからの飯田橋の五差路や大久保通りが渋滞するのは、神楽坂が一方通行にしたためであると大手新聞社の投書欄に大きく掲載された。このように狭い道路での渋滞は深刻さを増し、交通公害も問題になりはじめて、道路にもそれぞれの規制をもうけるようになった。 神楽坂通りは、午前は坂を下り、正午から一時間のランチタイムは歩行者天国。そして午後は坂を上る。これは逆転一方通行という全国でもまれな通りになった。また日曜、祭日は、正午から午後八時まで歩行者天国となった。だが、この決定は通り商店会や町会になんの相談もなく警察署から通達されただけだという。これは陶柿園への突入事故が上下通りの入れ替えのきっかけとなり、渋滞解消も合わせた妙案として検討されて決定された事項ではないだろうか。 この方式は、昭和54年(1979)4月1日より、九段から神楽坂通りを経て、神楽坂駅矢来出囗の矢来町126番地まで延長され現在にいたる。これが決まったのは、神楽坂をこよなく愛した故田中角栄元首相の影響力ではないかと噂されていた。この件でテレビ番組の取材も神楽坂商店街の数軒にあった。日白にある田中邸から毎朝、神楽坂通りをぬけ永田町へ行くのが最短で大変都合が良い。また永田町からの帰りに上りの一方通行になればなお結構であると、角栄元首相の鶴の一声で決定されたのではないかというのである。 このまことしやかな話が一人歩きするのも、当時の角栄の実力を象徴していて説得力がありそうにみえる。だが、この方式がスタートした昭和五十四年は、当時角栄はロッキード事件の渦中にあったし、また渋滞の苦情は新聞投書で大きく報じられ、ただちに午前と午後の逆転通行に決定されている。とても角栄先生におうかがいをたてるような状況下でも案件でもなかったのである。全国でもめずらしいこの一方通行は、午前中は、都心に向かう通勤車両が多いので九段方向への一方通行となり、午後は、とうぜん逆転となったことか理由のようである。 |
車の突入事故 昭和31年に起こりました。
また2011年、市ケ谷経済新聞では
「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。2011年02月12日) |
ウィキメディアによれば、昭和31年(1956年)に一方通行、1958年に現在の逆転式一方通行になり、朝日新聞では逆転式は1961年5月になっています。一方、渡辺功一氏は昭和54年(1979)4月1日に、広範囲の逆転式が始まったと書かれていますが、一方通行や狭い逆転式一方通行はいつ起こったか、時期は全く触れてはいません。また、K氏によれば「逆転式の導入は昭和35年(1960)から1962年の間、遅くとも昭和42年(1967年)までと推測できます」(下の投稿欄)といっています。
▲ 逆転式一方通行の延長
▲ 逆転式一方通行・再考(写真)
通行 | 時期 | ウィキメディア =東京新聞 | 朝日新聞 | 渡辺功一氏 |
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歩道(2色、高い縁石) | 昭和29年 | |||
対面通行 | 昭和31年以前 | |||
陶器店での交通事故 | 昭和31年。他にも事故が多発 | |||
一方通行 | 昭和31年 | 不明 | 不明 | |
逆転式一方通行を発令 | 昭和33年 | 昭和36年 昭和36年5月 | 不明 | |
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中 | 昭和34年頃(ID 7002、ID 31)、昭和35年頃(ID 5510) | |||
逆転式一方通行(牛込橋) | 昭和37年から42年までに実施中 | |||
歩行者天国の発令(神楽坂通り) | 昭和45年11月15日 |
|||
歩行者天国の実施中 | 昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482) | |||
逆転式一方通行の範囲拡大 | 不明 | 昭和54年 |
古くは昭和45(1970)年の新宿区教育委員会編『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」では「震災直後 飯田橋病院の敷地に、三越マーケットができた。(日本橋の本店は改修中であった)」としています。
『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は関東大震災直後の「三越」を現在の大久保通りにあるとしています。図は…
さらに『まちの想い出をたどって 第1集』(NPO法人 粋なまちづくり倶楽部、神楽坂アーカイブズチーム、2007年)の水野正雄氏の「神楽坂を語る」によれば、「場所は現消防署のあたり、当時はガス会社の出張所だった。日本橋の復興後すぐに引き払ったようだ」と書いています。
また新宿歴史博物館編の「新宿風景―明治・大正・昭和の記憶」(2009年)では写真が出ています。
現在の牛込消防署を右から見ると…。ここに三越牛込マーケットがはいっていたのですね。
地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店でしたが、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。
わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。
決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。
この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。