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松井須磨子-芸術座盛衰記|川村花菱

文学と神楽坂

 川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
 川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
 松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。

「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」
「なにか、あったかいものはないかな」
「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」
 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。
「川鉄の親子ですよ」
「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」
「たべます]
「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」
 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。
 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本()蓮洞(れんどう)という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、
「おい、島村……」
と、呼びつけにした。
「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」
 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、
「おい、島村……」
と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の(へや)に飛び込んで、
「おい、島村……」
と言っただけで、その場で首になってしまった。

 坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。

春着|泉鏡花②

文学と神楽坂

 牛込うしごめはうへは、隨分ずゐぶんしばらく不沙汰ぶさたをしてた。しばらくとふが幾年いくねんかにる。このあひだ、水上みなかみさんにさそはれて、神樂坂かぐらざか川鐵かはてつ鳥屋とりや)へ、晩御飯ばんごはんべに出向でむいた。もう一人ひとりつれは、南榎町みなみえのきちやう淺草あさくさから引越ひつこしたまんちやんで、二人ふたり番町ばんちやうから歩行あるいて、その榎町えのきちやうつて連立つれだつた。が、あの、田圃たんぼ大金だいきん仲店なかみせかねだはしがかり歩行あるいたひとが、しかも當日たうじつ發起人ほつきにんだとふからをかしい。
 途中とちう納戸町なんどまち(へん)せまみちで、七八十尺しちはちじつしやく切立きつたての白煉瓦しろれんぐわに、がけちるたきのやうな龜裂ひゞが、えだつて三條みすぢばかり頂邊てつぺんからはしりかゝつてるのにはきもひやした。その眞下ましたに、魚屋さかなやみせがあつて、親方おやかた威勢ゐせいのいゝ向顱卷むかうはちまきで、黄肌鮪きはださしみ庖丁ばうちやうひらめかしてたのはえらい。……ところ千丈せんぢやうみねからくづれかゝる雪雪頽ゆきなだれしたたきゞよりあぶなツかしいのに――度胸どきようでないと復興ふくこう覺束おぼつかない。――ぐら/\とるか、おツとさけんで、銅貨どうくわ財布さいふ食麺麭しよくパン魔法壜まはふびんれたバスケツトを追取刀おつとりがたなで、一々いち/\かまちまですやうな卑怯ひけふうする。……わたしおほい勇氣ゆうきた。

[現代語訳] 牛込のほうは、随分しばらくの間、ご無沙汰であった。しばらくというが、何年にもなる。この間、水上滝太郎さんに誘われて、神楽坂の川鉄(鳥屋)へ、ご飯を食べに出向いた。もう一人の連れは南榎町に浅草から引っ越しした万ちやんこと、久保田万太郎さんで、水上さんと番町から歩いて、南榎町で久保田さんと一緒になり、川鉄に行ったのである。だが、浅草田甫の大金(鳥屋)と仲見世の金田(鳥屋)に橋を回って歩いた久保田万太郎さんが当日の発起人だというのだから、おかしい。
 途中、納戸町のあたりの狭い道で30メートルの真新しい白煉瓦は、まるで崖を落ちる滝のような亀裂が、三条ぐらいの小枝に別れて、頂点から走っていている。これは肝を冷やした。その真下に、魚屋の店があり、威勢のいい親方が鉢巻を前にかぶり、魚のキハダに刺身包丁を閃かしている。本当に偉い。外で見ると、3000メートルの峰から崩れかかる雪崩がある下で薪を作るよりも危ないのに、この度胸がないと復興は出来ない。ぐらぐらと地震が来ると、おっと叫び、銅貨の財布と食パンと魔法瓶を入れたバスケットをあわてて掴み、玄関まで飛び出すような意気地なしはどうする。私は大いに勇気を得た。

