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小学唱歌発祥の地

文学と神楽坂

 国友温太氏が書いた『新宿回り舞台』(1977年)の中に、田村虎蔵氏について簡単にまとめた文章があります。
 この『新宿回り舞台』は、新宿区の職員報に、昭和46年6月号から毎号読切りで連載した新宿区の歴史を記録したものです。52年3月号で70話となり、そこで一冊にまとめています。

田村虎蔵

田村虎蔵

  小学唱歌発祥の地(46年11月)
 田村虎蔵、という人をあなたはご存知だろうか。しかし、“ムカシームカシーウラシマハー、タースケタカーメニーツーレラレテー“という歌は覚えておいでのはずだ。
 田村氏は亡くなるまでのおよそ40年間、新宿区に居住した小学唱歌の作曲家である。
 明治の頃、文部省編さんの教科書で子どもたちは「気はれて風新柳の髪を梳り、氷消えては浪舊苔の髭を洗ふとかや」といった時代離れしたものを歌っていた。さらに日露戦争による軍歌の流行で乱暴な歌い方がはやった。
 こうした歌の改革をと、氏は「モシモシカメヨ」の納所辨次郎、「夏は来ぬ」の小山作之助らの作曲家と、美しい声、美しい歌を主唱した言文一致体唱歌の創始者である。
 鳥取県出身。同地の師範学校を卒業後上野の音楽学校に学び、明治38年東京高師(現教育大)の助教授となり、翌39年から筑土八幡町31番地に住む。

唱歌 歌をうたうこと。その歌曲・歌詞。小学校で歌を教える授業の教科目名。
田村虎蔵 たむらとらぞう。作曲家、音楽教育家。1895年(明治28年)東京音楽学校を卒業。東京高等師範学校で教鞭。言文一致唱歌を提唱。『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』を作曲。生年は明治6年5月24日、没年は昭和18年11月7日。享年は満71歳。
気はれて… 平安前期の漢詩人、みやこの良香よしかが羅城門を通った時「気霽れては風、新柳の髪を梳る」(天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるようだ)と漢詩を詠むと、「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」(池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭を洗うように打ち寄せる)と楼上から詩の続きを詠む声がした。(『十訓抄』より)
時代離れしたものを歌っていた 本当にこの詩を使っていたのかは不明
納所辨次郎 納所弁次郎。のうしょ べんじろう。作曲家。音楽教育家。生年は慶応元年9月24日(1865年11月12日)。没年は昭和11年(1936年)5月11日。享年は満71歳。
小山作之助 こやま さくのすけ。教育者・作曲家。生年は文久3年12月11日(1864年1月19日)。没年は昭和2年(1927年)6月27日)。享年は満63歳。
言文一致体唱歌 言文一致唱歌。日常に用いられる話し言葉の口語体を用いて歌うこと。20世紀に入り、言文一致唱歌を作成する運動が、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎らによってすすめられた。
師範学校 小学校,国民学校の教員を養成した旧制の学校。
音楽学校 東京音楽学校。1887年、下谷区につくった唯一の官立の音楽専門学校。
筑土八幡町31番地 場所はここ。

筑土八幡町31番地

牛込区全図。昭和5年。筑土八幡町31番地


 当時緑濃い、近くの筑土八幡神社の高台を愛し、境内を散歩しながら曲想を練ったという。
 「金太郎」「浦島太郎」を始め、指に足りない、の「一寸法師」、大きな袋を肩にかけ、の「大黒様」、裏の畑でポチがなく、の「花咲爺」等、今でも愛唱される数多くの名曲がここで誕生したのである。
 氏は作曲活動と共に教育音楽界の指導にも尽力した大御所で、教え子は数千人にのぼるという。昭和18年11月7日、71歳でこの世を去った。昭和40年12月、教え子たちにより、ゆかりの筑土八幡神社の一隅に顕彰碑が建てられ、碑面には“まさかりかついできんたろう”と歌詞と楽譜が刻まれている。
 ところで、あまりにも著名な曲とは対照的に田村氏の名があまり知られないのは、小学唱歌作曲家の宿命なのであろうか。

