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路面電車(写真)飯田橋駅 第15系統 昭和6年 昭和31年 昭和43年

文学と神楽坂

 都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)

飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。
 大正3年、市電に系統番号が採用され、電車の側面に大きく取り付けられるようになり、三田は1番、時計回りに8番まで番号をつけていました
 写真は昭和3年(1928年)に開業したばかりの中央線飯田橋駅のホームから目白通り方向を撮影しました。手前の幅の広い橋が「飯田橋」で、右に通じるのが「船河原橋」です。
 船河原橋は欄干の四隅が高い柱になっていて、その上に丸い大きな擬宝珠が乗っています。
 ここから写真奥に向けてが江戸川と呼ばれ、上流の「隆慶橋」が見えています。おそらく国鉄飯田橋駅のホームから写真を撮ったのでしょう。
 なお戦後、江戸川の名称はなくなり、神田川に統一しました。小石川区は文京区、牛込区は新宿区、麹町区は千代田区になりました。また、戦後の名称ではありますが、前後の通りは「目白通り」、左右の通りは「外堀通り」で、左奥にある「大久保通り」は見えません。
 では写真を左側から見ていきます。

  1. 小さな建物の一部。自働電話(公衆電話)でしょう。交番は船河原橋に派出所があり、不自然です。
  2. 外濠の水面は見えませんが、対岸に石垣と手すり。江戸期のものではなく、昭和4年(1929年)の飯田橋の掛け替え時に整備したものでしょう。
  3. 掲示板(裏から)。
  4. 電柱と電柱広告「耳鼻咽喉科」
  5. 交差点の向こうに店舗。看板が読めるのは「エ[ビス]ビール」と「春日堂」。
  6. 早稲田方向に向かう電車は停車中で、電停に乗降客多数。13系統は交差点を横断中。
  7. 降雪後らしく、路面は白く、車道は黒くなっている。
  8. 右前に電柱広告「魚喜」? 電柱の上にあるのは擬宝珠でしょうか。

(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景
低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。
◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生

 東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
 写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
 停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
 街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。

  1. 交差点の向こうに商店街。看板は「つるや」が縦横2つと読めない「▢口▢▢▢▢」。
  2. 飯田橋のたもとに「光」
  3. 13系統(茅場町行)は「15」と「612」

(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
 ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
 歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
 歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。

昭和44年 住宅地図

 店舗は左から……

  1. 東海銀行(時計と東海銀行、東[海]銀行、[T]OKAI BANK)
  2. 電柱看板「多加良」(旅館)
  3. [三平]酒造 商金
  4. パーマレディー。LADY
  5. サロンパス。[か]っぱ家
  6. 「銀行」
  7. [ミカワ薬品] アリナミン

(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥)
五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。

 店舗などは左から……

  1. きんし正宗◯
  2. [ご]らくえん
  3. 日本精[鉱]
  4. 三割安い
  5. (速度制限解除)(転回禁止)(駐車禁止)
  6. 電柱看板「飯田橋」「飯田橋」「多聞」
  7. (歩行者横断禁止)
  8. 電柱と(指定方向外進行禁止)
  9. 「科学と美味」
  10. 「話し方」「ス」
  11. 東海銀行(時計、東海銀行、TOKAI BANK)
  12. ゼブラ柄の交通信号機、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、警察官
  13. 電柱広告「フクヤ」

(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO

自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日)

路面電車がみつめた50年前のTOKYO  諸河久
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html
 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
 本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。

 標識などは左から……

  1. (指定方向外進行禁止)8-20
  2. (帝都高速度交通営団)
  3. ガード下に「最高速度」
  4. (転回禁止)
  5. 「飯田橋駅」
  6. 奥の千代田区のビルに「ジ◯ース味」「林◯會◯」
  7. 右隅に「飯田橋」2枚

路面電車(写真)飯田橋駅 第3系統 昭和27年 昭和40年 昭和42年

文学と神楽坂

 路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。

(1)昭和27年

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。

 この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
 円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
 このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。

地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
 700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
 右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。

神戸市電の700形 都電の700形はありませんでした。

(2)昭和40年

諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影)
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み
 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。
 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。

 これは右から見ていきます。

  1. クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
  2. 消火栓 セントラルホテル
  3. 電柱広告「外科」
  4. 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
  5. ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
  6. (松本)自動車株式会社
  7. 遠くの垣根の上に「升本総本店」
  8. 銀嶺会館(5階建て)

住宅地図。1962年。

【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。

当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

(3)昭和42年

三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)

飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎

中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

 東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。

  1. 道路標識(指定方向外進行禁止)
  2. 小学館の百科(事典)
  3. 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
  4. 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
  5. 東海銀行
  6. 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
  7. パーマレヂィー
  8. 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
  9. 稲葉工業(建築中のビル)
  10. 田中土建(建築中のビル)
  11. ゼブラ柄の信号機

下宮比町(写真)消防訓練 昭和41年頃 ID 12317-18

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12318 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

 正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
 また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
 道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。

住宅地図 昭和42年

 中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
 ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
 ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅きざくらとカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
 1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
 はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
 目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
 停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
 空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。