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松ヶ枝(写真)昭和54年 ID 72-73 (ID 11841-42)

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 72~73とID 11841~11842までは、昭和54年(1979年)1月5日、料亭「松ヶ枝」を撮ったものです。後者の二枚のほうが、よりよく撮れています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 72 料亭玄関

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 73 料亭玄関

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11841 神楽坂 料亭

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11842 神楽坂 料亭

 実は区の「松ヶ枝」の写真は多く、たとえば

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

 2つ門が出ていますが、左の門は正門(表門)、右の門は勝手口(通用門、潜り戸)です。
 1974年12月の『サンデー毎日』では

 格子戸つくりの表門。その門の左の端に、木の札に『松ヶ枝』と格調高い筆跡で書き記された表札がかかっている。格調高いの道理、何とこの表札は、かの名画家・川端竜子の筆になるもの――などというのも、実は先入観のうち。(中略)
 驚くべき点の第一は、この料亭が何とユウレイに買われたものであるということ。
 ユウレイといっても、ユウレイ会社のことなのだ。室町産業と並んで、いまや知らぬ人とてない かの新星企業。設立発起人・田中角栄、資本金六憶円にして社員はゼロ、専用電話もないというこのユウレイ会礼が、一昨年の六月に、この商級料亭を買ってしまったというのだから、これはオドロキ。
 ユウレイの正体は、田中サンであるというのは日本の常識ですから、これすなわち、現職の総理大臣が料亭を貿って自分のモチモノにしちまったというオハナシ。お値段は、四億円とも、五億円とも。
川端竜子 かわばたりゅうし。日本画家、俳人。本名は川端昇太郎。生年は明治18年6月6日、没年は昭和41年4月10日。
新星企業 田中ファミリー企業群の1つ
田中角栄 実業家・政治家・建築士。第64・65代の内閣総理大臣。出生は大正7年5月4日、没年は平成5年12月16日。

 創業者はおたけさんで、創業は明治38年。お竹たけさんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。
 また『神楽坂まちの手帖』第12号(けやき舎、2006年)では

 松さん、竹さん、梅さんという三姉妹がいたことで有名。末娘、梅さんの切り盛りで全盛期を迎えるも、梅さんが亡くなったあと持ち主が変り、実質的な営業を終了。数年後に取り壊され、現在はマンションに変っている。

       ●思い出語り●
 私たちは出入りの業者ですから、正面からは入りませんよ。塀の右端のほうに勝手口があってね、そこから入ると庭に出るんです。そこで作業してると女中さんが出てくるから、花を渡して出てくる。それでも夕バコ銭ってくれるんですよ。懐紙にいくらか包んでね。あの頃の料亭さんはみんなそうだったけど、松ヶ枝は額も多かったからね。盆や正月になると更にはずむでしょう。仲間内で喧嘩になるんですよ。「俺が行く」「いや俺だ」ってね。(田口生花店、寺田司郎さん)
夕バコ銭 タバコ一箱分くらいのわずかの金。小遣いや心付けなどに使う。

 廃業後、松ヶ枝駐車場を4つに分割しました。

松ヶ枝駐車場跡。4つに分割。元はGoogle。

東京気侭地図3|神吉拓郎

文学と神楽坂

 表通りと、一本東側にある軽子坂、この間に挾まれた、大久保通り寄りの一画、このあたりは、神楽坂の空気に、独特のうるおいと彩りを添える花街である。坂を上って行って毘沙門さまのちょっと手前の向い側、そこを右へ曲ると、昔からの本多横丁といわれる小路だが、そのあたりの北側、筑土八幡へ抜ける道から、大久保通りにかけては、入り組んだ石段と小路の続く、迷路のような地帯だ。
 道幅は、どれも狭い。来合せる人があれば、肩を斜めに、すれ違うのに気を遣うほどの細道だ。表通りの神楽坂は、今はもうコンクリートの舗装になってしまったけれど、このあたりの小路には、昔ながらの石畳、扇面状に小さな角石を敷きつめたそれが、まだ残っている。
 気の向くままに右に折れる。と、そこに数段の石段がある。それを下りると、先は行きどまりである。
 行きどまりと見えて、小路は左へ折れる。塀と塀の(あわい)の、まっすぐ向いては歩けないような細い道に、軒灯と、格子戸がある。
 小路は、ひんやりとしている。どこからか風が通ってくる。
 また石段。まんなかが磨りへっていて、靴が滑りそうになる。
 角を曲ると、華やかな色彩が目に入る。若い母親が、子供を遊ばせている。気がついてこっちを見る視線は、軽くいぶかしげだ。
 ぼくは、内心、知らぬ家の庭先に踏みこんでしまったかと、恐縮したいような気持になる。
 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。
 この一画の小路には、行きどまりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。
 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた家号の字は、くっきりと読みとれた。
 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。
 ぽくは、まるっきりの下戸だけれど、呑んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

神楽坂の通り

表通り 神楽坂通りのこと
軽子坂 軽子とは軽籠持の略称で、船着き場などで荷物運搬を業とする人。軽子がこの辺りに多く住んでいたため、名前が付きました。
大久保通り 新宿区飯田橋交差点から、新宿区神楽坂上交差点を通り、杉並区大久保通り入り口交差点まで。
一画 土地などの、ひと区切り。一区画
花街 はなまち。花町とも。かがい。芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。
本多横丁 神楽坂通りの最大の横丁
筑土八幡 筑土八幡神社のこと。赤丸で書いてあります
地帯 ここをどう呼ぶのがいいのか、2005年になっても正式名称がありませんでした。水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁」を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その名の通り、現在、これは兵庫横丁と呼んでいます
行きどまり 兵庫横丁の一見行きどまりに見える路地。さらに先を左側に行くと抜けられる道があります。兵庫横丁の行き止まり
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり
格子戸 こうしど。格子を組んで作った戸