新宿区の「居住の地」でもいったんボヘミアに出て行くと、それからはわからない。
でも、結局、年表はありました。なるほどそうだったんだと判明するものもありました。年表は、折井美耶子と新宿女性史研究会編の「新宿 歴史に生きた女性100人」(ドメス出版、2005年)に出ていました。以下はその「女性100人」と年表です。
ヨーロッパ貴族と結婚した日本女性 クーデンホーフ光子(くーでんほーふ・みつこ) クーデンホーフ光子は、ヨーロッパ貴族に見初められ正式に結婚した初めての日本女性である。また二男リヒアルトが構想した「汎ヨーロッパ」思想とその運動が、今日のEU統合に発展したことから「欧州連盟案の母」とも呼ばれた。 光子は、佐賀県出身の商人で骨董屋と油屋を営む父青山喜八と母津弥の三女みつとして、1874(明治7)年、牛込区牛込納戸町26番地に生まれた。当時の裕福な商家の町娘がそうであったように光子も稽古事を広く習得していたが、年ごろになると芝に和風の高級社交場として開業した紅葉館で働くようになり、三味線、琴、茶の湯、和歌、絵画などの素養もここで身につけたと思われる。 |
汎ヨーロッパ思想 汎ヨーロッパ主義。汎欧州主義。Pan-Europeanism。欧州の平和や統合を主張する思想や運動。欧州全体を一体的に捉え、1つに統合し、一体性を高める思想
EU European Union。欧州連合。外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体。27か国が加盟。
牛込区牛込納戸町26番地 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の明治20年では赤い3角形です。このなかの公園に「クーデンホーフ光子 居住の地」の史跡があります。
この下図を見ると。26番地には2軒か1軒しかありません。おそらく26番地は1軒で、巨大な青山家だけあるのでしょう。ちなみに、ハンガリー公使館は青い四角です。
紅葉館 芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。1881年に開設、1945年3月の東京大空襲で焼失、跡地には東京タワーが立っている
92年2月、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が日本に赴任した。当時ハンガリー公使館は牛込納戸町28番地にあったことから、おそらく伯爵が近くにあった光子の父親の店を訪れたのが二人の出会いになったと思われる。また納戸町の坂で落馬した伯爵を光子が助けたというエピソードもある。光子は背が高く群をぬいた美少女であったようで、二人はまもなく結婚した。光子17歳、ハインリッヒ32歳であった。 クーデンホーフ・カレルギー家は、ヨーロッパを通じての旧家であり、ハプスブルク王家にもっとも近い名家である。夫は父の跡を継いで外交官の道を歩み、18ヵ国語を操り、政治、外交にも優れた才能に恵まれていた。二人の結婚は当然両家の猛反対にあった。 |
92年2月 明治25年です。
牛込納戸町28番地 青い三角形です。
納戸町の坂 中根坂でしょう。
エピソード シュミット村眞寿美氏は「ミツコと七人の子供たち」(講談社、2001年)で…
次男のリヒアルトは、「私たちの両親は、自分たちの出会いについての話を、全然してくれなかった。そこで私としては、私の両親や友人や、同時代の人々について詳しい木村毅の言葉を借りることにする」(『美の国』)として、有名な「落馬事件」に言及している。……凍てつく牛込の道で落馬した異国の青年を助けて看病した勇敢な美少女が光子で、これをきっかけに二人は愛し合うようになった……という伝説である。 その木村毅は、「……出会いについては、一つの挿話が語られている」と前置きして、この出来過ぎた話を、事実だとは断言しないまでも、異人に対しても躊躇しなかったのは、紅葉館時代に受けた訓練のたまものと光子をほめて、まとめている。ほめられるような話だったら、なぜ光子自身が手記に書き残さず、子供たちにも語らなかったのだろう。 木村毅も執筆している「国際時評」の同時代人吉岡義二などは、 「ときは今をさかのぽる明治23年の正月のこと、松飾りも凍り付くばかりの寒気の問屋町の朝まだき、騎馬の蹄の音たかく通りかかったのは、見るからに気品ある若い異国の貴公子、ある店先で馬は何に驚いたか突然跳ね上がったとたんに、氷に蹄をすべらせて人馬もろとも路上に横倒しになった。人々は傍観するまま、そこへ店舗の奥から、みめ麗しい十七、八の乙女がかけ寄って、われを忘れて介抱し……」 と、まことしやかに書いている。 |