南榎町。南榎町は以下の地図で左上の多角形です。このなかのどこかに久保田万太郎さんが住んでいたはずですが、これ以上はわかりません。
番町。千代田区観光協会によれば、泉鏡花は麹町区下六番町11(現在は千代田区六番町7番地)の建物水上滝太郎は下六番町29(現在は六番町2番地)の建物に住んでいました。以下の地図で矢印の場所です。
連立。三人の場所と鳥屋「川鉄」を書いています。
田圃。浅草田甫。浅草公園の裏は昔は田圃がいっぱいだったと言います。久保田万太郎氏の「『引札』のはなし」で、「たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり(中略)するのをみるとたまらなく可笑しくなる」と出ています。
大金。だいきん。浅草田甫にあった「大金」は 鳥肉の料理を出す飲食店でした。
仲店。仲見世。東京都台東区の地名。浅草寺(せんそうじ)の門前町として発達。
かねだ。金田。同じく鳥肉の料理を出す飲食店。久保田万太郎氏の「浅草の喰べもの」では「鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。」と書いてあります。
橋がかり。建物の各部をつなぐ通路として渡した橋。渡殿。渡り廊下。二つの建物をつなぐ廊下。回廊。
納戸町。上図で納戸町と書いた場所。
七八十尺。1尺は約30cmなので、約21~24メートル。
切立。仕立ておろして間もないこと。新しい。
枝を打つ。わき枝を切る。しかし、ここでは「小枝に別れて」という意味でしょう。
向鉢巻き。前頭部で結んだ鉢巻き。
黄肌鮪。きはだ。きはだまぐろ。黄肌鮪。紅色が鮮やかなさっぱり上品な味。
さしみ庖丁。刺身を作るのに用いる包丁。刃の幅が狭くて刀身が長い。
千丈。1丈の1000倍(約3000メートル)。または非常に長いこと。
樵る。こる。山林の木を切る。
追取刀。おっとりがたな。押っ取り刀。腰に差すひまもなく、刀を手にしたままである。緊急の場合に取るものも取りあえず駆けつける様子をいう。
框。かまち。床板などの切断面を隠すために取り付ける化粧用の横木。玄関などの上がり口に付ける上がり框など。
卑怯。気が弱く意気地がないこと。弱々しい。

 が、吃驚びつくりするやうな大景氣だいけいき川鐵かはてつはひつて、たゝきそば小座敷こざしき陣取ぢんどると、細露地ほそろぢすみからのぞいて、臆病神おくびやうがみあらはれて、逃路にげみちさがせやさがせやと、電燈でんとうまたゝくばかりくらゆびさしをするにはよわつた。まだんだまゝの雜具ざふぐ繪屏風ゑびやうぶしきつてある、さあお一杯ひとつ女中ねえさんで、羅綾らりようたもとなんぞはもとよりない。たゞしその六尺ろくしやく屏風びやうぶも、ばばなどかばざらんだが、屏風びやうぶんでも、駈出かけだせさうな空地くうちつては何處どこいてもかつたのであるから。……くせつた。ふといゝ心持こゝろもち陶然たうぜんとした。第一だいいちこのいへは、むかし蕎麥屋そばやで、なつ三階さんがいのものほしでビールをませた時分じぶんから引續ひきつゞいた馴染なじみなのである。――座敷ざしきも、おもむきかはつたが、そのまゝ以前いぜんおもかげしのばれる。……めいぶつのがくがあるはずだ。横額よこがく二字にじ、たしか(勤儉きんけん)とかあつて(彦左衞門ひこざゑもん)として、まるなかに、しゆで(大久保おほくぼ)といんがある。「いかものも、あのくらゐにると珍物ちんぶつだよ。」と、つて、紅葉先生こうえふせんせいはそのがく御贔屓ごひいきだつた。――屏風びやうぶにかくれてたかもれない。

 まだおもことがある。先生せんせいがこゝで獨酌どくしやく……はつけたりで、五勺ごしやくでうたゝねをするかただから御飯ごはんをあがつてると、隣座敷となりざしきさかんに艷談えんだんメートルをげるこゑがする。まがふべくもない後藤宙外ごとうちうぐわいさんであつた。そこで女中ぢよちうをして近所きんじよ燒芋やきいもはせ、うづたかぼんせて、かたはらへあの名筆めいひつもつて、いはく「御浮氣おんうはきどめ」プンとにほつて、三筋みすぢばかり蒸氣けむところを、あちらさまから、おつかひもの、とつてた。本草ほんざうにはまいが、あんずるに燒芋やきいもあんパンは浮氣うはきをとめるものとえる……が浮氣うはきがとまつたかうかは沙汰さたなし。たゞ坦懷たんくわいなる宙外君ちうぐわいくんは、此盆このぼんゆづりうけて、のままに彫刻てうこくさせて掛額かけがくにしたのであつた。

