江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた尾崎紅葉氏の臨終の様子です。
紅葉逝く(明治三十六年の冬の上) 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。 (前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は其我儘氣儘に就て最後の忠告を試みた。此時は眉山も泣いて服膺した。) |
陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。
綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。