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花袋と紅葉(2)

 花袋は意を決して、当時の流行作家尾崎紅葉横寺町へ訪ねてみたのは、21才の明治24年(1891)5月24日の日であった。それは、泉鏡花に先立つこと、4ヵ月はやい。その当時の出合いを花袋は、『東京の三十年』にこう書いている。
キャラコ三絞の黒の羽織か何かを着て、すり減した下駄を穿いていた。顔のイヤに蒼白い神経性の私は訪問すると、すぐ玄関の二畳――鏡花春葉など後にいた――のすぐ隣りの八畳の座敷へと案内されて通った。その室はやや低い、下にゴタゴタした家屋を見るような小さな庭に面していた。私を導いて通して呉れたのは50位の品の好い老婦人であった、私の胸はドキドキした。(中略)“何うぞ二階へ”こうさっきの老婦人が、やがて入ってきて言った。5月24日新緑が爽やかに日の光にかがやく頃なので、家は皆障子が明け放しされてある。で立って、廊下に出ると、座敷の隣りの長鉢の置いてある六畳の間に、その若い美しい花のような菊子夫人が、白粉を真白につけて、ぱっちりした眼をして此方を向いているのに出会した。私は慌ててお時宜をした。その光景は今でもはっきり、私の目に見える。階悌を上ると、二階は八畳に六畳、明るく初夏の日影の光線が、さし込んで、一六居士(巌谷小波厳父)の書いた新婚の祝の寿という幅物がかかっていたり、ソファが置いてあったり、書籍が、散かっていたり、座蒲団が置いてあったりする向うに、彼のいる机が置いてあって、その前の長火鉢のところに紅葉は坐っていた。
“此方に来給へ”で私は其の長火鉢の前の赤い模様のあるメリンスの派手な座蒲団に坐った。しかし、その座蒲団は噂にきいた菊と紅葉の模様ではなかった。傍には茶器、茶碗、薬綴、そういうものが、本やら雑誌やら新刊書やらと一諸にごたごた散らばっていたが、案内して来た老婦人は茶器を洗うべく、それをかれの手から取っで、下りていった。かれについての最初の印象は好い感じであった。いかにも江戸っ子らしい快活な城府を設けない話し振り、若い文学書生をも別に侮りもしない態度、尠くも私の動揺する心を静めるに十分であった。(中略)一時間ほど、私は話したが、それは大抵忘れて了ったけれど、かれの贅沢な生活、何不足ない生活、いかにも大家らしい応揚な生活。ことに美しい菊子夫人が私の眼と心を強く刺戟した。話をしている最中、その菊子夫人は、めずらしいはしりそら豆の茄でたのを皿に入れて持って来たりした。」

キャラコ インド産の平織りの綿布。丈夫で実用的な布地。白衣、シャツ、足袋などに用いられる。
三絞 不明です。「三絞」とは京都呉服卸の三絞株式会社のこと。「絞りの羽織」とは絵柄部分だけが絞り染めの羽織のこと。
羽織 防寒、礼服、おしゃれなどを目的の長着の上に着る和服の短衣。
お時宜 何かを行うのにちょうどよい時機。中世ではちょうどよい状況・対処。転じて、適当な挨拶。さらに頭を下げる挨拶動作。お辞儀
メリンス 細番手のウールを平織りにした、薄く柔らかい毛織物。メリノ羊の毛で織ったから。
菊と紅葉の模様 菊と紅葉の模様のお揃いの湯飲茶碗の話は有名だといいます。これは尾崎紅葉と菊子の夫婦だからこそ面白かったのでしょう。
城府を設けない じょうふをもうけない。相手に対して、へだてなくうちとける。
尠くも すくなくも。すくなくとも。とにかく
はしり 魚菜などのそれぞれの季節より早めに出るもの
そら豆 マメ目マメ科ソラマメ属。しゅんは4~6月。早熟栽培もあり、収穫は12月から。

