田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和49年(1974年)12月21日の写真を上げます。坂の左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。歩道はあり、下水は道路の側溝を流れ、また坂が登りになると車道は滑り止めの〇リングを使って施工しました。自動車は対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器もありますが、大きなものもありました。街灯は、恐らく水銀灯でしょう。。
地蔵坂(藁店)昭和49年 | |
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和49年(1974年)12月21日の写真を上げます。坂の左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。歩道はあり、下水は道路の側溝を流れ、また坂が登りになると車道は滑り止めの〇リングを使って施工しました。自動車は対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器もありますが、大きなものもありました。街灯は、恐らく水銀灯でしょう。。
地蔵坂(藁店)昭和49年 | |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7899を見ましょう。撮影は1953年(昭和28年)で、地蔵坂 (藁店)をねらっています。同年のID 5189では、すぐ近くの神楽坂通りに街灯が整備されています。しかし脇道である藁店には全くなく、日が沈むと家の灯りが頼りだったでしょう。舗装はかなり荒れていて、建物や塀が道にはみ出しているようにも見えます。手前には下水(側溝)があるようですが、坂の部分は分かりません。写真に写っている女性や子供は薄着です。軒にはお祭りの飾りが出ているので、秋と思われます。
右手の最初は「富永 写真館」、続いてサンシェードがついた「配給所」(のちの八百 美喜)、ベニアで囲んだ家(のちのチャーリーブラウン)が見え、これ以上の数軒は見えず、最後に民家が見えます。
右側の電柱1本に縞模様と看板があり、その看板は「割烹 山ぐち」と読めます。地図では坂の突き当たりを曲がった右側にあります。左側には理容室のサインポールも見られ、地図で「床ヤ モリワキ」(森脇)と書いてあります。森脇の後面は小林石工店(現在のWARADANA神楽坂)、前面の1階建てが「倉庫」(のちの安達ビル)で、さらに前の建物は「西沢菓子S」(のちの鮒忠、現在は駐車場)でしょう。
ちなみに「床ヤ」は明治39年の「風俗画報」でも理髪師として見られます。ただ、これが現在の森脇ビルにつがるものかどうかは分かりません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7900は、撮影日時は平成8年(1996年)2月10日で、地蔵坂(藁店)をねらって撮影しています。電柱の途中から出る街灯は普通の蛍光灯です。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
縁石はなく、白い塗料で歩道と車道を区別し、また道路の両側に1列のコンクリートをつくり、雨水桝からの下水を流します。車道は平坦で、凹凸はありません。人は誰もいませんが、土曜日だからかもしれません。
地蔵坂(藁店)(平成8年) | |
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なんと神楽坂5丁目の右側はこれで終わりです。代わりに右側は「袋町」になります。
では、神楽坂5丁目の左側は? 「上海ピーマン」は安いと有名。店舗が小さいのも有名。
さらに散髪屋と懐石料理店「真名井」があります。残念ながら閉店。16年2月に「神楽坂 鳥伸」に。
石鐵ビルの前身は小林石工店。
かつての小林石工店。安政時代からやっていましたが、閉店。
以上、神楽坂5丁目の左側です。これからは「袋町」です。袋町は豊嶋郡野方領牛込村と呼びました。この地の寄席「和良店」には江戸後期、写し絵の都楽や、都々逸坊扇歌が進出しています。寄席文化が花開いた場所なのです。
最初は「肉寿司」。
以前は八百屋「丸喜屋」でした。いつも野菜や果物でいっぱいになった店舗でした。
続いて、イタリア料理店のAlberini。
鳥竹の魚河岸料理・鳥料理、そのマンションの奥には「インタレスト」や「temame」など3軒。
ブティック・ケイズは婦人服の店兼白髪ファッション。へー、NHKの「ためしてガッテン」にも出ていたんだ。平成12年の「着やせ術」についてでています。
このブティック・ケイズが入るリバティハウスと、フランス料理のカーヴ・ド・コンマ(これも閉店)が入る隣の神楽坂センタービルは昔は1つの建物でした。昔は和良店から、藁店・笑楽亭、牛込高等演芸館、牛込館に変わりました。別に項を変えて書きます。
坂本歯科も今も続き、「ギャルリー煌」はギャラリーブティックでしたが、閉店に。現在は彫刻家具「良工房」になりました。
また、反対側にはヘアーの専門店「ログサロン」。昔は都館支店と呼び、明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士達が住んでいました。
標柱もたたっています。
地蔵坂(じぞうざか) |
この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。そこにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。 |
ここで標柱の上と下をみておきます。
さらに上に上がって光照寺、反対側には同じ標柱があります。
2013年6月7日→2019年5月23日