[現代語訳] が、びっくりするぐらい景気がいい川鉄に入って、土間の側の小さな座敷に陣取ると、臆病神が、細い路地の隅から現れ、逃げる道を探せよ探せよといってくる。電灯が閃くまもなく、暗い場所を指さしするのは弱った。積んだままの雑多な道具は絵屏風で仕切っている。さあ、一杯いかがと女中さんが声をかけてくるが、美しい衣服が似合う女中さんはどこにもいない。2メートル弱の屏風は飛んだが飛ばないかはわからないが、飛んださきの空き地はどこにもない。……そのくせ、酔った。酔うという心持ちに酔いしれた。第一この家は、昔はそば屋で、夏は三階の物干しでビールを飲んだ時からの馴染みだ。――座敷も、味わいこそ違うが、そのままの姿がある。……名物の額があるはずだ。横に二字。たしか(勤倹)とか書いてあり、(彦左衛門)として丸の中で朱色で(大久保)というハンコがあった。「いかさまでも、あれぐらいになると、珍品だよ」といって、尾崎紅葉先生はその額が大好きだった。――額は屏風に隠れていたかもしれない。

 まだ思い出すことがある。尾崎先生がここで、ひとりで酒をついで飲む……のはつけたしだが、90mLでうたたねをするほうだから、ご飯をあがっていると、隣の座敷で盛んに艷談をしながら、酒を沢山飲んでいる声がする。疑いはなく後藤宙外さんだった。宙外さんは近所で女中に焼き芋を買ってもらい、うずたかく盆に載せ、傍らにはあの名筆で書いたのは「浮気どめ」。焼き芋はぷんと匂って、三筋ほどの湯気がたって、あちら様から、贈り物ですと言って、持ってきた。「本草学」にはでていないだろうが、案ずるに焼き芋とあんパンには浮気をとめる力があるようだ。……本当に浮気がなくなったのかは、不明だが、ただおおらかな宙外君はこの盆を譲り受けて、そのまま彫刻をして掛け額にしたのである。

吃驚。びっくり。意外や突然なことに驚くこと。
たたき。三和土。土やコンクリートで仕上げた土間床。ここでは厨房を指す。
瞬くばかり。一瞬。
雑具。ざつぐ。ぞうぐ。種々雑多な道具
羅綾。らりょう。うすぎぬとあやぎぬ。美しい衣服
六尺。一尺の六倍。曲尺で約1.8メートル。
飛ばば。飛ぶことができれば
陶然。酒に酔ってよい気持ちになる。
なじみ。馴染み。本来は「馴染み客」で、いつも来てなれ親しんでいる客
趣。風情のある様子。あじわい
俤。おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿
勤倹。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。勤勉で倹約すること。
いかもの。本物に似せたまがいもの。
珍物。ちんぶつ。珍しい物。珍品
独酌。どくしゃく。ひとりで酒をついで飲むこと。
勺。しゃく。尺貫法の容積の単位。1勺は約18ミリリットル。5勺は約90mL。
艷談。男女の情事に関する話。
メートルをあげる。酒を沢山飲んで勢いづく。
本草。ほんぞう。「本草学」の略。中国の薬物の学問で、薬物についての知識をまとめたもの。
坦懐。あっさりした、おおらかな気持ち。

