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五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)では……

印刷製本工業地帯          (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

毘沙門横丁|路地

文学と神楽坂

「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間にある小さな路地です。名前についてはここで。すこし行くと石畳が現れます。
石畳 毘沙門横丁
 この通りは2つ路地があり、どちらも石畳で覆っています。最初の路地はここです。なにもなそうですが、昔はこの路地も料亭が一杯で、以前はどちらも大量の料亭がありました。
 2本のうち、先が行き止まりの路地を「ひぐらし小路」(場所はここ)と名付けようと、『ここは牛込、神楽坂』は提案しています。理由は「なんか夏になると、ひぐらし蝉が鳴くような気がして」。石畳(ひぐらし小路)

 このまま道を辿っていくと道は左に曲がります。この正面はアフリカ料理(でした。転居。)現在は「西洋バル フルール フィオーレ」に変わりました。松ケ枝があったマンション 右側にはマンションがあります。このマンションに以前の料亭松ケ枝まつがえがありました。この料亭の創業は明治38年。昭和50年代にこの料亭はなくなり、現在はこのマンションに変わっています。
 左に曲がると、路地は「出羽様下」に変わります。

 

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

内務省地理局(上図、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「神楽坂付近の地名」45頁。1970年)では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。
 松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。

明治7年の神楽坂