まえがき
これはわたしの自伝ではない。わたしはまだ自伝を書くほどの仕事もしていないし、それにたかの知れた男の生きて来た経過などが、たれの興味をそそるとも思えない。 |
たかの知れた 高が知れた。大したことはない。程度がわかっている。
たれ 誰。不定称の人代名詞。だれ。
悉く ことごとく。残らず。すべて。
心つく 心付く。こころつく。気がつく。
小島昻 小島昻の名前は全く、どこにも出てこない、と現在ではその通り。「三百人の作家」の『「文戦」にて』で小島昻の名前がこう出てきます。
しかしまた同時に、どのグループとも特別な関係をもたずに、いわば一本立ちでいる人たちもいないではなかった。作家の小鳥昴、評論家の青木壮一郎、宗十三郎、詩人の今村桓夫、戯曲家の伊藤貞助などがそれであった。(中略) このとき小島昂はわたしなどよりはるかに強く、そして具体的に「文戦」のあいまいさを痛感していたことが後になってわかった。序にいいそえると、小鳥昴には「ケルンの鐘」という優れた作品があり、彼の妹は横光利一の恋女房で、横光が「春は馬車に乗って」でその死を描いている。(中略) 「コーヒーでも飲もうか」 「そうですね」 小鳥もコーヒー党で、わたしが誘うと洋服に着かえ、忘れずにサッカリンを紙に包んでポケッ卜に入れた。彼は糖尿病なので医者から砂糖を禁じられているからであった。 |
文戦 「文芸戦線」の略。
青木壮一郎 『三百人の作家』では「青木壮一郎は動きそうじゃないかと、いろいろ意見を持ち寄りもしたが、(同士になる)望みがなかった。」と書いています。
宗十三郎 不明
今村桓夫 いまむらつねお。詩人。「文芸戦線」などに詩作を発表し、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に加わる。昭和7年、共産党に入党。8年、小林多喜二とともに逮捕。収監中に病状が悪化し、保釈。生年は明治41年1月15日、没年は昭和11年12月9日。享年は満29歳。
伊藤貞助 東洋大在学中から劇作を志し、昭和2年「文芸戦線」などに劇作を発表。5年、ナップに参加。共産党再建の嫌疑で2回検挙。戦後は俳優座文芸部員として活躍。生年は明治34年9月30日。没年は昭和22年3月7日。享年は満45歳。
その死 恋女房の死
サッカリン saccharin。人工甘味料の一つ。発癌性があるとされたが、現在はないと考えられる。
過去をふりかえると、わたしは或る意味では不運な作家であるが、しかし別な意味からは幸福な作家のように思える。何故ならわたしは一八九九年、つまり十九世紀の終りに生まれたが十九世紀の人間とはいえない。自然主義文学はわたしが赤ん坊から少年になる間に隆昌期から衰退則に向ったが、しかし或る程度の影響は与えられた。そうしてわたしが青年に達する頃には、いわゆる大正期の自由主義的風潮は衰弱しはじめたが、影響としてはやはりわたしの内にとどまった。しかも同時に労慟者の文学は、自然発生的なところから意識的なところへと発展しつつあって、その影響もうけずにはすまなかった、というふうなのである。一言にいってわたしはいろんな文学的傾向を時代の変遷とともに不徹底な形でうけつぎながら歩いて来なければならなかった。 「三百人の作家」はそのようなわたしが、さまざまにゆさぶられながら歩みこして来たその巾だけ接触のあった作家を書いたものである。 与謝野寛、芥川龍之介、葛西善蔵、宮島資夫、片岡鉄兵、嘉村礒多、徳田秋声、島崎藤村、正宗白鳥、秋田雨雀、広津和郎、徳永直、宮本百合子、宇野浩二、中山義秀、島木健作‥‥こんなに多方面、多傾向の作家と知りあうことが出来たのは、何んといってもわたしの幸福であった、といえないだろうか。 |
自然主義文学 自然の事実を観察し、いかなる美化も否定する文学。日本では20世紀前半に見られた。
自由主義 集団による統制に対して、個人の自由を尊重して自由な活動を重んずる思想的立場。
労慟者の文学 プロレタリア文学。ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした、社会主義的、共産主義的な文学。