中野実|新女性大学①

文学と神楽坂

 中野実のユーモア小説「新女性大学」について『神楽坂まちの手帖』17号の佐々木光氏は

 封建時代の女子教育書「女大学」をもじったかのような「新女性大学」は結婚を主題としたユーモア小説で、会社重役の父から結婚話を切り出された女学校出の令嬢「皆川美絵子」が、まずは結婚設計のため“世間見学の武者修業”をしたいと主張、父を説き伏せ質屋を営む同窓の友人の家に奉公し番頭となる。……
この作品は中野実(劇作家・小説家。明治三十四年~昭和四十八年)が作家としての地位を固めつつあった初期のもので、神楽坂を他所に置き換えても成立するが、それでも洋食の田原屋、牛込見附の貸ボート、弁天町、鶴巻町等神楽坂界隈の風景がちらほらと描かれ、当時衰退期にあった神楽坂をモダンなユーモア小説の舞台としている点に注目したい。「婦人画報」(昭和九年六~十二月)に連載後、映画化もされた(日活。昭和十年六月。主演・西峰エリ子)。ただし、映画の舞台も神楽坂かどうかは未見のため不明である。

 (おんな)大学は江戸時代の代表的な女子教訓書で、著作者も初版年も不明ですが、貝原益軒の著述として、18世紀初頭から広く流布しました。「夫女子は 成長して他人の家へ行 舅姑に仕るものなれば 男子よりも親の教忽にすべからず」など19ヵ条の封建的女子道徳を説いたものです。インターネットの本もあります。

 中野実の「新女性大学」は新宿区の図書館にはなく、インターネットを通じて国立図書館から『現代ユーモア小説全集』第七巻の「新女性大学」をコピーしました。まず質屋です。

 新橋駅とW大学の間を連絡している黄バスの実業前というところで降りて、大学通りを左へ折れたところに、山口質店と書いた暖簾の店舗がある。
黄バス

黄バス(ただし東京環状乗合のバスではなさそう)

 昭和9年の黄バスは東京環状乗合(環状)のバスの色が黄色だったからで、黄バスには豊島園~目白駅~江戸川橋~市谷~新橋駅の幹線といくつかの支線がありました(http://pluto.xii.jp/bus/line/s17.html)。昭和17年にこの黄バスの経営は市営バスに変わっています。また、W大学とは早稲田大学でしょう。

 美絵子の発案で、山口質店は面目を一新した。まず時代な暖簾が取りはわれ、Pawnbroker(しちや)と横文字で書いた真鍮板(ブレス・プレート)がそれに変わった。(中略)つづいて薄くらい帳簿が改造され、蓄音機屋の試験室みたいな明るい感じの小室が、設けられ、取引は一切そこで行われることになった。そこへ、美絵子と悦子が貸付係兼接待係という役目で、紅茶をもって愛想をふり撒きながら現れるという寸法である。果然、山口質店は素晴らしい業績をあげ始めた。

 質屋をここまで変えるとは驚きです。ただし、昔の質屋は現在の質屋と比べて店舗数は圧倒的に多かったようです。例えば昭和10年の横寺町では81店舗のうちなんと5店舗は質屋です(今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』新宿区横寺町交友会、2000年)。歩くと質屋にぶつかる状況でした。

 質草を聞く場面で、客が住所は弁天町と答える場合があります。

 客は、(ふところ)から錦紗(きんしゃ)(づつみ)を出して、美絵子の前に拡げて見せた。ダイヤ入の指輪、鼈甲(べっこう)(くし)(こうがい)翡翠(ひすい)()がけ。それに、帯止(おびどめ)の金具。
「いくらほどお入用なんですの。」
「三百円調達したいと思うんですの。」
「三百円ね。」
「これで足りなければ、あたしの着物を入れてもと思っています。」
「どちらです。お宅は?」
「弁天町の三十七」

錦紗 紗の地に金糸・箔・絹の色糸などを織り込んだ絹織物
鼈甲 ウミガメのタイマイの背甲、縁甲、四肢の鱗片をはいだもの
 江戸時代の女性用髪飾り。金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作り、髷などに挿す
翡翠 緑色の硬玉。主産地はミャンマー・中国など
根がけ 女性が日本髪の髷の根元に結ぶ飾り。金糸・銀糸・絹ひも・緋縮緬・宝石類など。
帯止 解けるのを防ぐために女帯の上からしめる平打ちの紐

