出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(2)です。神楽坂は(2)で終わりです。(1)はここに。
往來の六分強は男である。そして男の七分が早稲田の學生であるけれど その服装に至つては弊衣破帽一見夫と知らるゝもあり、何處の旦那かと買 被らるゝあり、千姿萬態である。左に折れて中坂に洋館の建物がある、こ れぞ元の高等演藝館今は日活直營活動寫眞牛込館となって藁店といつ た昔の面影はない。土曜劇場創作試演會等は此処に生れて所謂劇壇に貢献 豊かであつた。尚、此の近くに藝術座の藝術倶楽部がある。 肴町停留所前の鳥屋の河鐡、とりや独特の「鳥」といふ字に河鐡と崩し た文字の掛行燈を潜ると、暗い細長い石甃があつて直ぐ廊下になつてゐ る。外から見ると春雨の夜の遣瀬なさを土地柄に漏れず絲に言はせる歌姫 もがなと思はれるが、そこは可成堅い家の事とて学生は安心して御自慢の 鳥が喰へるといつてゐる。區役所前の吉熊は今は無慘や、代書所時計店等 に化してゐるが、區外の人々にも頷かれる有名な料理屋で曾ては一代の文 星紅葉山人が盛んに大盡を極めこんだことが彼の日記にも仄見える。此店 の營業中慣例のやうに開かれた早稲田系統の諸會合も今は其株を吉新にと られてしまつた。電車通りを飯田橋の方へ折れて少し行くとそこに矢ばね がある。こゝは学生の根城であるといつてよからう。
赤い旗、青い旗、広告爺、音律をなさぬ楽隊、悪どい色彩の絵看板、そ して悪どい化粧の女案内人、文明館へは入る勇氣がない、さりとて牛込亭 の鹿も栄えず。
弊衣 破れてぼろぼろになった衣服
破帽 破れてぼろぼろになった帽子。身なりに気を使わず、粗野でむさくるしいこと。特に、旧制高校の学生が好んで身につけたバンカラ風な服装
夫 「ふ」と読んで成年に達した男子、一人前のおとこ。
千姿万態 さまざまに異なる姿や形のこと
洋館 西洋風の建物。実際にこの牛込館は洋館でした。
高等演芸館 藁店に江戸期から和良店亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設しました。
藁店 わらだな。藁店は「わら」を扱うお店のこと。すくなくとも1軒が車を引く馬や牛にやる藁を売っていたのでしょう。詳しくはここに
土曜劇場創作試演会 藤沢浅二郎の俳優学校「東京俳優養成所」が開設し、度々創作試演会を行っていました。
近く 私たちの感覚では近くではありません。大きな道、大久保通りの反対側にありましたが、大正時代の感覚では近くだったとも考えられます。牛込館は袋町2に、芸術倶楽部は横寺町9にありました。
芸術倶楽部 ここも二階建の白い洋館でした。詳しくはここを
肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
川鉄 昔の肴町27にありました。現在は神楽坂5丁目です。詳しくはここで
掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣瀬ない。遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀する歌姫」に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手がでてくればいいのにと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。
吉熊 箪笥町三十五番地の区役所前にありました。ここで
代書所 本人に代わって書類や契約書などを作成する所
化す 「くわす」と書いて「かす」。 形状・性質などがかわる
文星 中国では北斗七星の主星「斗魁」を頂く星座[6星]を文昌星と言っています。古来より学問、文学の神として崇拝してきました。
紅葉山人 尾崎紅葉です。「山人」は文人や墨客(書画をよくする人) が雅号に添えて用いる言葉です。
大盡 大尽。 財産を多く持っている者。金持ち。金銭を湯水の如く使つて派手な遊びをする客
仄 ほの。かすかに、わずかに
吉新 おそらく肴町の42番にあったようです。昔は神楽坂から奥に入っていくこともできたのですが、今はできません。「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」から変わって「とんかつさくら」の奥にありました。
電車通り ここでは大久保通りです
矢ばね 場所はわかりません。実は大久保通りについてはほとんど資料はないのです。神楽坂通りについては色々書いてあります。しかし、大久保通りについては遙かに少なく、大正時代についてはまずありません。
根城 活動の根拠とする土地や建物
文明館 映画館です。このころはもう既に神楽坂通りに沿う通寺町11に移っていました。細かくはここを
牛込亭 通寺町八にある寄席でした。細かくはここを。吉田章一氏の『東京落語散歩』(角川文庫)では「大久保通りとの交差点近くに寄席『牛込亭』(神楽坂六ー8)と、『柳水亭』(神楽坂五-13)があった。『牛込亭』は、明治十年頃『岩田亭』で始まり、のち相撲の武蔵川が買って『三柳亭』改め『牛込亭』とした。六代目圓生か大正九年初めての独演会を開いた。昭和になると浪曲が主となり戦災まで続いた」と書いてあります。
鹿 寄席芸人用語で、咄家のこと。「はなしか」を「しか」に略し、鹿の字を当てました。
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