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タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

サムイ島

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サムイ島(ナトン)、タイ
 長い砂浜、壮観なサンゴ礁、そよぐヤシの木の楽園であるサムイ島は、タイでプーケットに次ぐ2番目に大きな島です。島の名前は「安全な避難所」というマレー語に由来するという話もあります。確かに、穏やかで牧歌的な安息の地はこれ以外にまずありません。実際にタイなどの地域から太陽を愛しビーチは大好きな人は、打ち寄せる潮で歩いたり、泳いだり、くつろいだりしています。1970年代初頭まで、この自給自足の共同体には道路がありませんでした。島を横断するには、9マイルの山岳ジャングルを1日かけて歩くだけしかありませんでした。今日、サムイ島は単純な時代のゆっくりしたペースを保っています。小さなボートが青緑色の海にそっと揺れながら、古いシャムの漁業の村々で大切な伝統も保たれています。

 5時35分、起床。6時10分、運動と朝食。すでに船はサムイ島の西方近くに来ていた。

 7時、サムイ島に到着。島には7時15分から順次連絡船に。私達はグループ8なので、9時15分に行く予定。実際でも15分でした。

 9時50分、入島。

 10時30分、ビーチに。

 

 ここはトイレはなく、何か買わないと座われないし、ビーチチェアももらえない。11時15分、ビーチを出る。

 島で連絡船を待っていて……

 55分、連絡船に入り、島を出たのは12時15分。

 船に帰ったのは12時40分でした。
 1時、昼食はPool grillで。35分まで。写真は撮り忘れました。ものすごく大きくてうまいハンバーガーでした。
 4時20分〜5時55分、Language Lessons(IMDbでは7.1/10)。男性はヒスパニック語を習おうと思ってインターネットで女性を雇う。
 5時、サムイ島を出発。6時5分〜7時、夕食。A Taste of Thailandをやっていました。

 7時10分〜45分、コーヒーを1階で。