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大逆事件|明治43年

文学と神楽坂

幸徳秋水

 明治43年(1910年)「たいぎゃく事件」が起こりました。明治天皇暗殺を計画したとして、明治43年5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件をきっかけに、明治政府は数百人の社会主義者や無政府主義者を検挙し、明治44年(1911年)1月18日、死刑24人、有期懲役刑2人の刑が決まった思想弾圧事件です。ただし、同日夜、半数は無期懲役に減刑されています。
 明治44年1月24日、幸徳秋水,宮下太吉など11人、1月25日、管野スガ1人が絞首刑になりました。秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と述べています。
 宮下太吉,新村忠雄,古河力作,管野スガの4人が明治天皇暗殺を謀議したと推定できますが、秋水は実行計画には関与せず著作に専念し、他の22人もまったく無関係でした。
 赤旗事件で有罪となり獄中にいた大杉栄堺利彦、山川均、荒畑寒村は連座を免れました。
 それから1か月後、明治44年(1911年)2月のことです。

 なお、この一節は神崎清氏の『大逆事件 幸徳秋水と明治天皇』(あゆみ出版、1976ー77年)の再版で、同氏の「革命伝説 大逆事件」(子供の未来社、2010年)として出版しています。

 運動再建に対する主体的努力は、堺枯川・藤田四郎が共催する各派の合同茶話会となって実現された。明治44年2月21日、牛込の神楽坂倶楽部で第一回の会合をひらき、社会民主党の結党以来の堺枯川・石川三四郎・片山潜・木下尚江をはじめ、片山派の松崎源吉・池田兵右衛門、旧西川派の吉川守圀・半田一郎・愛人社の川田倉吉・添田平吉、堺真柄ら27名が顔をあわせた。会合は顔あわせの程度に終り、格別の話題もなかったらしいが、費用は堺枯川のあずかる『基督抹殺論』の印税のなかから支払われた。
 だが、大逆事件死刑囚の処刑のおこなわれた1月24日を記念して、明治44年3月24日同じ神楽坂倶楽部でひらいた第二回合同茶話会に、堺枯川の意図がハッキリあらわれていた。古河文書にのこる案内状の文面は、つぎのとおりであった。宛元は、古河力作の実父で牛込築地町三福島方古河慎一。消印は、「発送局渋谷・44・3・19・前8-9、配達局牛込44・3・20・前0ー5」。

 忘れがたき廿四日夜、神楽坂倶楽部に於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚。会費10銭。
発起人 堺 利彦 
    藤田四郎

 当日の出席者は、遺族の古河慎一、師岡千代子を中心にして、堺枯川・大杉栄・堀保子・荒畑寒村・岡野辰之助・半田一郎・斎藤兼次郎・吉川守圀・藤田貞治・藤田四郎・松崎源吉・原子基・加藤重太郎・添田平吉・幸内久太郎・笠原伊之助・本間勝作・安成次郎・西川光二郎ら、21名をかぞえた。
 茶話会であるから、決議事項もなく、雜談をかわして散会したようだ…

大逆事件で合同茶話会

「革命伝説 大逆事件」から

神楽坂倶楽部 牛込町誌 第1巻(大正10年)

茶話会 さわかい。お茶とお菓子程度を供し,打ち解けて話し合う集まり。ティーパーティー。

 1960年,事件関係生存者の坂本清馬により東京高裁に事件の再審請求が提出し、しかし、請求は棄却、最高裁への特別抗告も棄却されました。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑤

文学と神楽坂


 第一章で屋号だけ挙げておいた鰻屋の🏠志満金は紀の善の筋向いにあって、五階建てのビルの地階は中華料理店になっているが、戦前には現在地よりすこし坂下に寄った、現状でいえば東京理大のほうへ入っていく道の両角にある花屋のうち、向って右側の花屋の位置にあって、玄関もその横丁の右側にあった。そして、私がまだ学生であった昭和初年代に学友とそこで小集会を催したときには、幹事の裁量で芸者がよばれた。私の記憶にあやまりがなければ、🏠紀の善にも芸者が入ったのではなかったか。絃歌がきこえたようなおぼえがある。
 いずれにしろ、戦前の神楽坂の花柳界は鰻屋やすし屋へ芸者がよべるような、気楽に遊べる一面をもっていた土地であった。むろん、どこの土地でも一流の料亭、芸者となれば話は別だが、駆け出しのころの田村泰次郎十返肇が神楽坂で遊べたのもそのせいである。

