升本喜兵衛」タグアーカイブ

牛込揚場町|東京名所図会

 牛込揚場町では「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)でこう書いていました。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
牛込揚場町は。東の方神樂河岸に面し。西方は津久戸前町に接し。南は神樂町一二丁目にし。北は下宮比町に鄰せり。地號は一番地より二十番地に至る
     ◎町名の起原幷に沿革
牛込揚場町は。神田川の船寄にして。此河岸より運送し來れる貨物を陸揚するを以て此名あり。明治以前は其の町域僅かに東面の一帶なりしが。明治の初年平岩小之助其の他諸士の邸地を併合して。之を擴張せり。
     ◎景 況
此地の東は河岸通りなれば。茗荷屋丸屋などいへる船宿あり。一番地には。油問屋の小野田。三番地には東京火災保險株式會社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を擬したるものにて。稻荷社なども見ゆ。
大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製

大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製。柏書房。1989年。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
 牛込揚場町の東は神楽河岸に面し、西は津久戸前町に接し、南は神楽町1~2丁目の区画で、北は下宮比町に隣り合う。地番は一番地から20番地まで。
     ◎町名の起原と沿革
 牛込揚場町は、神田川の船を寄せる場所であり、この河岸まで運送されて来た貨物を陸揚する。この町名もこれにちなんでいる。明治以前、この町はわずかに東の一帯だったが、明治の初年に、平岩小之助や他の諸士の邸地を併合して、これを拡張させた。
     ◎景 況
 この地の東は河岸通りなので、茗荷屋や丸屋などいう船宿がある。一番地には油問屋の小野田、三番地には東京火災保険株式会社の支店、四番地には酒問屋の升本喜兵衛、九番地には石けん製造業の安永鉄造、20番地には高陽館という旅人宿がある。このうち、升本家は最も盛大で、その本宅も同町にあり、庭園なども意匠をこらしたものだ。稲荷神社も見える。

 かい。空間を分けた区切り。物事のさかい目。範囲を区切った特定の場所。
地号 地番。土地の区画に付けた番号
 りん。隣の異体字。となり。となりあう。
幷に ならびに。並に。并に。前の事柄と後の事柄とが並列の関係にあることを示す。また。および。
船寄 ふなよせ。船を寄せること。その場所
平岩小之助 新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(2007年)の「江戸・明治・現代重ね地図」の江戸地図(安政3年、1856年)では、揚場町13に平岩七之助が出てきます。これでしょうか。

揚場町。江戸時代。安政3年

江戸時代の揚場町。安政3年。「江戸・明治・現代重ね地図」から。2007年。

景況 けいきょう。経済上の景気の状態。
茗荷屋 歌川広重氏の団扇絵に出ています。
丸屋 同じ地図の「大正元年の揚場町」に出ています。
船宿 江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋。
而して しこうして。そうして。
意匠 美術・工芸・工業製品などで、その形・色・模様・配置などについて加える装飾上の工夫。趣向。デザイン。
稻荷社 稲荷神社。稲荷神を祀る神社。ここでは最上の大正元年の地図で、揚場町12-2にあった神社でしょうか。また昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社製)にもありました。

稲荷神社

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。


神楽坂|紀の善 おいしいけど難点はたかい(閉店)

文学と神楽坂

 ぜんは「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のためでした。あーあ… 閉店は「紀の善の閉店」で。

 新しい店舗は「しんぱち食堂」。前書きに「炭火焼干物定食」。和食ファーストフードチェーンです。別に書くとして、今日は紀の善についてです。

「紀の善」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……

「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業

 口入業とは職業周旋業者のこと。これと違って創業の年は嘉永年間(1848-1854)だとするもあります。

創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前(「食行脚 東京の巻」協文館、大正14年

 大正14年(1925年)から70余年前は嘉永年間(1848-1854)です。しかし、どちらも引用文献はなく、正確にはわかりません。
 冨田冨江氏の「私が生まれ育つたまち」(「ここは牛込、神楽坂」第16号、平成12年)では……

 戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 同じく「紀の善と牡丹屋敷」(「ここは牛込、神楽坂」第17号、平成12年)では……

 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは三十人頼むとか、きょうは雨だから五人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂で代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。
 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました」

 明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。

 宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。

 なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

kinozen

 明治41年1月、北原白秋吉井勇木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」に書いてあります

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

 紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數繋(じゆずつなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの

印絆纒 シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠數繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助やすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では

 昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)