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坂道の独特の景観と“遊び方”|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)から「坂道が作る独特の景観」「坂道の“遊び方”」(2006年秋)です。氏は産経新聞記者で、初の女性編集長になりました。
 まえがきでは「実際に暮らしてみての東京。それも酸いも甘いもかみ分けた(はずの)、大人の五十代が感じた等身大の大都会。大阪の新聞社で長く生活面の記者をしてきたから、衣食住は取材の基本だ。見て聞いて食べて住んで、心に残る東京を語ってみよう」 はい、難しいけれど、できればそうしたい。

坂道の独特の景観

坂道が作る独特の景観 東京には坂道が多い。名前がついているものだけでも600とも1000とも言われる。東京を語るのに坂道は欠かせないが、さすが東京、「そうですか」で済まない人が多いのは、坂道を語る本が多いことでも知られる。だから、町歩きが好きな知人がたまたま新宿区の戸山公園を散策していて、声をかけた男性が坂道ウォッチャーであったのも、さほど珍しい偶然というわけではないのかもしれない。で、「面白い人に出会ったのよ」と紹介され、話を聞くことになったのも。
 お名前を山崎浩さん(72)という。大手企業をリタイアし、5、6年前から坂道ウオッチングを楽しんでいる。その日に歩いていた戸山公園は尾張徳川家下屋敷があったところで、なんと園内に箱根山を模した40メートルを超す築山もあり、そこで知人に出くわした。「何しているのですか」とお互い話が弾み、メールを交換する仲になった。都会にはそんな出会いもあるらしい。知人も相当町歩きの達人だが、その彼女が興味をかきたてられるほど、山崎さんの「坂道熱」は高かった。まず持ち物が違う。並みの案内書だけでなく、江戸切り絵図、過去と現在とを比べた重ね地図のコピーをたずさえ、そこをマーキングしつつ歩くという徹底ぶり。すでに600の坂を踏破したという。600といえば主だった坂ほぼすべてじゃないですか。「まあ、そうなりましょうか。いまはかつてあった坂道がどう変貌したか、あるいはしていないか。そちらの方に興味が移り、同じ道を歩き直しているところです」
 確かに東京の坂道を歩いていると、道の上と下では日当たりもがらりと違って階層というものを見せつけられる気がするし、六本木の裏道あたりのしゃれたレストランは決まって坂道の途中にあり雰囲気を増す。坂道は東京の街に独特の景観を作り出しているんだな、という感想は持つけど、それっきり。山崎さんをそこまで駆り立てるものは何なのか。「若いころはどこに行くにも徒歩で、なんで東京ってところはこんなにでこぼこしているんだ、と体に疑問がしみこんだ。それを解読しているわけですが」。もちろんそれだけじゃあない。


戸山公園 戸山公園は新宿区戸山一・二・三丁目、新宿区大久保三丁目からなり、箱根山地区(箱根山を中心とした地区)と、大久保地区(明治通りを隔てた地区)に分かれる。かつて箱根山地区の一帯は江戸随一の大名庭園と称された尾張徳川家下屋敷「戸山莊」があった。6代藩主宗春の頃には「東海道」を模して宿場町や渡船、山道などが再現され、人間がいない点以外はまるでテーマパークのようだった。
坂道ウォッチャー 坂道の観察者、観測者、見張り人、番人。
尾張徳川家 徳川御三家のひとつ。徳川家康の第9子義直を始祖。名古屋に居城に、石高は61万9千石。尾張家。尾張徳川家。
下屋敷 したやしき。江戸時代、本邸以外に江戸近郊に設けられた大名屋敷。

東陽堂『新撰東京名所図会』第42編

箱根山 神奈川県南西部、富士火山帯に属する三重式火山。
築山 つきやま。日本庭園に人工的に土砂を用いて築いた山。
江戸切り絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。分割して詳細を示した。江戸市街図刊本にこの例が早くからみられる。
重ね地図 東京と江戸時代の地図を、重ね合わせて表示する地図。
マーキング しるしを付ける。目印を付ける

坂道の“遊び方”