忘れがたき24日夜、神楽坂クラブに於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚、会費10銭。発起人・堺利彦、藤田四郎。参会者・堺枯川大杉栄荒畑寒村ら21名神崎清、革命伝説より)。24日とは、明治44年3月24日のこと、この年の1月24日、幸徳秋水らの絞首刑が執行された。

 コーヒー店の🏠パウワウは志満金よりすこし坂上にあるが、荒正人恵与の『神楽坂通りの図』の余白部に横書きで右のように記入されている貸席の神楽坂倶楽部(?)は、パウワウよりさらに坂上の筋向い――とんかつ屋の🏠和加奈に触れたとき、その横丁の右角にあると書いた化粧品店🏠さわや(当時は袋物商の佐和屋)より三軒坂下にあった🏠靴屋と印判屋の浅い路地奥にあった様子である。木造の横羽目に白いペンキを塗った学校の寄宿舎のような建物で、路地の入口にも白地に黒で屋号を記したペンキ塗の看板が横にかけ渡されてあったような記憶が、私にもかすかにのこっている。


花屋 田口屋生花店です。田口屋生花店
芸者が入った 1927(昭和2)年、『大東京繁昌記』のうち加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「花街神楽坂」では「寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった」と書いてあります。
絃歌 げんか。弦歌。琵琶・箏・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌。特に三味線声曲をさす。
路地奥 神楽坂倶楽部は1961年以前に旅館「かぐら苑」に変わり、さらに膨らんで現在は「ラインビルド神楽坂」になりました。また戦前の路地はおそらく「ラインビルド神楽坂」の向かって左側にありました。その後、戦後は一時右側になりますが、現在はこの路地はありません。細かくは神楽坂通り(2丁目北西部)で。

ヴェラハイツ神楽坂

2-3丁目の地図(1985年神楽坂まっぷ)

map志満金 田口 パウワウ 和加奈 さわや 路地 マーサ美容室 ジョンブル 坂
 昭和四十九年四月号の「群像」に私が『神楽坂考』という短文を書くために踏査した時点では、いま和加奈のある横丁の左角にあたる婦人服店の位置には🏠マーサ美容室があった。それほど新旧の交替は激しいが、震災前のたたずまいを復原した『神楽坂通りの図』をみると、その場所には ≪牛込三業会(旧検)≫とあって、≪旧検≫とは牛込三業会に対する神楽坂三業会の意をあらわす≪神検≫すなわち新検番に対する呼称だが、さらにその下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。
石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店――現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店から🏠ジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。


神楽坂考 この随筆は『断崖のはての空』に載っています。林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いを直し、神楽坂を坂下から坂上まで歩くものです。
婦人服店 この場所にはマーサ美容室が昭和27年以前から1990年代まで続いていました。これからも20年もマーサ美容室が続いています。婦人服店はランジェリーシャンテと間違えていたのでしょうか。
実相  舟橋聖一の『真贋の記』(1967年)では
或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だった。東屋は慶応理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の芸術座に出演した頃から、楽屋をたずねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。

ジョンブル ジョンブルは上の地図でも見えますが、白木屋の左端とジョンブルの左端が同じなのか。厳密に言うと違うと思います。

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)とジョンブル

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)

