求友亭はきゅうゆうていと読み、通寺町75番地(今は神楽坂6丁目)にあった料亭です。現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って横丁の右側にありました。
夏目漱石氏が『硝子戸の中』の16章で
彼(床屋)はそれからこの死んだ従兄について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。 「あのそら求友亭の横町にいらしってね…」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。 「うん、あの二階のある家だろう」 「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様から御祝い物なんかあって、大変御盛でしたがね。それから後でしたっけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」 |
川喜田屋横丁と求友亭
この「求友亭の横町」はかつて「川喜田屋横丁」と読んでいました。赤の四角で書いたものは求友亭、青で書いたものは川喜田屋横丁です。地図は昭和5年(1930年)の「牛込区全図」です。
現在は相当狭い場所です。(図は「全国地価マップ」から)
行ってみると瀟洒な一軒家がありました。
新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では
当時待合で大きな所といえば重の井、由多加、松ケ枝、神楽、梅林、喜久川といったところか? 料理屋では末よし、ときわ亭、求友亭だろう。末よしといえば、ここは芸者に大へん厳しくするお出先だ。 |
私は學校卒業後には、川鐵の相鴨のうまい事を教へられた。吉熊、末よし、笹川、常盤屋、求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。 |
求友亭の女將は、相川傳次といふ消防夫の頭の實妹で、藝妓にも出てゐた、所謂女傑型の女で有つた。市川小團次とは深い間であつたが、それと知つてか知らずか、谷干城將軍が特別に贔屓にされてゐたのであつた。 |