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紀の善(明治・大正)寿司屋時代

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂下の紀の善は、戦前は寿司屋でした。

広瀬光太郎編 東京飲食店独案内 明治23年

 明治23年1月刊行の東京市内の店名・所在地のリストに「神楽町2丁目 花ずし 紀乃善」とあります。明治初期の町域は今と異なり、1丁目は神楽坂通りの南側だけでした。
 明治20年には北側と南側の両方に出現します。紀の善が今と同じ場所だったとしても「2丁目」は納得できます。町域が改まったのは明治20年なので、明治23年の「東京飲食店独案内」は古い情報で出版されたと考えてもいいでしょう。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 また「昭和10年代の神楽坂通り(写真)」では、紀の善はまだ神楽坂の本通りではなく、現在の神楽小路に面していたようです。
食行脚 東京の巻」(協文館、大正14年)に記事があります。著者の奥田優曇華は巻頭言で「生来の食いしん坊ぶりを発揮して、あさり歩いた漫録」として「見たこと聞いたことを、書き綴ってみた」と記しています。なお、適宜新字・新かな等に修正しました。

食行脚. 東京の巻(大正14))82コマ「紀の善」

紀の善(神楽坂)
 花蝶寿司でその名を知られている。
 牛込の牡丹屋敷と言われた旗本のお屋敷から、格別のひいきを受けていた紀の善は、その恩顧を記念するため、牡丹の花に蝶をちなんで、家業の寿司に「花蝶」と名付けた。
 創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前。宮家や諸官庁の御用のほか、古いお得意では本郷の前田侯(爵)、小石川の細川侯(爵)、牛込の酒井子(爵)をはじめ、お屋敷の注文が年ごとに増えてきだした。
 一人前50銭、80銭、1円に分かれ、階下は食卓、2階は小座敷が4室、客のお望みとあれば、これも神楽坂名物のが「こんばんわ…」。(神楽町1-12、電話牛込1343番)

三味線

 さお。三味線の糸を張る部分(ギターではネック)。紫檀棹(したんざお)とは、紫檀の木で作った三味線の棹。転じて、三味線か芸者。

 大正14年(1925年)から70年前はおおよそ嘉永年間(1848-1854)で「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業」という他の記事と符合しません。
 現在は周知のように甘味処です。