芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 16.旅行中の死者を供養した碑」では……
旅行中の死者を供養した碑 (光照寺墓地) 光照寺墓地には珍らしい石碑がある。正面に「南無阿弥陀仏」台石に「紀伊国屋」とある高さ約1.3メートルのものである。 神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、諸国からの旅人で自分の旅籠屋内でなくなったものを供養するために、文政8年(1825)に建てたものである。はじめ文政2年(1819)から8年までの7年間の死亡者6年の生国と名前を刻んで供養したのであるが、その後の死者をそのつど 追刻し、天保(1830ー43)まで合計49名の名が刻まれている。旅人で客死する者が多かったことが分るし、旅人の生国、職業などが分って興味がある。 その他墓地には、江戸時代の狂歌師便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓がある。 |

供養 仏壇やお墓などで故人に供物や花を与え、亡くなった人の冥福を祈ること
台石 建築物などの土台として据える石。土台石。礎石。当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は無し。
神田松永町 東京都千代田区の町名。
旅籠屋 はたごや。旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家
紀伊国屋 旅籠屋の主人。紀伊国とは現在の和歌山県全域と三重県南部を占める国。なお、旅籠屋紀伊国屋利八は三井大番頭である紀伊国屋利八(三野村利左衛門、1821~1877)とは違う。
追刻 ついこく。すでにある石碑や版木などに、後年になって文字を彫り込むこと。
便々館湖鯉鮒 江戸時代中期・後期の狂歌師。常圓寺に湖鯉鮒没後の翌年(文政2年、1819)に「三度たく米さへこはし柔かしおもふままにはならぬ世の中」(毎日炊く米飯でさえ、硬かったり柔らかすぎたりで、思うようにはいかない。世の中の事も同じ)という追善供養(死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること)の石碑を建立。