 花袋はよっぽどその優雅な生活を羨ましく思ったのであろう。自分の生活は、貧しく、明るい二階もなければメリンスの蒲団もない、そら豆もないと自嘲した。前述の随筆集『椿』には、「紅葉山人を始めて、訪問して帰って来た時には自分の家が此上もない汚ないみじめなものに見えて、情けなかった。畳のデコボコしたのも佗しければ、障子の紙も黒くよごれているのも不愉快であった。私は着物を着換えずに長い間、机の前に坐って、黙って考えていた。(勉強する外仕方がない)こう思って、私は下唇を噛んだ」と、書いているのは、まさに真情であろう。紅葉の門下に迎えられた花袋は、硯友社の機関誌『千紫方紅』に「瓜畑」を載せてもらったし、親切にしてもらったのにかかわらず、反発的な精神があったのは紅葉の優雅な私生活への抵抗がその基因をなしていたものであろう。
 花袋はその後もしばしば、紅葉を訪ねた。新聞の連載物を書いているときは居留守もつかわれたようである。でも気さくな紅葉は、途中で出会うと、「ぼくの家に来たのかえ、これから弓に行くんだ、一諸に行きたまえ」と、誘ったということだ。当時行きつけの道弓場は、俗称獅子寺といわれた、横寺町法善寺境内にあった。この獅子寺の由来は、徳川家光が、酒井邸から帰途獅子の置物を置いていったことからそれ以後こう呼ぶようになったもの。
 それはともかく、間もなく花袋と紅葉は疎縁の仲になっていく、それはある日花袋が紅葉に向って「尾崎君」と不意に口をついて出た言葉に弟子に対して厳格そのものの「我意の人」といわれた紅葉の逆鱗に触れたのであろう。
 紅葉はいわゆる江戸っ子気服のよい人間であっだらしく、後輩の面倒をよく見たようであるが、「3尺さがって師の影を踏まず」といった、厳しい一面があった。紅葉の小品「青葡萄」の中の師弟観はまさしくそれである。
千紫方紅 せんしばんこう。色とりどりの花が咲きみだれること。雑誌は、成春社。1号(明24.6)から9号(明25.4)まで。以降廃刊。
瓜畑 うりばたけ。うりの植えてある畑。瓜田かでん
気さく 性質や人がらが、さっぱりしてこだわらないさま。
獅子寺の由来 保善寺によると「徳川三代将軍家光公との因縁によるもので、家光公が当寺に来た折、獅子に似た猛犬を下賜され、以来『獅子寺』と呼ばれるようになった」
疎縁 疎遠。遠ざかって関係が薄いこと。音信や訪問が久しく途絶えていること。
我意 がい。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。わがまま。
逆鱗 げきりん。はげしく怒ること。ふつう、目上の人が怒る場合に用いる。
江戸っ子 生粋きっすいの江戸市民。特徴はいきで勇み肌、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさ、浅慮でけんかっ早いなど。
 気質。気性。「研究者肌」「肌が合わない友達」
気服のよい 正しくは「気風きっぷが良い」。性格や心意気が男らしくで清々しい
3尺さがって師の影を踏まず 弟子は、師に敬意を払い、師の前では控えめにふるまい、同行する場合は影を踏まないように離れて礼節を尽くすべきである。

十千万堂日録|尾崎紅葉

文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。
 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。
夜、小栗風葉を招いたが、口述の編集について聞いてきたい所があったからだ。2人ともに連れ会って、泉鏡花を訪ねた。愛する芸者を家に入れたとを知ったからだ、鏡花の過ちをいさめ、同意させたいと思ったが、知らないと言い張り、真実を吐かなかった。私は怒って帰った。十時になって、風葉もやってきた。右の件につき、再度、鏡花の兄弟を枕頭に招き、厳しく諫言した。十二時頃、放ち還す。疲労は甚しく、怒りののしる元気は薄い。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。
直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。当時の10円は今でいう10万円ぐらいだと、このホームページで。