神楽坂上の南側には、交番がありました。左図は岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」です。明治40年ごろですが、「交バン」がわかります。右図は昭和27年の都市製図社「火災保険特殊地図」です。赤い矢印で示しますが、戦後になってもしばらくの間、交番はそこにありました。
建物としては、尾張屋銀行がありました。昭和2年、尾張屋銀行は昭和銀行に買収され、左図は昭和12年の都市製図社「火災保険特殊地図」ですが、昭和銀行支店になっています。
「遊び場だった『寺内』」の中で、岡崎弘氏は
それから神楽坂上のこの角が「尾張屋銀行」。隣の「東屋洋傘店」には三人兄弟がいて、一緒に戸山ヶ原まで遊びに行ったりしてましたよ。そして、「益美屋」、袴屋、乾物の「近江屋」、「紅谷」が並んでいました。 |
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業していた)
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。それで角は交番があって、尾張屋銀行があって、これが関東大震災で潰れたあとに復旧して。レンガでできていたんですね。関東大震災で一メートルぐらいレンガのクズが河合さんの方ヘダーツといっちゃってね。神楽坂をふさいじゃったんです。三尺ぐらいしか通路がなくて。尾張屋銀行が交番を潰したっていうんで、鉄筋で今度は交番を作った。
山下さん あの丸いのね。
相川さん その前は木でできたボックスだったんです。
佐藤さん それであの丸い交番がずっと戦後も残っていたわけですか。
馬場さん 袋町の交番は木ですよね。
相川さん 木でしたね。
佐藤さん 昔のトーチカじやないけど、すごい(木が)厚いですよね。その記憶はあります。
相川さん 夏は西陽があたるでしよ。お巡りさんが立っていて、一日中西陽で気の毒だってんで、町内で六月になると日よけを寄付するんです。町内から金もらって、その仕事はうちでやった。窓のところヘ上げ下げの葦簾を下げて、夜になると上げる。鉄筋だもんだから、焼けちゃうと暑くて中にいられないんです。天井が低いでしよ。あの上に葦簾を広げて周りに垂らす。カラカラっと巻き上げのね。
山下さん 終戦後は交番はあったけどお巡りさんはいなかったことがあったね。
相川さん ええ、そうなんです。
山下さん そのころ天利さんの仮小屋のところへ泥棒が入ってね。よく覚えてるけど、交番にお巡りさんがいなかったんだよね。目と鼻の先なのに。
相川さん この戦争後に交番もずいぶんなくなったんですよ。厚生年金病院にも交番があったし、袋町にあったし。大曲のところはいまだに残っていますね。
馬場さん ああ、ありますね。場所はちょっと移動したけどね。
相川さん あそこは寒いんですってさ。川の風が吹き上げてくるから。あそこは苦手だ、島流しだってね(笑)。確かに寒いや。それでこの隣はトウグ(陶具?)屋さんがあったんですが、そこを担保に取られて空き地になったんです。
馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんで空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。
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