「弁天町の三十七」は現在は巨大なマンションになり、三十七という号数は単独ではなくなっていますが、昭和五年には確かにありました。

弁天町37

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 次に田原屋と貸ボートです

 その晩、美絵子は悦子に誘われて神楽坂の通り歩いていると、田原屋の前で、
「悦ちゃんじゃないか」
と、なれなれしく悦子に声をかけて近づいて来た青年があった。
「まあ、西山さん」(中略)
「どう、お茶のみにつき合ってくれないか。」
 美絵子は断りたかったが、悦子が誘ったので仕方なしに、西山について田原屋へ這入った。
「四菱に出てらっしゃるんですってね。就職難時代に偉いものだって母が感心していましたわ」
 悦子がちょっと、愛想を言うと
「あっちこっちから引ぱりだこで弱っちゃったよ」
 西山は得意そうに鼻をうごめかした。

 田原屋で3人の話が終わり

「どう。見付へ下りて、ボートへ乗らない?」
と、(西山は)二人を誘った。
 美絵子はいい加減に切りあげたかったが、西山は厚かましく悦子の手をとって先に歩き出したので、悦子のことも心許なくなり、田原屋を出て坂を下りて行った。
 蒸暑い晩だったので見付の貸ボート屋は賑わっていた。西山はボートに乗ろうと云い出したが、そこまで西山の機嫌をとる必要もないと美絵子は思った。(中略)
 西山と別れて、悦子をせきたててお濠端にそい、牛込見付へさしかかった時であった。彼女は何気なく濠の方を見た…

 そこには別の男性、W大学を卒業して、大和製鋼に入る予定の下村氏がいたのです。

中野実|新女性大学②

文学と神楽坂

 ユーモア小説「新女性大学」について先に行きます。

 鶴巻町の通りを大学の正門ヘ向って2丁程行った右角の東北館という下宿屋が下村の住居だった。

早稲田正門 二丁は約200メートルです。「鶴巻町通り」は現在「早大通り」になりました。始点はどこからなのでしょうか。わかりません。鶴巻町は相当大きく一番右からなのでしょうか? もし「鶴巻町東」からだとすると、「鶴巻小前」に近くなっています。

 さて、神楽坂が出てくる最後の場面です。

「実は今晩、下村の就職祝の会が7時から神楽坂の鳥正とかいう料理屋であると云っとりました。」
「そう、それは有難う。じゃあ」
 電話を切った美絵子は、つまらなそうにぶらぶらしている西山へちらりと流し目をくれると、
「西山さん、今晩お供するわ。」
「来てくれるのかい?」
「ええ。」
「銀座?」
「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ。7時に肴町停留場で待っていて頂戴」
       4
 鳥正という神楽坂の料理屋は肴町の方から行って電車通りを一寸左へ這入った細い露地の右側にあった。美絵子は西山について二階へ上って行った。そして西山に気取られないようにそっと女中を廊下に呼んで
「今夜ここで下村さんとかいう人の会があるでしょう。」
「ええございますわ。」
「その部屋の隣の座敷へ通してくれない?」
「はあ、かしこまりました」

停留場 市電・都電の停留所です。
電車通り 市電・都電が通る道路のこと。ここでは大久保通り

 鳥正は川鉄をモデルにしています。

 「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ」といわれた神楽坂ですが、半ば笑いのネタになっているのではないでしょうか?  普通は銀座のほうが遙にいい。なのに、神楽坂がいいのは、下村さんの就職祝の会があったからです。

 以上で終わりですが、あまり神楽坂は出てきませんでした。

 しかし、それ以上に驚いたことはこの文章全体の軽さです。昭和9年に書かれたなんて思えません。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑧

文学と神楽坂

 相馬屋の先隣りは酒屋の🏠万長で、現在の敷地は路地の右角までだが、以前には角が足袋の丸屋で、いま左角にある牛肉屋の🏠恵比寿亭の場所には下駄屋の上田屋があった。夏目漱石が姉ふさの夫高田庄吉の家へ二番目の兄栄之助に連れられていって、神楽坂芸者の咲松とトランプをしたと『硝子戸の(うち)』に書いている場所は、この路地のなかである。
 現在その路地と向い合っていた路地はなくなったが、すき焼屋の恵比寿亭を左に、八百文を右に見ながら入ったその路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。その川鉄について、『神楽坂通りの図』には≪お客に文士が多かった≫と記入してあるが、加能作次郎も『早稲田神楽坂』のなかで≪牛込在住文士の牛込会などもいつもそこで開いた。≫といっている。川鉄になる以前は万盛庵という蕎麦屋だった様子で、徳田秋声小栗風葉から後述する()()(まん)堂塾への参加をすすめられたのがその万盛庵であったことが、彼の実名的長篇自伝小説『光を追うて』に出てくる。
 現在の牛肉店恵比寿亭――以前の下駄屋の上田屋の位置から五、六軒先にあった機山閣書店は、震災後高島屋十銭ストアという十銭の商品だけを置く店になったが、すぐ廃業した。いまもそのあたりで残っているのは、角の🏠河合陶器店だけだろう。閉店後から開店前まで、いつも盗難のおそれがない大きな丸火鉢だけが重ねて店外に置かれてあったが、丸火鉢などというものも日本人の日常生活とはすっかり疎遠になってしまった。
 十銭ストアの筋向いにあった三階建ての和菓子舗紅谷は二階が喫茶店で三階は小集会用の貸席になっていたが、いまは痕跡もない。角の尾張屋銀行の跡も不動産屋のつくば商事になっていて、「神楽坂通り=美観街」はその地点で尽きる。そこが以前の都電通り――現在の大久保通りだからだが、大久保という地名も近々新宿何丁目かに変更されるということだから、そのときには通りの名称も変更されることになるのだろうか。朝令暮改もここにきわまれりという感じで、住民をいたずらにするのはいいかげんにしてもらいたいという気がする。
 『神楽坂通りの図』は貴重な記録だが、一つだけ誤りを指摘しておく。以前の電車通りを筑土方向へむかっていって最初に右へ折れる路地の左角に神楽おでんとあるのは正しいが、≪ドサ廻りの芝居がよくかゝった。もと鶴亀亭。≫と註記されている柳水亭がその先にあるのは肯定できない。路地の右角は青物商で、柳水亭はその手前――河合陶器店寄りにあった。私はその青物商の二階に間借りしていたことがあるし、柳水亭にも何度か入っているので間違いない。

その路地。名前は寺内横丁です
貸席。会合や食事のために料金をとって貸す部屋
朝令暮改。ちょうれいぼかい。朝に出した命令を夕方にはもう改める。方針などが絶えず変わって定まらないこと
肯定できない。その通り

機山閣 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)「城跡と色町」を書いていますが、写真の左から二番目の店舗に機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。
大正時代の神楽坂通り
丸火鉢
丸火鉢

丸火鉢

灰を入れ、中で炭火をおこして手などを温める暖房具。木製では丸火鉢、長火鉢などがある。

5丁目

万長 恵比寿亭 河合陶器店

光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

 この文章を書いている筆者のこと。
肴町 現在の神楽坂五丁目
結構 けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
遣ってつけ いいかげんにやってしまう
懐ろ ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
彫心 ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻 ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏 馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

一区画 十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年 明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所です。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。
 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」の「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」を読むと、「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地か5番地がよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂
枝折門 しおりど。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
 要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
 カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁 ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石 とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石
一廉 ひとかど。ひときわすぐれている。

川鉄|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 川鉄は肴町27番地にありました。場所はここ。以前は万世庵というソバ屋でした。

『ここは牛込、神楽坂』第10号の「漱石と神楽坂」21頁には編集部の言として「なお川鐵は左の場所が正しいとご指摘をいただきました」と書いてあり、下の絵もありました。確かに正しい場所です。しかし、もう少し大久保通りに近い場所でした。

川鉄

「かしわ料理」については、『かしわ(黄鶏)』とは日本在来種のニワトリで、本来褐色の羽色があり、鶏肉一般の名称になったようです。

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄

川鉄があったところ

徳田秋声氏の『光を追うて』では

その時分等は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていた……

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「花街」では

川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩した文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐる。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめもがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の鳥がへるといつてゐる。

肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀される歌姫」(恋をさせる歌姫)に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手があればいいなあと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

肴町の電車通りを左へ、僅かに引込んで古くからある山手一流の鳥料理屋。特にこゝの鳥鍋は美味しいので有名で、一時は文壇の有名人が盛んに出入して痛飲したものです

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(1978年)では

路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



学者町学生町(2)|出口競

文学と神楽坂

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(2)です。神楽坂は(2)で終わりです。(1)はここに

 往來の六分強(ぶきやう)は男である。そして男の七分が早稲田(わせだ)の學生であるけれど
その服装(ふくさう)に至つては弊衣(へいい)破帽(はぼう)一見と知らるゝもあり、何處(どこ)の旦那かと(かひ)
(かぶ)らるゝあり、千姿萬態である。左に折れて中坂に洋館(やうくわん)の建物がある、
これぞ元の高等演藝館今は日活(にちくわつ)直營(ちよくえい)活動(くわつどう)寫眞(しやしん)牛込(うしごめ)(くわん)となって藁
店といった昔の面影(おもかげ)はない。土曜劇場創作試演會等は此処(ここ)に生れて所謂劇
壇に貢献(こうけん)(ゆた)かであつた。尚、此の(ちか)に藝術座の藝術(げいじゆつ)倶楽部(くらぶ)がある。
 肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩し
た文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐ
る。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめ
もがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の
鳥がへるといつてゐる。區役所前の吉熊よしくまは今は無慘むざんや、代書所時計店等
にくはしてゐるが、區外の人々にもうなづかれる有名な料理屋でかつては一代の文
星紅葉山人が盛んに大盡めこんだことが彼の日記にもほのえる。此店
の營業中慣例のやうにひらかれた早稲田わせだ系統けいとうの諸會合も今は其株を吉新よししんにと
られてしまつた。電車通り飯田橋いひだばしの方へれて少し行くとそこに矢ばね
、、、
がある。こゝは学生の根城ねじろであるといつてよからう。
 赤い旗、あをはた、広告爺、音律をなさぬ楽隊、あくどい色彩のかんばん、そ して悪どい化粧の女案内人、文明館へははひる勇氣がない、さりとて牛込亭 鹿えず。

弊衣 破れてぼろぼろになった衣服
破帽 破れてぼろぼろになった帽子。身なりに気を使わず、粗野でむさくるしいこと。特に、旧制高校の学生が好んで身につけたバンカラ風な服装
 「ふ」と読んで成年に達した男子、一人前のおとこ。
千姿万態 さまざまに異なる姿や形のこと
洋館 西洋風の建物。実際にこの牛込館は洋館でした。牛込館
高等演芸館 藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設しました。
藁店 わらだな。藁店は「わら」を扱うお店のこと。すくなくとも1軒が車を引く馬や牛にやる藁を売っていたのでしょう。詳しくはここに
土曜劇場創作試演会 藤沢浅二郎の俳優学校「東京俳優養成所」が開設し、度々創作試演会を行っていました。
近く 私たちの感覚では近くではありません。大きな道、大久保通りの反対側にありましたが、大正時代の感覚では近くだったとも考えられます。牛込館は袋町2に、芸術倶楽部は横寺町9にありました。
芸術倶楽部 ここも二階建の白い洋館でした。詳しくはここを
肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
川鉄 昔の肴町27にありました。現在は神楽坂5丁目です。詳しくはここで

