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神楽坂5丁目(写真)昭和37-39年頃 ID 20/12910, ID 22/12908, ID 12909

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 20とID 12910、ID 22とID 12908、ID 12909を見ていきましょう。撮影の方向は、神楽坂5丁目から3-4丁目の方を向いています。降雨でも、半袖の女性もいます。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありませんが、一方、ID 22やID 12908の歩道は痛んで、ぼろぼろです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 20 神楽坂上から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 12910

新宿歴史博物館 ID 22 神楽坂入口から坂上方向。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12908 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12909 神楽坂

神楽坂5丁目→3、4丁目(昭和37-39年頃)
  1. 手焼きせんべい(福屋)
  2. (間に3軒 福田屋文具/あわや洋品/テーラー島田)
  3. 富士フイルム(尾沢写真材料)
  4. 尾澤薬局
    ——————–以上は4丁目
  5. (サンエス洋裁店)
  6. 東莫会館(パチンコ)
  7. (牛込水産)
  8. かやの木
  9. (後の日本勧業信用組合)
    ※建て替え後、開店は昭和40年5月。
  10. 相馬屋
  11. 大関 万長 (酒店と倉庫)
  12. 寺内横丁へ
  13. 牛豚肉 恵比寿亭
  14. 来々軒
  15. 洋品 タカミ
  16. Toshiba ステレオは東芝 ビクター ステレオレコード(リード商会
  17. 大和田(うなぎ)
  1. 三菱銀行
  2. 看板「キンシ正宗」
  3. 電柱看板「加藤産婦人科
  4. 電柱看板「質 丸越」「松〇産婦人科」
  5. 麻雀
  6. 三(笠屋 家具)洋装呉服
  7. 美濃屋 足袋)
  8. 伊勢屋 乾物)
  9. 電柱看板「質は〇値の丸越」「質 買入 丸越」
  10. 街灯「神楽坂」

 なお、ID 20とID 12910はほぼ同じで、 「新宿区の民俗 (5) 牛込地区篇」(新宿歴史博物館、平成13年)54頁では「昭和30年前後の神楽坂5丁目付近」という見出しが付いています。街灯から見ると、実際は「昭和36(1961)年前後の神楽坂5丁目付近」でしょう。またID 22は寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第2集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2008年)で「昭和35年頃の神楽坂5丁目付近」となっています。ちなみに昭和40年後半に出てくる「美観街」の大きな標識ポールはありません。
 ID3とよく似ています。1963年(昭和38年)、住宅地図では「洋菓子ハマムラ」でしたが、1964年からは「かやの木」に変わりました。また、日本勧業信用組合の建設前には取り壊し期間が必要でしょう。したがって、写真の時期は昭和38~39年(37年も可能)と推定できます。

八百文とキッコ|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂5丁目に「八百文」がありました。現在は神楽坂料理飲食業組合ビルになり、キッコ・ジャパン(合鍵と靴の修理の店)などがはいっています。場所はここキッコ

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

相川さん その隣が福田さん。
馬場さん 果物屋だ。
相川さん 「八百ブン」といって、本当は八百屋なんだ。だから、果物やったり八百屋屋やったり。それから苗木。朝顔とか糸瓜の種だとか、そんなのを売っていて。そこのすぐ隣に三尺の路地(注)がありましてね、その路地をずっと入っていくとあたしんところに出られた。(注。現在の料飲組合に入る通路
山下さん やっぱりここに通路があったんですか?
相川さん あったんです。ということはね、ここの果物屋さんのお勝手入るところがないでしよ。伊勢屋さんもないんですよ。この三尺の路地をつたわってこういう風にして、お勝手へきたの。で、こういう風になってね。あたしんところがここだから。
馬場さん 波の板がブリキで貼ってありましたね。私が岩戸町へ抜けるために、あれをボラボラボラとして(ブリキの波を棒で音を立てながら?)通った覚えがあるよ。
相川さん いや、塀でした。
馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」(注)側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。(注。現在の空き店舗、ここに家具店があった)
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より

1952年の5丁目(青線は道路の想像図)

1952年の5丁目(青線は路地の想像図)

 この「現在の料飲組合に入る通路」ですが、2008年頃の図で出ています。神楽坂料理飲食業組合事務所です。

2008年神楽坂5丁目

2008年神楽坂5丁目

 現在、みんな一緒になって五階建ての神楽坂料理飲食業組合ビルになりました。

2016年の5丁目

2016年の5丁目

山せみ|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目に手打ちそば「山せみ」があります。この歴史です。大正時代にはグランド・カフェーから恵比寿亭になります。場所はここ

 上の左図は「古老の記憶による関東大震災前の形」(「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会)です。左側の「すきやき恵比寿亭」は右側の「グランドカフェ-」は同じなので、右側に移動します。上の右図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」からです。

 グランド・カフェーは大正13年に、すき焼きの「恵比寿亭」に変わります。安井笛二著の『大東京うまいもの食べある記』(昭和10年)はこう書いてあります。

えびす亭 入口に下足番(げそくばん)が頑張つてゐるあたり、昔風(むかしふう)の牛鳥料理です

 中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』(1955年、昭和30年)は

すき焼の恵比寿亭は戦争以来肉の小売業、明治四十二年江戸橋に創業、大震災後この地に移ったものである。

 また、古川ロッパの『ロッパの悲食記』(昭和58年)では

 同じ神楽坂に、えびす亭がある。
 ここいらは、早稲田の学生頃に、よく行ったが、学生向きで安直なのが、よかった。

山せみ

 その後、戦後しばらくは恵比寿亭が続きますが、その後、昭和30年代に家具・洋服屋の三笠屋になり、さらに別の店舗になり、2009年、手打ちそばの「山せみ」になりました。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

山下さん 次は恵比寿亭で間囗が三間ぐらいありましたね。
馬場さん これは二階が全部座敷があってね。恵比寿亭ってのは、いまの「三笠屋」(注)さんのところ? (注。現在は手打ちそば「山せみ」)
相川さん そうです。裏玄関が私のうちのところまできていたんです。
馬場さん その恵比寿亭さんってのは何年ごろできたんですか?
相川さん 関東大震災の明くる年にできた。その普請中に関東大麗災がグラグラっときて、もろに横丁の方へ倒れた。
馬場さん じゃあ、恵比寿さんの前が「カフェ・グランド」ってカフェ屋さん?
相川さん そう。その代表の経営者上田という履物屋さん。「カフェ・グランド」には自動ピアノのというのがありましてね、電気ピアノ。盛大でしたよ。それで、関東大震災のときに下を壊して屋根だけ残したものだから、全部片づけて。あそこへ東京の讐備に高崎の十五連隊が来た。

神楽坂5丁目に戻る場合には
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