 坂道ウォッチャーの山崎浩さん(72)はこれまで東京の坂道600本を踏破した。しかし、まだ坂道を登りきった気がしない。「次から次に知りたいことが出てくるのです」
 そもそもの疑問は東京になぜ坂道が多いかだった。「地理的にいえば、東京は多摩川扇状地。そこに流れ込む無数の小さな流れが関東ローム層を削り、凹凸の多い地形になった。それを江戸幕府は町づくりに利用したといわれますね」。坂道の名前はどうやって決めたのか。「江戸以来の名前が多いですが、歩いてみてよくわかりました。実に単純。見たまま、それらしい名前をつけています」。例えば、富士山が見えるから富士見坂。うねうね曲がっているのでへび坂。狭いところなのでねずみ坂。「昔は地図なんてものがないわけですから川や橋、そして坂道が目印になった。いわば住所地がわりだったのです」。なるほどなるほど。「あっ、これらはもちろんすべて受け売りです」
 坂道案内の指南書はたくさんあるが、山崎さんが基本図書にしているのは横関英一著『江戸の坂東京の坂』、明治以降の坂が詳しい『江戸東京坂道事典』、わかりやすい『歩いてみたい東京の坂』など。そして江戸時代との比較で『江戸明治東京重ね地図』、江戸の地誌が詳しい『新編武蔵風土記稿』 『御府内備考』などが必需品だという。
 江戸から現代にいたるまで東京は大災害にあい、都市開発が続き大きく変遷した。坂道の運命もそれに伴い消滅したり、平らになったりしたのだが、それらを確認しながら坂道を歩くと、東京歴史散歩をすることになる。「鉄道、都電、オリンピック、この三つが東京の顔つきを大きく変えたことがよくわかりました」。こうなるともはや都市研究家。
 2006年の江戸川乱歩賞を受賞した早瀬乱さんの『三年坂 火の夢』(講談社)は、江戸の華・火事と坂道とをモチーフにした力作だ。「三年坂で転んでね」。謎の言葉を残して急死した兄の足跡を追ううち、文明開化の東京の陰影があぶり出される。あれ、読まれしたかと山崎さんに聞いたら、「三年坂は東京にはいくつもあり、名前が変わっているものもありましてね」と、たちまち解説が始まった。まさに作品の謎にかかわるところ。坂道ひとつでこれだけ都市を一人遊びできる。そこがすごい。

ウォッチャー watcher。ある対象を定期的、継続的に観察、監視する人。多くは他の語と複合して用いる。「政界ウォッチャー」
多摩川 東京都を北西から南東に貫流し、下流部では神奈川県との境界をなす川
扇状地 川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積たいせき地形
関東ローム層 関東平野をおおっている火山灰層。ローム(loam)とは砂、シルト、粘土からなる土壌の組成名で、国際土壌学会法ではシルト・粘土の合量35%以上、粘土(<0.002mm)15%以下、シルト45%以下と定義される。
富士見坂 新宿区では旧尾張藩邸に元々あった坂。現在は自衛隊市ヶ谷駐屯地内。その場所は不明。
へび坂 蛇坂。港区では三田4丁目1番、4丁目2番の間で、付近の藪から蛇の出ることがあったため。
ねずみ坂 鼠坂。新宿区の鼠坂とは納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂だった。現在は歩道橋に取って変えられた。
横関英一著『江戸の坂東京の坂』 昭和45年に有峰書店から出ている。続は昭和50年。ほぼ全ての坂が書いてある。
『江戸東京坂道事典』 石川悌二著。出版社は新人物往来社。平成10年。同じ作者の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)のほうが早い。この2冊、内容もほぼ同じで、ほぼ全ての坂が書いてある。
『歩いてみたい東京の坂』 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)。限られた坂について微細に書いてある。
『江戸明治東京重ね地図』 江戸時代・明治時代の東京と、現代の東京の地図を重ねて表示できるアプリ。16500円。しかし、2020年3月31日から、サービス提供は終了。「一般社団法人 地歴考査技術協会」で後継サービス提供を計画中。
『新編武蔵風土記稿』 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
『御府内備考』 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
早瀬乱 はやせ らん、小説家、ホラー小説作家、推理作家。法政大学文学部を卒業。生年は昭和38年。
『三年坂 火の夢』 2006年、第52回江戸川乱歩賞受賞作。兄が残した言葉の謎を追う実之。東京に7つある三年坂の存在に辿り着いたとき、さらなる謎が明らかになってくる。
三年坂 三年坂で転ぶと三年以内に死亡するか、転べば三年の寿命が縮まるという俗信がある。本来は寂しい坂道だから気をつけろという言い伝え。詳しくは三年坂・由来で。