 なお、ジョンブルは相当長くまで生き残っていました。1992年、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出て、右側にはジョンブルの看板です。
神楽坂の写真

mapジョンブル

島田清次郎3|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂


巷間に伝わる噂話

 この聚英閣は、広津和郎氏の名著のほまれ高い処女評論集「作者の感想」や、宇野浩二の処女作集「蔵の中」なども出していたが、主人は海軍主計中佐あがりの禿げ頭のズブのしろうとであった。従って、出版も出たとこ勝負で、あまりもうかっていなかったようだった。そこで、島田清次郎が新潮社からつぎつぎと「地上」の続篇を出して人気の絶頂にあったとき、幾たびか足を運んで、やっと「早春」とかいう感想集の原稿にありつき、当時はそれを徳としていたのである。そんな因縁もあって、たまたまぼく達が聚英閣を訪れたとき、どういう風の吹きまわしか、たぶん聚英閣の細君が快活な気まぐれ屋だったからであろう、清次郎を座敷にあげていたのだ。
「地上」が出たのは、ぼくが早稲田に入った年である。それで、さっそく買って読んだが、当時のぼくにして、なんだか概念的で詰まらなかった。が、杉森氏の前記の長篇に、堺利彦が「地上」の発売と共に「時事新報」紙上に書いた推賞文が紹介されているが、一般の人気もまた、その感銘が堺利彦の指摘しているところと一致していたからだろう。
“著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交りなど、悉く著者の「貧乏」という立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である”
 ところで、島田清次郎の没落は、その線香花火的な早熟性とあいまって、変質者だったことが大きく影響していたように思われる。人気作家さなかの渡米船上での外交官夫人への接吻強要、徳富蘇峰紹介の逗子養神亭における帰朝直後の海軍少将令嬢監禁事件、新聞紙上に大きく叩かれたこれらの事件のほかにも、パリの街娼たちと遊んでは奇怪な振舞いに出、彼女たちから嘲笑を買っていたという話を、当時パリに行っていた岡田三郎だったか、洋画家の林倭衛だったかに聞いた覚えがある。
 また、のちに徳田秋声の「恋愛放浪」という中篇小説集を読むと、その中に、題名を忘れたが、地方新聞に連載したものらしい島田清次郎を取扱った作品があり、共に金沢出身という同郷関係で、秋声が前から何彼と清次郎の面倒を見てやっていたところ、有名になると急に対等的な横柄な口をききだしたことや(これは室生犀星も書いている)、秋声に見せた清次郎自身の書いた家の設計図に、得体の知れぬ密室があったことなどを挙げ、やはり清次郎の変質性を指摘していた。

作者の感想 1920年(大正9年)に書いた広津和郎氏の第一評論集
蔵の中 1919年(大正8年)に出し宇野浩二氏のた処女作集で、「近松秋江論(序に代へて)」、「蔵の中」、「屋根裏の法学士」、「転々」、「長い恋仲」をまとめたもの。
主人 発行者は後藤誠雄です。小田 光雄氏が書いた『日本古書通信』の「古本屋散策(54)。聚英閣と聚芳閣」では「聚英閣の本は三冊持っているが、一冊は勝峯晋風編の『其角全集』で菊判箱入り、千ページをこえる大冊であり、刊行は大正十五年、発行者は後藤誠雄となっている。(中略)(後藤誠雄の)出版物はとても「ズブのしろうと」の企画とは考えられず、優れた編集者が存在したのであろう。それでなければ、国文学、近代文学、社会科学といった多岐にわたる企画はたてられなかっただろう。」と書かれています。私もそうだと思います。
早春 1920年、島田清次郎氏の18歳~20歳の断章や詩をあつめたもの。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として読者の支持を集め、大正の中期まで日本の代表的新聞でした。
早熟性 肉体や精神の発育が普通より早いこと
変質者 異常で病的な性質や性格
渡米 島田清次郎は1922年(大正11年)、新潮社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発しました。
外交官夫人 風野春樹氏が書いた「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2013年)によれば、相手は23歳の森島鷹子氏。夫は森島守人氏で、東京帝国大学を出たエリート外交官。朝日新聞は「渡米文士の失敗」という見出しで、キスを強要し、事務長から譴責をうけたと報じています。
逗子養神亭 徳富蘆花や国木田独歩など、当時の文人が利用した海岸沿いの高級旅館
令嬢監禁事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏は令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
中篇小説集 「恋愛放浪」、「無駄道」、「解嘲」の3篇が入っています。
作品 前の2篇が無関係なので、「解嘲」でしょう。ここで、解嘲の意味は「かいちょう」、または「かいとう」で、人のあざけりに対して弁解することです。
対等的 「解嘲」にはありません。「横柄な口」の例として、室生犀星は、《後に「地上」が出版され、新潮社で会ったが彼は挨拶をしないで傲岸に頭をタテに振るのであった。自分は不用意な気持であり鳥渡(ちょっと)(あき)れたか其後明かに彼とは口を利かなかった》と書いています。
密室 徳田秋声氏の「解嘲」によると「彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像してゐた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。
「こゝへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないやうにしておくんだ。」彼はさう言って少し赤い顔をして微笑してゐた。」と書かれています。

