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牛込氏についての一考察|⑨むすび

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑨「むすび」です。

 関東が家康の領となると、牛込氏は徳川氏の家臣となったというが、牛込落城後いかなる経違で徳川家臣となったかも不明である。徳川氏は、関東の地方武士をそのまま安堵させる方法をとったのであるから、あるいはそのまま牛込城に留まり、前の「牛込城の城下町」の項で述べたように、家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えたというが、この住民引率責任者には牛込氏があたったのではあるまいかとも考えられる。
 牛込氏は、北条氏時代にいかなる活動をしたかは不詳だが、一地方武士が氏綱から重要視されたのは、北条氏の東国経営がまだ不安定だったので、このような武士も味方に入れておかねばならなかったのではあるまいか。
徳川氏の家臣 「寛政重脩諸家譜」では
勝重かつしげ
   彦次郎 三右衛門 号道哲
 北條氏直につかへ、北條家没落の後、天正19年めされて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、のち肥前国名護屋及び関原等の役に従ひたてまつる。元和元年 今の易譜3年7月21日死す。年66。法名宗隆。妻は遠山丹波守某が女。

註:天正19年 1591年。豊臣秀吉が天下統一を完成。
東照宮 徳川家康のこと。
御家人 ごけにん。鎌倉幕府から土地の所有を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命をかけて戦う、いわゆる「御恩と奉公」の契約を結んだ武士
肥前国名護屋 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた肥前国(佐賀県)の城
関原等の役 関ケ原の役。せきがはらのえき。せきがはらのいくさ。「役」は戦争の意味。「天下分け目の戦い」になった。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した。
元和元年 げんな。1615年。3月15日「大坂夏の陣」で豊臣氏は滅亡。

安堵させる 「安堵」は封建時代では、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。
家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりましたが、武蔵国の川崎村というところまで牛込七ヵ村の住民はお迎えに出向いたといいます。
氏綱 北条氏綱。ほうじょううじつな。戦国時代の武将。戦国大名。後北条氏第2代当主。

牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

「牛込氏文書 上」戦国時代

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 上」では16世紀の世界を扱います。細かく言うと1526年から1569年までです。戦国時代で最も戦乱が頻発した時代で、上下の関係ははっきりしてきて、贈答品を送る風習もありました。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、カラー写真は[C]、本文は3つ全部から取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 最初に「牛込氏文書 上」をまとめたものを出します。[C]の「武蔵野ふるさと歴史館」です。

小田原衆所領役帳

[C] 江戸氏の後、牛込郷を領有していたのが牛込氏です。前述のように、牛込氏は大胡氏の庶流である大胡重行が北条氏に招かれて牛込の地に移り住んだといわれていますが、江戸氏と牛込氏との関係をあらわす資料は確認できず、両者の出自、関係性については未だ定説に至っていません。
 江戸氏衰退の後、牛込氏が牛込郷を領有していることがうかがえる資料が①号文書です。北条氏が伊豆・相模国の支配を確実に把握すると、大永4年(1524)には武蔵国江戸城、岩付城、河越城などを攻略し、武蔵国支配に乗り出します。北条氏は家臣団を軍事集団ごとに衆として組織し、牛込氏は戦時には江戸城代の指揮を受ける江戸衆の一員とされました。『小田原衆所領役帳』(永禄2年(1559))によれば、牛込氏の所領は牛込、日比谷本郷、堀切 (葛飾郡)だったようです。
 牛込氏は重行のころに牛込に移り住みしばらくは大胡姓を名乗っていましたが、牛込姓を名乗ることを北条氏康に申請し、その許可を得て天文24年(1555)以降は牛込と称しています。牛込氏文書上巻から、牛込氏は北条氏から普請役や戦時の軍事力としても期待され、また恒常的に贈答品を送ることで良好な関係を築いていたことがうかがえます。


① 北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

[A] 北条氏から牛込助五郎(重行)に宛てた朱印状の写である。牛込氏の初見史料で、比々谷村(現千代田区)の陣夫・小屋夫役を免許されている。
[B] 北条氏綱が牛込助五郎に対し、日比谷村の陣夫と小屋夫の徴用を免除した内容。
[C] 牛込助五郎(重行力)が北条氏に日比谷村から陣夫(戦時中に物資を運ぶために徴用される人夫)役等を徴収することを免許された文書。牛込氏は、大永4年(1524)、北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を攻略した頃に北条氏家臣となったと考えられます。本文書はその後、北条氏が武蔵国支配を進めていくなかで発給した文書です。
陣夫 じんぷ。中世、軍需品の輸送、道橋修理のための労役夫として領内から徴用した人夫。軍夫
免許する ある特定の事を行うのを官公庁が許す。また、法令によって、一般には禁止されている行為を、特定の場合、特定の人だけに許す行政処分