結婚した翌年長男ハンス(光太郎)が生まれ、翌々年には二男リヒアルト(栄次郎)が生まれたが、戸籍簿には私生子として記載されている。その後夫が父の急死を機に帰国することになり、ようやく結婚の許可も得て妻、子どもとして認められた。渡欧に先立ち皇居で皇后から「日本人としての誇りを忘れないように」との言葉と象牙製の立派な扇が贈られ、これが光子の一生の支えになったという。 96年1月、光子は牛込生まれの長男、二男とともに夫の故郷ロンスペルクヘ出発した。夫はボヘミアとハンガリーにある伯爵家の広大な上地や莫大な財産を管理するために外交官を退官し大地主としての生活を営むことになった。針のむしろに座すような周囲の目が厳しいなかで、光子は語学を始め立居振る舞いなど完全にヨーロッパ流に再教育され、七人の子どもの母となった。 1906年、夫ハインリッヒが心筋梗塞のために46歳で急逝した。遺言状による膨大な遺産相続、子女教育の責任者という立場が光子を一変させ、優しく忍耐強かった光子は厳格で専制的にすらなったという。光子は子どもの教育のためにウィーンの宮殿近くに移住し、亡夫の精神を継いで子どもたちにヨーロッパ人としての最高の教育を受けさせる一方、自分はウィーン社交界の花として人々を魅了した。香水「ミツコ」はこうした光子をイメージして名づけられた。7人の子どもたちはみな多方面に活躍するが、とくに二男のリヒアルトは23年に『パン・ヨーロッパ』を出版、ナチスに命を狙われながらも欧州統合運動に奔走した。 光子は、病と孤独のなかで再び日本の地を踏むことなくウィーン郊外で67歳の生涯を終えた。(藤目幸子) |
ロンスペルク Ronsperk。西ボヘミア(現チェコ共和国)のロンスペルク村。ドイツ国境に近いこの小さな町は、チェコ語で正式名称を「ポビェジョヴィツェ」という。
香水「ミツコ」 ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ光子に由来するものではなく、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコという。しかし、ジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ光子の名前を知らなかったということはなかろうと、ゲラン社フレグランス・エキスパートの社員が自社のコラムに記述しています。
この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子[青山みつ](1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。 光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。 渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト[栄次郎](1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。 |
年日 | 年齢 | 出来事 |
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1874(明治7年)7.16 | 0歳 | 東京市牛込区牛込納戸町で、青山喜八と津弥の三女として生まれる。 |
1881(M14) | 7歳 | 高級社交場である紅葉館が東京芝に開業。光子、一時働く |
1891(M24) | 16歳 | 紅葉館退職。光子、家業の骨董屋を手伝う |
1892.2(M25) | 17歳 | ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、オーストリア・ハンガリー帝国駐日代理公使として来日。3月ハインリッヒと光子結婚。ハインリッヒ32歳、光子17歳 |
1893.9(M26) | 19歳 | 長男ハンス東京で生まれる。ハインリッヒの父フランツ・カール死去 |
1894.11(M27) | 20歳 | 二男リヒアルト東京で生まれる |
1895(M28) | 21歳 | 教会で結婚式を挙げる。3月正式入籍。7月カトリックの洗礼(マリア・テクラ)を受ける |
1896.1(M29) | 21歳 | 宮中参賀で皇后に拝謁。夫の領地ロンスペルクヘ。三男ゲロルフ出産 |
1898(M31) | 24歳 | 長女エリザベート出産 |
1900(M33) | 26歳 | 二女オルガ出産 |
1901(M34) | 27歳 | 三女イダ出産 |
1903(M36) | 29歳 | 四女カール出産。光子、喀血し肺結核と診断 |
1904(M37) | 30歳 | 南チロルの結核療養所に入る |
1905(M38) | 31歳 | 修復の終わったロンスペルク城に戻る |
1906.5(M37) | 31歳 | ハインリッヒ急逝、46歳。遺言により包括相続人、および子どもたちの後見入になる |
1908(M41) | 34歳 | ウィーンに転居。社交界で活躍 |
1914(T3) | 40歳 | 第一次世界大戦勃発。ストッカウの城に戻る仮設病院で娘だちと奉仕活動。長男、三男は戦場へ。二男リヒアルト、女優イダ・ロ-ランと結婚 |
1920(T9)前後 | 46歳 | 二女オルガを伴ってウィーン郊外のメードリンクへ移住。日本の要人が頻繁に光子を訪ねる |
1923.10(T10) | 49歳 | リヒアルト著『パン・ヨーロッパ』出版 |
1924(T11) 秋 | 50歳 | 脳卒中の発作で右腕が麻庫、右足弱る、以後、娘オルガが代筆 |
1926(T15)10 | 52歳 | 第1回パン・ヨーロッパ会議開催。リヒアルト、パン・ヨーロッパ連盟の会長に選出 |
1941(S16)8.28 | 67歳 | 2度目の脳卒中発作にて死去。ウィーンのカレルギー家の墓地に葬られる |