久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。
たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では
さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、酒瓶と云った方が良い。 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。 |
川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。
川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で
神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋と飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。 |
パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。
久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では
「魁雲堂」 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒瓶だと云った方が良い酒仙である。 |
新しい大学 新潟産業大学です。
「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。
「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆 ノ カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。