② 北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

[A] 北条氏康が牛込宮内少輔(勝行)に宛てて、牛込を本名に名乗ることを認めた判物である。本文と氏康の花押の墨が同じであり、全文一筆と判断され、写の可能性がある。
[B] 勝行に本名を牛込と号すことを許し、宮内少輔を称することを認めたもの。
[C] 牛込勝行からの願い出により、牛込と名乗ることについて北条氏康が許可をした文書。さらに宮内少輔の官途を遣わされています。この後から史料上で勝行は牛込宮内少輔と称されています。戦国大名は分国支配文書のうち、特に所領給与や安堵、特権付与・承認などの永続的効力を付与するべき文書に自らの花押を据えた判物(直状)を発給しました。

③ 北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

[A] 北条氏康より大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状の写で、「当口之儀」について飛脚が来たこと、「両種」が到来したことへの礼をしている。「当口」「両種」については判然としない。氏康の取ぎは遠山藤九郎(江戸城代遠山綱景嫡子)で、遠山氏からも牛込氏に宛てて書状が出されたことになるが、現存しない。藤九郎が牛込氏の取次ぎを勤めているのは、遠山氏が牛込氏ら江戸衆の指南を勤めていることに起因すると思われる。なお、発給年代は氏康の花押判形より、天文13(1544)年もしくは14(1545)年のものと推定される。
 牛込氏文書のなかには大胡氏宛ての文書があることから、本来「牛込」の呼称は在所名で、本名は「大胡」であったと思われる。この文書によって、天女24(1555)年以降は「牛込」を本名としたことになる。しかし、永禄2(1559)年の奥書を持つ『小田原衆所領役帳』のなかで、江戸衆として牛込・比々谷を領しているのは「牛込」でなく、「大胡」となっている。つまり牛込氏は、その後も公式には「大胡」と認識されていたのである。北条氏の発給文書のなかで、このような内容を持つものは他に類を見ない上、発給する必然性そのものに疑問が残るため、慎重な判断が求められよう。
[B] 氏康は氏綱の子で、天文十年家督した。宛名が大胡であることから、割と早い時期のものである。
[C] 北条氏康が大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状。平五郎からの「当口」「両種」に対して賞したことを伝えています。「当口」や「両種」については明らかではありませんが、文意からおそらく平五郎から氏康への贈り物であると考えられます。発給年は不明ですが、②号文書(天文24年(1555))の後に勝行が牛込氏と名乗るようになったことから、その前に発給されたものと推察されます。また、氏康の文書発給開始年と文中に登場する遠山藤九郎の没年を考慮すると、天文7年~17年(1538~1547)間に発給されたと考えられます。

④ 北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

[A] 北条長綱より大胡平五郎(勝行力)に出された書状の写で、新年の祝儀として鯉を送られたことに対する礼に扇子を三本送ったことを伝えている。鯉は、先述した北条氏政への新年の祝儀に加えて、北条氏綱からも鯉を送られた礼状を受けており、牛込氏の恒例の贈答品ということになろう。本文書は、切封墨引に勢いがあり、本文の筆跡も含めて原本に忠実な写、いわばレプリカと考えられる。
[B] 長綱はその花押から北条幻庵ではない。
[C] 大胡平五郎(牛込勝行力)が北条長網に正月の祝儀として鯉などを送り、その返礼として長綱から扇子3本が送られました。長網(幻庵)は北条早雲の子息で、北条氏網の弟として北条氏当主に長く仕えた人物です。本文書も発給年は不明ですが、③号文書同様に天文24年(1555)以前であると考えられます。

⑤ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

 ここで「鈴三」や「鈴」(リョウ、レイ、リン、すず)の意味は何なのでしょうか。単純に人の名前? でも、矢島氏は「酒」(シュ、シュウ、さけ、さか)と捉えて、武蔵野ふるさと歴史館は「頸」(キョウ、ギョウ、ケイ、くび)と考えているようです。右の文章は武蔵野ふるさと歴史館のもので、「鈴」の右手に〔頸〕が書かれています。