昭和5年『牛込区全図』から

掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣瀬ない。遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀する歌姫」に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手がでてくればいいのにと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。
吉熊 箪笥町三十五番地の区役所前にありました。ここで
代書所 本人に代わって書類や契約書などを作成する所
化す 「くわす」と書いて「かす」。 形状・性質などがかわる
文星 中国では北斗七星の主星「斗魁」を頂く星座[6星]を文昌星と言っています。古来より学問、文学の神として崇拝してきました。
紅葉山人 尾崎紅葉です。「山人」は文人や墨客(ぼっかく)(書画をよくする人) が雅号に添えて用いる言葉です。
大盡 大尽。 財産を多く持っている者。金持ち。金銭を湯水の如く使つて派手な遊びをする客
 ほの。かすかに、わずかに
吉新 おそらく肴町の42番にあったようです。昔は神楽坂から奥に入っていくこともできたのですが、今はできません。「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」から変わって「とんかつさくら」の奥にありました。
電車通り ここでは大久保通りです
矢ばね 場所はわかりません。実は大久保通りについてはほとんど資料はないのです。神楽坂通りについては色々書いてあります。しかし、大久保通りについては遙かに少なく、大正時代についてはまずありません。
根城 活動の根拠とする土地や建物
文明館 映画館です。このころはもう既に神楽坂通りに沿う通寺町11に移っていました。細かくはここを
牛込亭 通寺町八にある寄席でした。細かくはここを。吉田章一氏の『東京落語散歩』(角川文庫)では「大久保通りとの交差点近くに寄席『牛込亭』(神楽坂六ー8)と、『柳水亭』(神楽坂五-13)があった。『牛込亭』は、明治十年頃『岩田亭』で始まり、のち相撲の武蔵川が買って『三柳亭』改め『牛込亭』とした。六代目圓生か大正九年初めての独演会を開いた。昭和になると浪曲が主となり戦災まで続いた」と書いてあります。
鹿 寄席芸人用語で、咄家のこと。はなしかをしか(、、)に略し、鹿の字を当てました。

大東京繁昌記山手篇

『大東京繁昌記』山手篇の加能作次郎の「早稲田神楽坂」から

神楽坂|大東京案内(3/7)

文学と神楽坂


 通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」
菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

 実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。

4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

 明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。

明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」、さらには椿屋珈琲店になりました。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
緋鹿ノ子
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性

 日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。

末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。

吉新 よしん
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

 百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

 箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。

橋本

 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

日本歓楽郷案内(4/5)

文学と神楽坂

それと、うまい物では川鐵の鳥料理と小鉢もので、白木屋横町江戸源、こゝの女将のキビキビした傳法肌と、お酌をして呉れるお幸ちやんの美貌。その愛くるしい黠に於てダンゼン牛込一の小町嬢である。嘘だと思へば敬愛する先輩齊藤昌三 氏に訊いて頂きたい。
 「お幸ちやんは幾つだい。」といふと、
 「妾し、妾し十九よ!」
 これは一昨年の會話である。
 「お幸ちやんは幾つになつたのだい!」
 「あたし、あたし十九になつたのよ!」
 これは今年の會話である。
 もし、來年になって、誰かゞ彼女の年を訊ねても
 「妾し、妾しは今年十九になったのよ!」
 とかう答へるであらう。
 彼女が、いつ、誰と結婚するかに就て、まるで自分のことのやらに氣にしてゐる人間が、上は五十四歳の爺さんから、下は二十代のニキビ青年に至るまで、無慮百人を算すといふから、一應は見てをいてもいゝ代物であらう。

小鉢 こばち。小形の鉢。そのような器に盛られた料理。
白木屋横町 神楽坂仲通りのこと
江戸源 安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では「白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」カフェー「東京亭」野球(やきう)おでんを看板(かんばん)の「グランド」縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。」
伝法 でんぼう、でんぽう。勇み肌、いなせなこと。多く女がいきがって、男のような言動をすることをいう
小町 小野(おのの)小町(こまち)のこと。転じて美人。
齊藤昌三 斎藤昌三氏。大正・昭和期の書物研究家、編集者、随筆家、装丁家、発禁本研究では「書痴」。茅ケ崎市立図書館の初代館長
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。
一昨年 おととし。2年前。本の出版は1932年なので、1930年頃でしょう。
無慮 むりょ。おおよそ。ざっと
算す かぞえる。計算する。ある数に達する。
代物 しろもの。物や人。低く評価したり,卑しみや皮肉を込めていうことが多い。

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
 あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。(詳細は和良店を)
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。