火除明地
これは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。
幕府は1657年の明暦大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。
町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。
一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。
新暦調御用屋敷
宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木文次郎を天文方に任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。
明和8年(1771)「修正宝暦暦」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店(現袋町)から浅草鳥越に移っています。
「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
天文屋舗蹟 天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆその後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出されやかてこひ奉りこの所に司天臺を建て天文をはかれりされとこの地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり |
浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。
天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天儀」から黄道環を取り、簡略化したもので、「簡天儀」といいます。
手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「象限儀」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。