[A] 北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。普請の後に敵の夜襲があり、これに応戦した牛込氏が、安否を気づかう氏綱に酒を送った。その戦功を氏綱が賞している。しかし、どこの普請なのか、誰との戦いなのか判然としない。花押判形から大永5年以降のものである。氏網の署名は北条姓を伴っており、氏綱が伊勢から北条に改姓したのが大永4(1525)年であることを考えると、かなり早い段階のものの可能性がある。なお、宛所の隣に、後に宮内少輔と改めた旨が追記されている。この追筆部は筆跡が共通することから、助五郎が宮内少輔であるという判断は、後の人間、しかも同一人物の解釈といえる。
[B] 北条氏綱は天文十年七月に没している。敵が夜討をかけたと聞いて心配し、よく用心するよう申しつけたもの。
[C] 北条氏網から牛込助五郎(重行力)に対して送られた書状。普請の後に牛込氏が夜襲をうけ、氏網の心配するところでしたが、牛込氏から氏綱に敵の首が届けられ、安心するとともに牛込氏の働きを評価し気遣っています。北条氏と牛込氏の主従関係がうかがえます。

⑥ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年不詳)11月17日[竪切紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 同じく北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。先述したように、鯉を送られたことに対する礼状だが、「猶以御用心儀不可有御油断候」とあることから、前者と同時期に出された可能性がある。両者とも、花押判形から大永5年以降のものである。
[B] 北条氏網書状写 11月17日 牛込助五郎宛
[C] 牛込助五郎(重行力)から北条氏網に送られた鯉に対する礼状。

⑦ 北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

牛込氏文書から

[A] 牛込宮内少輔(勝行)宛の北条家朱印状である。勝行の中間が合戦で戦死した功として、その子に牛込村の棟別銭一貫四百文を下すこと、末々は足立で田地として遣わし、その節は棟別銭を納めるべき旨を伝えている。この文書に据えられた虎朱印は、朱が薄く、印文も一部が辛うじて判読出来る程度である。寸法もやや小さい。文書全体の行間も他の文書とくらべて狭く、バランスが悪い。内容も、この文書群の中で唯一の感状である。本文として扱うことに検討の余地がある。
[B] 去年、牛込勝行の中間が戦死したが、その忠節に対し、その子供に牛込村棟別銭の内一貫四百文を与える。なお将来は、足立郷において田地を与えるから、その時には、棟別銭の方を以前のように納めるようにという内容である。棟別銭は後北条氏の場合、一軒につき百文ないし50文であった。
[C] 永禄5年(1562)の合戦で牛込勝行の中間(従者)が戦死したことを受け、その子に牛込村の棟別銭1貫400文を下す旨を記した文書。年月日の上に北条氏の虎の印判(「禄壽應穏」)が据えられています。

⑧ 北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 牛込宮内少輔(勝行)に宛てた北条家朱印状の写で、近年江戸衆の中村次郎右衛門尉(宗晴)に与えていた比々谷の陣夫役6貫文を牛込氏に免許している。この陣夫役は以前重行が北条氏より免除されていたもので(①号文書)、後に陣夫役が賦課され、中村宗晴に下されていたものを、勝行の訴訟の趣旨が認められ再び牛込氏に免許された、ということになる。本書の年代(己巳)は、永禄12(1569)年と推定される。
[B] 日比谷村の陣夫銭を中村氏に付与したところ、郷民から異議が出たので、従来どうりに赦免するという内容。
[C] 日比谷村の陣夫役6貫文について、その徴収権が近年中村右衛門尉に下されていることについて牛込勝行からの詫言を受けて、北条氏から発給された文書。北条氏は勝行の訴えに応じて、日比谷村に対する陣夫役の徴収を改めて勝行に下しました。

大永6年152610月13日北条氏綱は牛込重行(か勝行)による
日比谷村の陣夫・小屋夫を認めた。
大永5年以降?1525以降11月13日北条氏綱は牛込重行を賞し、酒を送った。
あるいは重行は氏綱に敵の首を送った。
大永5年以降?1525以降11月17日牛込重行が鯉を送って、
北条氏綱がその礼状
天文7年~17年?1538~154710月27日牛込勝行力の「当口・両種」が来て、
北条氏康が礼状
天文24年以前?1555以前1月10日牛込勝行力が北条長綱に鯉などを送り、
代わって長綱から扇子3本を送られた。
天文24年15551月6日北条氏康が牛込勝行に
牛込を名乗ることを許可。
永禄6年15638月17日牛込勝行の従者が戦死し、
北条家は従者の子に棟別銭を下した。
永禄12年1569閨5月25日日比谷村に陣夫役の徴収権は
牛込勝行のものと北条家は判断