神楽坂|大東京案内(7/7)

文学と神楽坂

一時左傾ものゝ出版で名を現はし、今は破産した南宋書院肴町通りにある。そこが最高点当選で市議堺利彦を出した選挙事務所だったかと思へば、いづれこれもこの界隈の語り草にならう。又、故有島武郎の親友足助素一叢文閣、今日ではたった一軒の古本屋竹中書店なども数へたい。文壇の中堅どころの諸作家で、これらの書店に厄介になったものが多い。新本屋の武田芳進堂盛文堂機山閣南北社等々、一口に享楽の神楽坂とはいひながら、僅か数丁の間に知識のカテをひさぐこれらの店々の繁昌は、他面にこの界隈に住む知識人の多いことをも示してゐる。
神楽坂風景は牛込見附の青松と石崖、蒼黒く沈黙した濠の水によって、一層その情緒を豊富にしてゐる。夏の間は濠に貸ボートがうかぶ。学生や商人。勤め人、モボモガの一組みなどが、夕闇の奥に仄見える。静かな灯のうつる水の公園は神楽坂を下りた人々の目にいかに爽かであらう。
貸ボート

今和次郎「大東京案内」から

左傾 思想が左翼的な立場に傾くこと
南宋書院 ゴールドフォンテン南宋書院の奥付を材料として国立図書館でインターネットを使って調べると、昭和2年で南宋書院の『恋愛揚棄』では麹町九段中山ビル、昭和3年の『無産者自由大学-日本農民運動小史』では肴町12(神楽坂通)、昭和4年の林芙美子氏(ちなみに林氏の住所は通寺町3)の『蒼馬を見たり』では、通寺町39となっていました。肴町12は現在、貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。

本屋3

肴町 神楽坂肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
足助素一 あすけそいち。明治から昭和期までの出版者。大正7年叢文閣を創立。「有島武郎著作集第6輯 生れ出る悩み」を処女出版、著作集をはじめ「水野仙子集」などを刊行。昭和に入ってからは左翼系の出版に。没後、叢文閣から「足助素一集」を刊行。
叢文閣 神楽坂2-11。有島武郎や水野仙子を除き、左翼系の出版として非常にたくさんの本を出版しています。『マルクス主義者の見たトルストイ』『経済評論』『貨幣と金融』『画家とその弟子』『国民主義経済学の基礎理論』『米国農業政策』『幸福者』『プーシュキン小説集』『時は来らん』などなど。場所は神楽坂通りに面するのではなく、一歩中に入ったところでしょうか。
竹中書店 シティ岩戸町3。古本を売る店ですが、それでも『醫藥獨文』『獨逸語讀本拾遺』『醫藥獨語教程』『音楽年鑑 : 楽壇名士録』などを作っていました。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 新泉肴町32。出版は少なく『最新東京学校案内』など。戦前の武田芳進堂は現在の神戸牛と和食の店「新泉」になっています。
盛文堂 元祖寿司神楽坂3-6。昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。ここ
機山閣 金プラチナ買い取り肴町12。出版は少なく『火山 : 詩集』『追憶』『書道講話』『石炭と花 : 詩集』『忠臣と孝子』。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
南北社 センチュリー『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地に南北社、通寺町14に南北社書店。その後、通寺町14を南北社にしています。かなり本を出版したようです。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。
享楽 キョウラク。思いのままに快楽を味わうこと
カテ 糧。食糧。食物。精神・生活の活力の源泉。豊かにし、また力づけるもの
モボモガ 「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。