顕彰碑 功績を記した碑。紀功碑。
まさかり… 金太郎の譜1部分

金太郎

金太郎

城跡と色町

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書いています。この文章は色町たる神楽坂を描いています。

城跡と色町(昭和47年1月)

 「お元日ね、そりゃ忙しかった。ご祝儀は背中に入れてもらうんです。家に帰ってね帯をほどくとバサって落ちるほど」
 神楽坂の待合のおかみ(元芸者・60歳)は全盛時代を振り返る。三業地待合、料理屋、芸者屋の三種の営業が許可された区域)といえば、新宿区内ではまずここがあげられる。だが戦後、町の賑わいは昔日のそれと比すべきもない。三業地そのものが、バー、キャバレーに押されたのも原因だろう。
 もっとも、牛込警察署は、45年秋の交通安全運動で、安全PR用冊子をドライバーへ手渡すのを芸者さんに頼んだほどだから、同署ではまだ、その色気の及ばす効果について、深い関心を寄せているに違いない。
 ここは明治中期から盛んになった所だが、当時その道の案内書のランク付では、一等地は柳橋、新橋で、神楽坂は四等地。が、善国寺(俗に毘沙門さま)の縁日もあって、山の手随一の景況だった。
 昭和初期に至り、その隆盛を新宿駅周辺に奪われ、また、関東大震災の被害を受けなかったので「空襲も大丈夫とタカをくくった」(町の古老)結果、焦土と化し復興も遅れた。ちなみに、昭和4年の芸者の数619、44年12月調べでは171。
 ところで、ここは新宿区内で古い歴史を持つ。およそ400年前には、小田原・北条氏の家臣牛込氏がおり、神楽坂通り北側高台には牛込城があったという。神楽坂5丁目の一部は、家康江戸入国前から町屋があった。北条氏滅亡後、牛込氏は徳川氏に従い、城も廃されたのであろう。
 洋の東西を問わず、城には怨念が漂い、色町は脂粉にまつわる人間模様の舞台となる。その命運において、城跡と色町は何か因縁めくのである。


北側高台 袋町にありました。北側ではないと思う。
脂粉 べにとおしろい。転じて、化粧。

 さて、この文章は簡素なものですが、問題は同時に付く写真です。下の「大正時代の神楽坂通り」はどこなのでしょうか。左手の前方には「琴三味線洋楽器」が見えます。続いて「正確なメガネ」が見え、さらに後方には「ほていや」が見えます。新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば「ほていや呉服店」はかつて肴町(現、神楽坂5丁目)にありました。しかし、これ以外はなにもわかりません。

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

 では、岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」の肴町(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)を見てみると、

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 昭和五年頃、「ほていや」は同じように出てきますが、他に昭和5年頃に「菊岡三味線」が出てきます。写真に出てくる「琴三味線洋楽器」はこれではないでしょうか。しかも、店舗には「岡」の文字が浮かんでいます。その右側に「菊」もすこしだけ写っています。
 さらに逆さまの「岡菊」の隣の店舗は「本」を売っているのではないでしょうか。これは上の写真で店舗には機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。

拡大図(本と三角堂)

 また、神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「三角堂」というめがね屋もありました。右端に「三角」が出ています。店舗の上にも「堂角三」と書いてあるようです。
 もう一つ、虫眼鏡を使って見ていきます。左側から「ほていや」の一軒隣は濱田メリヤス。その次が上田屋履物店。巨大な矢印は? ほかには何もないので不明。〇に翼の生えたようなマークは有名なブランドか、と地元の方。その川崎第百銀行があり、キリンビールがあるのは田原屋でしょう。望楼、つまり遠くを見るための高いやぐらがある建物は不明ですが、白十字か恵比寿亭かも、と地元の方。

大正時代の神楽坂通り

 以上、この写真は肴町(現、神楽坂5丁目)から坂下の方向を見た写真だと思っています。