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日本歓楽郷案内(4/5)

文学と神楽坂

それと、うまい物では川鐵の鳥料理と小鉢もので、白木屋横町江戸源、こゝの女将のキビキビした傳法肌と、お酌をして呉れるお幸ちやんの美貌。その愛くるしい黠に於てダンゼン牛込一の小町嬢である。嘘だと思へば敬愛する先輩齊藤昌三 氏に訊いて頂きたい。
 「お幸ちやんは幾つだい。」といふと、
 「妾し、妾し十九よ!」
 これは一昨年の會話である。
 「お幸ちやんは幾つになつたのだい!」
 「あたし、あたし十九になつたのよ!」
 これは今年の會話である。
 もし、來年になって、誰かゞ彼女の年を訊ねても
 「妾し、妾しは今年十九になったのよ!」
 とかう答へるであらう。
 彼女が、いつ、誰と結婚するかに就て、まるで自分のことのやらに氣にしてゐる人間が、上は五十四歳の爺さんから、下は二十代のニキビ青年に至るまで、無慮百人を算すといふから、一應は見てをいてもいゝ代物であらう。

小鉢 こばち。小形の鉢。そのような器に盛られた料理。
白木屋横町 神楽坂仲通りのこと
江戸源 安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では「白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」カフェー「東京亭」野球(やきう)おでんを看板(かんばん)の「グランド」縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。」
伝法 でんぼう、でんぽう。勇み肌、いなせなこと。多く女がいきがって、男のような言動をすることをいう
小町 小野(おのの)小町(こまち)のこと。転じて美人。
齊藤昌三 斎藤昌三氏。大正・昭和期の書物研究家、編集者、随筆家、装丁家、発禁本研究では「書痴」。茅ケ崎市立図書館の初代館長
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。
一昨年 おととし。2年前。本の出版は1932年なので、1930年頃でしょう。
無慮 むりょ。おおよそ。ざっと
算す かぞえる。計算する。ある数に達する。
代物 しろもの。物や人。低く評価したり,卑しみや皮肉を込めていうことが多い。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。